第四話 孤独の闇夜に射し込むひかりは①
駆け去ってゆく朔夜の背を追いかけたかった。
だが百瀬は、朔夜が角を曲がるときまで目を逸らさずにいながらその場を動かず、彼女の気配が完全に遠ざかったあとに、ゆっくりと半身を後ろへ向けた。
百瀬の視線が、そこにいた新を引き留める。新は朔夜の去ったほうをちらりと見て、面白くもなさそうに百瀬へと目を移した。
「朔夜は、もう君に用事はないよ」
「お前では話にならない。主人のほうでなければ。しかし」
新が百瀬を上から下まで不躾に眺め回す。辺りはもうずいぶんと暗いが、霊力を持つものらしく、彼も夜目が利くようだった。
「お前も、なぜ大人しく従っているんだ? 彼女のあの様子では、契約を解くこともできように」
「君には関係のないことだよ」
「お前が望んでいるから解けない、か? だが主人は彼女のほうだ。お前は彼女を騙しているのだろう」
新を不快に思いながらも、百瀬は眉ひとつ動かさなかった。彼ごときに自分が何を言われたって、表情を変えるほど感情を傾けたりなどしない。
百瀬の心を揺さぶるのは、朔夜だけだ。
あの、闇の中にきらめく星のような淡く優しい瞳、そっと肌を撫でる風のように心地よい声音、翼を思わせる自由でしなやかな体。
生きとし生けるものを包み込むようなその心。
何より、初めて出会ったあのとき、百瀬の呼びかけに応えてくれた、あまりに柔らかな魂の震え。
彼女と出会い、ともにいられるだけで、胸が震える。百瀬にとって朔夜は、そこにいるだけでこの世のすべてが輝いてみえるようなひとだった。
「お前は何を企んでいる? 欲望のまま人を手に掛けるだろう、お前のような化物は」
「千年くらい時代遅れじゃないかな」
言ってから、百瀬は体ごと向き直り、新と正面から対峙した。
「僕たちは君ほど愚かじゃない」
そこでふと口をつぐんだのは、新の怒気が膨れ上がったからではない。突然近くで大きな羽音が聞こえたかと思えば、見えない壁を壊したかのように、新との間に鳩羽の姿が現れたからだ。
「……鳩羽さま?」
「朔夜のものじゃ」
鳩羽が百瀬に手渡したのは、手のひらに納まる小さな印籠だった。黒漆に金蒔絵で梅の枝があしらわれた印籠に見覚えはなく、朔夜の趣味でもない。鳩羽の持ち物だろう。目線で促されて蓋を取ると、朔夜の気配を強く感じた。入っていたのは折れ針だ。
針は朔夜の血を吸っている。その強い力のおかげでほかの気配は残っていないが、朔夜がいつこの針を使ったか、百瀬には心当たりがあった。そしてこんなものを、朔夜がうっかり忘れるはずはない。
「なぜ僕にこれを?」
「私も、あの子の身が心配じゃからな」
百瀬は針を見下ろしてため息をついた。新をちらりと見やり、すぐに目を逸らす。その視線は折れ針に引き寄せられ、百瀬の脳裏には朔夜の姿がうかび、もどかしさと焦燥が胸を疼かせた。
「これはお主に預ける。邪気は祓ってあるから、お守り代わりになるじゃろ」
鳩羽は印籠の蓋を閉じ、百瀬に手渡して腕を組んだ。
「我々に与するなら、そういうモノも、お前たちだけで対処せずに済むぞ」
新はいかにも得意げな笑みをうかべ、自信にみちた口調で言う。
「君たちに使役されるつもりはない。あの子に役目なんて与えたら、際限なくその身をすり減らすのだから」
朔夜を騙したというのは、その通りである。本当に契約で縛られているのは朔夜のほうであって、百瀬がそう仕向けた。そのことに、多少の後ろめたさはある。
朔夜がいなくては、百瀬は生きられない。体も、心も。
朔夜にもそうなってほしかった。
「自分の命は自分のために――なんて言っていても、あの子は誰かのためにその身を呈することに、何の躊躇いもない」
自分の手を見下ろして、百瀬は、いつも手を繋いでくれる朔夜の、小さくて柔くて冷たい手のひらを思い返していた。
口ぐせのように『普通に幸せになりたい』と言うわりに、ちっとも行動がそぐわないのが朔夜だ。
「……『誰か』のためになんて、許してあげられない」
誰に向けるでもなく低くつぶやき、ひとつ呼吸を挟んで、あらためて新へと視線を向けた。
「朔夜が自分の幸せをかえりみないなら、それをあげるのが僕の役目だよ。……欲望のままというのが間違いではなくても、僕は、朔夜を幸せにするために……」
新を前にしていても、頭にうかぶのは朔夜のことだけだ。幸せにしたいのに、幼い朔夜を騙し、今も欺き続けている後ろめたさが、彼女を泣かせてしまった。
新に晒したくない弱音は飲み込み、顔を上げて彼を見据える。
「君が朔夜の幸せの妨げになるなら、僕は……」




