第三話 いにしえの契約とふたたびの罪⑧
「『百瀬』」
百瀬の睫毛が小さく震えた。紅い瞳がぎこちなく動き、やがて朔夜をとらえる。
朔夜の霊力は朔夜の身に馴染みすぎて、あえて言葉で御するには向いていない。普段は感覚で操っている。
その頼りない朔夜の言霊が、この世で唯一、何より強力に効く相手。
「『やめて、百瀬』」
その瞬間、荒れ狂っていた霊力は、水をかけられたろうそくの炎のように落ち着いた。百瀬の紅い瞳は朔夜をじっと見つめていたが、朔夜を見ているのではない。今、彼の目に映っているのは彼を従える主で、彼は静かに、主が次に何を言うかを――命令を待っている。
「…………」
百瀬に言葉をかけようとしたけれど、できなかった。
主である朔夜に、百瀬は絶対服従だ。そこに彼の意思はない。強すぎる霊力を御するほどの彼の強靭な意思も、朔夜の言霊がねじ伏せる。
今の百瀬に何かを言えば、彼を縛る呪いになってしまう。
「……百瀬」
迷ったすえに、祈りに代えて名を呼んだ。言葉にすればすべてが命令になりかねない関係のなかで、朔夜が口にできるものはそれだけだった。
名は、原初の祈りでもある。
そのひとに、そのひとであってほしいという祝福。
「百瀬」
水の流れゆく先があまたあるように、あらゆる可能性がある。そのどれかを選んで生きてゆく。
選ぶのは百瀬だ。
何者であるかも、どこで生きるかも、何もかもすべて、決めるのはほかの誰でもなく、百瀬であるべきだ。
「百瀬」
みたび彼を呼んだとき、ふっと百瀬の目が瞬いた。苛烈な真紅の色が薄れ、静かな漆黒が戻ってくる。
「……朔夜……」
掠れがちの声で、ひそかなため息のようにそっと朔夜の名を口にした百瀬へ、朔夜は黙って微笑み返した。
それを見た百瀬は安堵を滲ませて静かに笑う。
その静謐さにどことなく不安をおぼえるけれど、百瀬と言葉をかわすひまもなく、無粋で不快な口出しが割りいってきた。
「許嫁などと言うからどうしたものかと思ったが、結局首に縄をかけて握っているんじゃないか」
「だからあなたは化物を見誤るのよ」
朔夜の声音は静かだった。静かすぎて、あらゆるものを停滞させる。
空気を凍らせ、生きものの息吹のすべて、この世を巡る気の流れすら止めてしまうほどの冷気。それがじわりと周囲を侵し、新が眉を寄せたところで、朔夜は力を収めた。
危機が去ったとわかるやいなや、新が姿勢を緩め、腕を組んで朔夜を睨む。
「それだけの力、人のために役立てるべきだとは思わないのか。帝都が危機にさらされていると言ってもなお、君は知らぬふりをするつもりか?」
「あなたのような人が、人々を救う英雄になるのでしょうけれど」
朔夜は無感動に返し、それから胸にゆるく握ったこぶしを当てた。
「私は、私と私の大切なひとのためにこのいのちを使うわ」
新を一瞥したのち、視線を百瀬へと移す。
このひとのために。
それが朔夜にできるたったひとつだ。
百瀬は凪いだ瞳で朔夜の視線を受け止めていて、何を思っているかわからなかった。自分たちのあいだにはそういうことも少なくはないと、朔夜はほろ苦い気持ちをなだめる。
「もう話すことはないでしょう。では、ごきげんよう」
「お前の思い通りにいくかな」
朔夜がきっぱり話を終わらせたら、新は挨拶を返さないどころか、捨て台詞をつぶやいた。無視して踵を返し、朔夜は百瀬を連れてその場を離れた。




