第三話 いにしえの契約とふたたびの罪⑥
鳩羽の家からの帰り道、家も近くなってきたところで、朔夜と百瀬は奇妙なものに出くわした。
慣れた道だから警戒もせず一度は通り過ぎ、違和感に足を止める。
「なに……?」
通り過ぎた道を振り返る。空には夕暮れが広がり、東の端は紫から濃紺へと色を変えていた。
一見して、おかしなところはない。
「朔夜、どうかした?」
「……何かある」
直感を否定せずに目を凝らし、そうして、景色にわずかなほころびを見つけた。近くの塀に、継ぎ目のようなものがあった。
「…………」
朔夜はゆっくりとそこへ近づき、途中で立ち止まった。
道がある。
塀が続いているはずの場所が途切れ、人ひとりがどうにか通れそうな細さの路地が、見つけた者を誘い込むように伸びていた。顔を上げて左右の途切れた塀やその奥の民家を確かめると、道に引き裂かれているということもなく、いつも通りの景色が見える。だが正面に視線を戻せば、確かに道ができているのだ。
「ここに道はなかったわ」
朔夜が声に出すと、道がぐにゃりと歪む。しかし、消えるまではいかない。数歩先はすぐ暗闇に包まれ、道の先に何があるのかは、目に霊力を集めてみても見えなかった。
「…………」
こんな住宅街の真ん中に、正体がわからないものを残してはおけない。
息を詰め、身構えながらも歩き出そうとしたとき、突然後ろから手を引かれてつんのめった。そのまま腕を絡めとるように後ろに引き寄せられ、体勢を崩した朔夜は、足をもつれさせたまま身をゆだねるしかない。
「『ここに道はない』」
穏やかだが、凛然とした声が告げた。いつもの歌うように優美な響きはなく、相手を屈服させる厳かさが空気を震わせる。
そのとたん、ガラスを引っ掻くような甲高く不気味な悲鳴がこだまし、途切れていた塀が閉じた。
存在を否定され、消滅したのだ。朔夜には抗ってみせたが、朔夜よりも強力な言霊には敵わなかったようだった。
「危険がすぎる、朔夜。二度としないで」
聞いたこともないほど硬い声がし、後ろから朔夜を抱きしめていた力が強くなる。
「力が簡単に通じないなら、危ないとわかっていたでしょう、どうして無謀なことをするの」
「……放っておくわけには、いかなくて……」
きつく抱かれて呼吸が苦しく、自分で思ってもいなかったほど弱々しい声になった。いつもなら朔夜の様子に気づいてすぐに力を緩めてくれるような百瀬が、今はますます締めつけてくる。
どうしていいかわからず視線をさ迷わせ、『道』があった場所に目を留めて、今さら背すじがぞっとした。
朔夜は、百瀬ほど強い言霊は使えない。けれど邪を祓う力は強く、言霊が通じないからといって、相手より弱いとも言えないのは確かだ。
そうであっても、ひとりで相手の領域に踏み込もうとしたのは、百瀬の言う通り無謀だった。
「ごめんなさい……」
謝ってから、はっとして百瀬の顔を見ようと身を捩った。それを嫌がるようにさらに力を強められ、不安が募る。
「百瀬……百瀬は、大丈夫なの? 苦しいところはない?」
怪異を一瞬で圧倒するほどの強い力を、百瀬に使わせてしまった。自分を抱く百瀬の腕を縋るように掴むと、百瀬がそっと朔夜の耳に唇を寄せる。
「平気だよ、朔夜がそばにいるのだから」
低く落ち着いた声で、朔夜をなだめるように言った。
「それより」
その声が、また不穏に唸るような響きを帯びる。
「今の怪異、朔夜を狙っていたんだ。僕には見えなかった。朔夜が怪異に呼びかけるまで」
「私の言霊も、完全に通じていないわけじゃなかったのね」
「朔夜の力と人の言葉は相性がよくないから……」
百瀬は怪異を仕留めそこねた朔夜をそう慰め、ひとつのため息を挟んで、また強く抱きしめてきた。
「百瀬、少し痛い」
「……ごめんね」
口では謝るくせに、ちっとも力を緩めてくれない。朔夜が諦めて体の力を抜いても、百瀬はびくともしなかった。
「こんな罠を朔夜に仕掛ける人間なんて、限られてる」
「人間なの?」
「心当たり、あるでしょう」
それが誰かと言われれば、朔夜とて思い浮かぶ人はいる。
「……人間と争いたくはないのだけれど」
「僕はそうでもないよ」
「百瀬」
涼しい顔で言うのを咎めて名を呼び、首をひねって見上げても、百瀬は変わらぬ表情で朔夜を見返してきた。
「何であろうと、朔夜に害をなすなら」
彼は伏し目にしていた視線をすいと上げ、もの静かながら陰のさす昏い瞳で前方を見据える。




