第三話 いにしえの契約とふたたびの罪④
「百瀬……?」
朔夜の声に応じて、小鳥はふわりと鳩羽の手から飛び立ち、羽ばたきもなく宙を横切って、差し出された朔夜の手のひらへおさまった。触れた瞬間から溶けるようにその姿がほどけ、指先に百瀬の霊力がじわりと染みてくる。
「朔夜を探してきたのじゃな」
きっと、間もなく本人もやってくる。どうやってか朔夜の行動を知り、式を飛ばしてきた百瀬の気持ちは、彼の霊力が伝えてきていた。
小鳥の消えた手をそっと握って反対の手で包む。
「百瀬って、過保護なんだから……」
「朔夜が大事だからじゃろう」
「そんなこと」
わかっている、と言おうとして、朔夜は言葉を飲んだ。
それは当たり前に言えることではなくなってしまっていた。
朔夜の様子を見て、鳩羽がもの思わしげに目を細める。朔夜はついうつむきかけ、しかしその顔をはっと部屋の外へ向けた。
「……百瀬」
小さく名を呼ぶのと、百瀬が飛び込んでくるのとが、ほとんど同時だった。
「いらっしゃい、百瀬」
鳩羽が声をかけるのに、百瀬は鳩羽を見もしない。
「……朔夜。学校を……早退したんでしょう。何があったの……?」
百瀬は息が整わぬままに問いながら、鳩羽には目もくれず朔夜のすぐそばに膝をついた。どのくらい走っていたのか、呼吸はうわずり、黒髪は乱れて、肌は汗に濡れている。
「大丈夫……」
それが仮病であることは百瀬にもほとんどわかっているだろうに、彼が朔夜を案じる眼差しは真摯に見えた。
「心配をかけて、ごめんなさい、百瀬」
「どうしてここに?」
朔夜の体に問題がないと知って息をついた百瀬が、まだ荒い息のまま視線を上げて鳩羽を見やる。百瀬の視線を追って朔夜が振り向くと、鳩羽は肩を竦めつつ湯呑みでお茶をすすっていた。
「こんにちは。お邪魔しています、鳩羽さま」
「うむ……」
何か言いたそうにしたものの、また湯呑みに口をつけて沈黙を選んだ鳩羽と、気まずくうつむきがちな朔夜とを見比べた百瀬が、かすかに眉を寄せる。彼は朔夜の肩にそっと手をかけ、身を縮めて顔を覗き込んだ。
「朔夜?」
「うん……。なんともないの。ただちょっと、息抜きがしたくて」
「珍しいね」
百瀬の指摘に、朔夜は後ろめたさを抱えたまま首を横に振った。
「友だちにはしづらい話も、あるもの」
ため息をひとつこぼしつつ顔を上げる。思っていたより百瀬の顔が近く、とっさに身を引きそうになった朔夜を、百瀬は背を抱いて引き留めた。いつもより熱い百瀬の腕から熱が染みて、朔夜まで体温が上がるかのようだった。
「何か心配事? 僕を待てないようなこと?」
「いいえ。なんとなく学校には居づらいなって、そういう気分だっただけ」
百瀬が鳩羽を眼差しだけで一瞥する。鳩羽は、こういうときに余計なことは言わない。朔夜も、そして百瀬も彼を信用しているからこそ、かえって疑念は解けないようだ。
「朔夜……」
百瀬の目にかすかな苛立ちがうかんで、真紅が滲み出す。朔夜ははっとして百瀬の腕を掴み、つり込まれるように彼の目を覗いた。
そこに彼の本心が見えた気がして、よく知りたかった。
「怒ってる?」
「違う」
百瀬は朔夜の肩を支え、そのまま一緒に座り込んだ。朔夜をゆるく抱き寄せながら、まだ整いきらない呼吸のなかで、ひとつ息をつく。
「朔夜が無事でよかった」
いつも白くてさらりとしている百瀬の肌が、今は紅潮して汗ばんでいた。長く乱れたままの呼吸と、常になく熱い体温で、百瀬がどれほど必死に駆けてきたかを感じ取り、居た堪れなく胸が痛む。
「少し寄り道をするくらいで心配しすぎよ。それも、鳩羽さまのところなのに」
時代が変わったとはいえ、いまだ女学生がひとりで歩き回れるほど街は寛容ではない。でも朔夜は、普通の人の目にはつかないよう移動する道を知っていて、たとえ誰かに襲いかかられたとしても身を守るすべを持っている。
しかし、百瀬は何かを考えるように沈黙し、代わりに鳩羽が口を挟んだ。
「私のことが信用できんようじゃのう、百瀬は」
「違います。僕のいないところで、鳩羽さまを頼らざるを得ないような何かが、朔夜の身に起こったのかもしれない。そう思って……」
問いかけを躱された鳩羽が肩をすくめ、湯呑みの中身を飲み干した。そしてどこからか徳利を取り出し、空いた湯呑みに金色に光る不思議な液体を注いで、百瀬に差し出す。
百瀬は素直に受け取って唇をつけた。
光って見えるのは鳩羽の妖力で、普通の人には白湯にしか見えないだろう。
「飲ませてよかったのかえ?」
黙って見守っていた鳩羽が、ふと朔夜に向って問うた。朔夜は手のひらで湯呑みを転がす百瀬を見、鳩羽を軽く睨む。
「私では、鳩羽さまほどうまくできないし」
百瀬が少しぼうっとしているのは、濃い鳩羽の妖力を身に馴染ませているためだ。荒かった呼吸や上がった体温が、少しずつ落ち着いていく。
「それに、私が咎める理由もないもの」
力を与えるものと、与えられるもの。そこにはときにひとかたならぬ関係が生じることもある。妖力を取り込ませて眷属にすることは、昔からおこなわれてきた。
ほのめかす鳩羽に、朔夜は首を振った。鳩羽に本気で百瀬を眷属にするつもりがあれば、朔夜を殺すしかない。自分と百瀬の関係――あやまちを鳩羽にうち明けたことはないが、どうせ彼にはわかっているはずだ。そう知っているから、たちの悪い揶揄いにすぎない。
「百瀬、大丈夫?」
しばらく芒洋としていた百瀬が瞬きをして視線を上げる。朔夜を見つけ、恥じ入るように弱く笑った。
「いつも、朔夜や鳩羽さまに助けられてしまうね」
百瀬の霊力は、神代まで先祖返りを起こしたと言われるほど強く膨大だ。いっぽうで、その身はただびとに近く、力を受けとめる器としては脆すぎる。
ひとたび力が乱れれば、彼自身で収めるのは困難であった。
「私……鳩羽さまみたいに、器用じゃないから……」
力の扱いは、年の功で圧倒的に鳩羽がうわてである。鳩羽のように直接力を流し込むには技量が足りず、朔夜に使える穏便な方法は、料理や菓子に混ぜて受け渡すことと、刺繍などに縫い籠めることだ。
おそらく、百瀬が今着ているシャツにほどこした刺繍は、またほつれていることだろう。
「朔夜のくれるものが、僕にはいちばん心地良いよ」
「……そう」
百瀬は慰めのつもりで口にしたのだろうが、朔夜は心臓に小さな棘が刺さったみたいな痛みをおぼえた。
彼はそういう身にされてしまっているにすぎない。
思わず目を逸らして、表情を見られないよう顔を背けようとしたせいで、百瀬が怪訝に目を細める。
ふたりの間に生まれた緊張を壊すように、鳩羽が呼んだ。
「朔夜、百瀬。せっかく来たのじゃから、近況を聞かせておくれ」
にこやかな鳩羽の気の抜けた言いように、朔夜と百瀬は思わず顔を見合わせる。
互いに言えないことを秘めたままだとわかりあっていながらも、百瀬がゆるやかにため息をついたのをきっかけに、朔夜も肩の力を抜いて鳩羽のほうを振り向いた。




