7. まるで別人です
「アイリス嬢、俺にも水をもらえないか?」
「は、はい!」
静寂を最初に打ち破ったのはイアン殿下で、彼は一気にグラスを空にすると、そんなことを口にした。
断る理由は無いから、私は水魔法を使ってグラスを満たす。
それをイアン殿下も口にすると、彼まで固まってしまった。
「……昨日噛んだところが一瞬で治った。俺は夢でも見ているのか?」
「二人とも同じ夢を見ていることの方が有り得ない。
意図せずに治癒魔法を使っているなら、大聖女様に匹敵する治癒魔法を使えるかもしれない」
大聖女様のお話は私も知っている。
十年も前のことだけれど、お母様が「ご先祖様の伝記だから読んでみなさい」と言ってくれたのだ。
その中には、大聖女アリス様が王国を滅亡の危機から救ったことが描かれていた。
――今から三百年以上前、王国は黒龍という魔物の襲撃を受け、討伐のために派遣された軍は一瞬にして壊滅したという。
けれど、聖女様は強力な治癒魔法と水魔法を巧みに操り、一切の犠牲を出さずに王都を守り切り、黒龍を倒した。
……はっきりとは覚えていないけれど、そんな内容だったと思う。
「今まで酷いことをされても生きられたのは、このお水のお陰だったのですね……」
「間違いないだろう。ひどい怪我を治すのには時間がかかるようだが、直接傷に触れさせたら効果が出るかもしれない」
「食べ終わったらお風呂で試してみますね!」
今までずっとお風呂に入れていなかったから、水魔法で満たした湯舟に浸かってみたい。
そう思ったから私は食事に集中し、イアン殿下やレオン様よりもずっと早く完食することが出来た。
「お代わりは大丈夫かな?」
「これ以上は食べられそうにないです」
「分かった。風呂で溺れないように気を付けて」
イアン殿下に笑顔で見送られ、私は与えられている部屋に向かう。
部屋にはドレスを置くためだけの部屋にお風呂まで付いているから、好きな時にお風呂に入れる。
ザーベッシュ邸でも部屋にお風呂はあったものの、私は最後に使ったのは十年も前のこと。
今まで掃除でしか入らなかった場所を自分のために使えると思うと、楽しみで足が軽くなった気がする。
「アイリス様、お風呂の掃除は終えております。お水を張られたら、私の方で火を起させていただきます」
「お掃除ありがとうございます。水魔法は温度を変えられるので、火起こしは大丈夫です」
「温度を変えられるのですか……? 普通は周りの温度に左右されるのですが……」
今まで当たり前だと思っていたけれど、水魔法の温度は自由に変えられないらしい。
私はいつも丁度いい温度で使っていたのに。
「お湯を張るところ、見てみますか?」
「私でも良いのでしょうか?」
「はい、何も面白いことはありませんけどね」
私は侍女さんと共に浴室に入り、いつもジュリアや義両親の部屋でしていたように、水魔法で湯舟をお湯で満たす。
魔法の使い方は人によって違うそうだけど、私は詠唱しなくても思い描いた通りに水を生み出せるから、一瞬でいつでも入れる状態になった。
あとはお湯が冷めないように、常に少しずつ温めるようにすれば完璧だ。
「……アイリス様、貴女は魔法の天才ですか?」
「まさか。私なんて無能ですよ」
義両親の前で庭の池を満たしたこともあるけれど、私の魔法くらいなら誰でも使えるみたいなのよね。
だから代わりはいくらでも居ると言われてきて、私は追い出されないように必死に働いていた。
でも、侍女さんの反応を見ていると、義両親の言葉が嘘だったように思える。
あの人たちは私を追い詰め、出来るだけ利用しようとしていたのかもしれない
「私は王宮の中でも水魔法に長けていると陛下からお墨付きを頂いています。
ですが、ここまで正確に、それも一瞬で満たせるのは、グラス一杯が精いっぱいです。攻撃魔法なら調整をしないで済むので、もっと沢山の水を出せますが……」
「そうなんですね……」
どんな反応をしていいのか分からないけれど、お湯を維持するのは頭が疲れるから、早く湯舟に浸かりたい。
「そろそろ入りたいので、着替えますね」
「畏まりました。では、私はお着換えを用意してまいります」
一度背中を見せたとはいえ、目の前で裸になるのは恥ずかしい。
だから、侍女さんが浴室を去るのを待ってから、私は服を脱いで湯舟に入った。
すると、背中の痛みがあっという間に消えていく。
他の傷もあっという間に治っていき、鏡で確認すると、少しの跡も残っていなかった。
おまけにガサガサだった手はすべすべに、荒れていた肌も全て綺麗になっている。
……本当に治るなんて思わなかったから、鏡から目が離せない。
そんな時だった。
「アイリス様、ご無事ですか?」
「は、はい! 生きてます! すぐに出ますね!」
「分かりました。焦らなくて大丈夫です」
あまりにも動かなかったせいか、心配されてしまったらしい。
だから、私は転ばないように気を付けながらお風呂から出た。
「アイリス様……ですよね?」
「はい、アイリスです」
「すごくお綺麗になられましたね」
彼女は私の変化に戸惑っている様子。
正直、自分でも別人になったと錯覚するくらいだから、こうなるのも無理はないと思った。




