第五十七話『心傷を重ねて』
(あれ……ここは……)
薄らと目を開ければ、そこは見覚えのある部屋だった。それは、ブランクが初めてこの屋敷の中で見た光景で。
(客間……あれ。ということは──!!)
ブランクは、ガバッと飛び起きた。
頭の中で徐々に記憶の欠片が結びつく。時間がまさか戻り過ぎたのでは、とも思うのだが、
「え」
ぐいとシーツが引っ張られ、ベッドの上に何かあることに気がつく。それは、規則正しい寝息を立てるエレノアで、ブランクの記憶が正しければ、この屋敷で目覚めた時最初に見たエレノアは、本を読んでいたはずだった。
「戻ってはいない、のか……」
ホッとすると同時に。恐ろしい事実に気づくと、ブランクの背骨は凍った。
(もし戻れていなかったら、今頃、僕は──)
死んでいたかもしれない。はたと体の細部を見遣れば、傷跡こそないのだが、ブランクは、その時の痛みを今でも克明に思い出すことができる。
確かに膨れ上がった体が自分のものでなくなっていくような感覚。異物になっていく感覚。それは痛みを伴うくせして、最後には体の感覚の全てを奪っていくのだ。
途端に押し寄せた恐怖に、ブランクの体は冷や水にでも浸かったかのように震える。
(もっと慎重に行動しないと……)
震える腕を、拳を握りしめることで鎮めたブランク。すると、
「お父様……」
「……」
「ごめんなさい……」
目の前で眠る少女のうわ言に。ブランクは、前にもこんなことがあったなと思いながら、静かにその手を伸ばした。
くしゃっと羊の毛綿のような感覚を思い浮かべながら撫でるのだが、亜麻色の髪はそれより柔らかで、水でも触ってるように滑らかだった。
「ん……」「あ……」
以前角を触った時のように何か言われるのではと身構えたのだが、
「あっ!!」
少女は、飛び起きると同時にブランクと視線を交えた。
「や、やあ……」
ブランクは「あはは」と誤魔化すように取り繕って咄嗟の笑顔を貼り付けた。しかし──、
「え」
次の瞬間。ブランクは困惑した。
目の前にいる少女は緑青色を滲ませ、ブランクの胸元へ飛び込み、その濡れ顔を隠した。
「バカじゃないの」
「……ごめん」
今にも消え入りそうなその声に。ブランクは罵倒されるよりも、怒鳴られるよりも、慮る色濃いその声に、どうしようもなく冷や水を浴びせられたような痛みを感じた。
「あまりにひどかったから、目を覚まさないんじゃないかと思った」
「……僕は、どうして助かったの?」
ブランクがそう尋ねると、エレノアは顔も見せずに答えた。
「あなたが頼んでくれたレイシスさんが、お医者様を連れてきてくれたの。それで、あなたは助かったのよ」
「レイスが……」
まさにひとっ飛びとは言ったものの。まさかそんなに急ぎで動いてくれていたなどと夢にも思わなかったブランクは、また顔を合わせたらお礼を言わないと、と、微笑を浮かべた。
「そっか。また助けられちゃったね」
「……シリルが、心配してたわ」
「シリルが?」
思い返せば目の前で人が落ちてきて、しかもそれが猛毒に侵されているのだから、不思議のないことであった。
「シリルは無事だったの?」
ブランクが聞くと、エレノアは一言もなしに頷いた。
「そっか。良かった……」
ブランクが、そうやってホッと一息ついた時──、
「良くない!」「痛っ……!」
そんな痛々しい声とともに。ブランクの胸に拳が叩きつけられた。
「どうして、あんな無茶をしたのよ!!」
「それは──」
返す言葉が浮かばなかった。無我夢中だったのだから、何故、を問われても。ブランクは、何も言い返せなかった。
「あなたは……どうして、わたしなんかを助けるの」
「わたしなんかって……」
己を卑下する姿に物申そうとするものの、エレノアはすぐに次の言葉を投げつけた。
「わたしは……わたしは、もうわたしのために命を落とす人は見たくないの。二度と勝手な真似はしないと、約束して」
「……」
そのために自分の命が落ちるとしても?
ブランクは、それが気にかかり「君は──」と思わず言葉がついて出た。
「君は……いつも自分を軽く見ている。どうしてだい?」
「……」
言葉が返ってこない。ブランクは、沈黙に耐えきれず、次の言葉を投じようとした。
「君は、領主としていつも十分立派にやってきているじゃないか。いつも身を粉にして──」
ブランクが、そう言いかけた時、
「やめてッ!!」
「……っ!」
胸に突き抜けた手のひらの衝撃と、あまりの剣幕に、ブランクの喉が締まった。
肩で息をする少女は、亜麻色の髪の隙間から、鋭い翡翠色を覗かせていた。その凍りつくような視線に、ブランクの背筋が伸びた。
「わたしは……あなたが思うほど、大層な人間ではないの。どうしようもない、救いようもない。消せない罪を背負って生きてるの。あなたのような、真っ当な人間ではないわ」
「……!」ブランクは絶句した。
「あなたがわたしを庇った時……わたしは、お父様のことを思い出したわ。自分の愚かさを思い出した。生きてるだけで、周りを不幸にしてしまうんだって、そう思ってしまった」
「それは違っ」「いいえ違わないわ! あなたは、こうやって苦しんで、一歩間違えれば、死んでいたかもしれないじゃない!!」
「いや、でもそれは──」
どう弁明したものか、と思った。ブランクの頭の中は、咄嗟のことで、もしかすると次があるかもしれない、という打算的な思いがあることに気がついたからだ。
だがそれを説明してしまえば、ブランクは自分の能力を話すことになる。それも不確定な、自分でも正体の分かっていない能力を。
(どう言えばいい。どうすれば伝わる……?)
ブランクは考えた。考え抜いた。
「そういえば……あなたには、言ってなかったわね」
「え」
しかし、考えている間にエレノアの口は、過度な呼吸を重ねて次々と、思いの丈を語っていく。
「わたしは……わたしがお父様を殺したの」
「いや、ちょっと待ってよエレノア。それはおかしいって。だって君のお父さんは、クロエが殺したって──」「違う!!」
エレノアに一蹴されて、ブランクは言葉を失った。
「わたしは……ただお父様に構ってほしいだけだった。それだけだった。それだけのために、わたしは、リーリエの心も、アルフレッドの命も、一番欲しくてやまなかったお父様という存在自身も、全てを失ってしまったのだわ」
「エレノア、落ち着いて」「落ち着いてるわよ!!」
冷静さの欠片もない叫びに。
「エレノアッ!!」「あっ……」
ブランクはその華奢な肩を掴んだ。震えている、あまりに小さな肩を。
「僕の目を見て」「何、を……」
「僕の目を、見て……!!」
エレノアが逸らそうとするから、ブランクはもう一度促す。するとエレノアは揺れる瞳で、しかし確かにブランクの姿をその目に捉え、その細首を震わせた。
「君は──僕をどういう存在だと思っている?」
ブランクが尋ねると、エレノアはとつとつと語る。
「それ、は……バカで明け透けで、お人好しで、向こう見ずで、無鉄砲なところがあって、それから──」
エレノアの言葉に。ブランクは噛み締めるように「そっか……」と呟き、肩を離した。
「君がそう言ってくれるのなら、僕も少しは変われたのかもしれない」
「……どういうこと?」
エレノアの疑問に。……果たして、ブランクは答えた。
「僕は……君が思うほど高尚な人間じゃなかった。いや、きっと、変わりたいと思い続けているということは、今だって僕は、根本的に昔とあまり変われていないのかもしれない」
だけど、と、ブランクは続ける。
「そんなの、寂しいじゃないか。人は変われないって。そんなの、そうやって思い続けて、信じて、苦しんで。僕は、自分の罪を背負って生きて、つらい思いだけをして生きるなんて、そんなの、僕だって、どうやって生きていいか分からないよ」
ブランクの言葉を受けて。エレノアは、思わず視線を逸らした。
「それ、は……あなたが、大きな罪を背負っていないから──」「エレノア」
ブランクは、鋭い声で少女は呼びかけた。
「僕の目を見て」「……!」
真っ直ぐな琥珀色の目に気圧されて。エレノアが息を飲んだ。
そうして窓の向こうで陽の光が消えた頃。
「僕は……逃げた」
「……えっ?」
突然の告白に、エレノアは声を高くした。ブランクは、構わずに続ける。
「あの日、あの夜……僕はアルトリウスに襲われて、僕を庇ってくれたジャンを差し置いて、逃げ出したんだ。そうしろって言われたから。ウィルを連れて逃げろと言われた。だから、逃げ出したんだ」
だけど、とブランクは続ける。
「僕は、逃げてはいけなかった。例え死ぬと分かっていても、僕は立ち向かわなければならなかった。そうでなければ、こんなに苦しまずに済んだんだ」
「それは、そんなこと……」
ない──とはエレノアは言わなかった。それを言えば、自分がどう思うかを、彼女も理解しているからだろう。ブランクは自嘲気味に微笑した。
「君は、優しいね。僕は、偉大な兄貴分であるジャンを置いて、逃げ出したんだ。今でこそ逃げるべきじゃなかった、なんて言えるけど、一年前のあの日、あの時、僕は……逃げろと言ってくれたジャンに、感謝してしまったんだ」
「……!」少女の緑青色が、大きく揺れ動いた。
「それをウィルに咎められて。苦しかった。つらかった。正しいのがウィルだと分かってるのに、僕はそれでも首を縦に振れなかった。怖かったから。アルトリウスに立ち向かうのが怖くて、気づきたくなかった感情を知って、僕は、消せない罪を一つ背負った」
「……」
エレノアの顔色がどんどん沈んでいく。ブランクの気持ちを汲んでか、その過去を反芻するように。エレノアはどんどんつらそうな顔をする。
「そうやって君が心を痛めてくれるだけで、あの日の僕も救われるよ」
でも──とブランクは続ける。
「僕はあの日の自分を許せない。許しちゃいけない。そう思った。だから……だからこそ、僕は。決して、もう逃げないと、そう誓ったんだ」
「……」
「本当の僕は、臆病で、頭でっかちで、他力本願で。本当に、どうしようもない人間だったんだ。ジャンやウィルを救うまで、僕はずっと咎人のままだ」
「ブランク……」
「だから──」ブランクは、琥珀色の視線を、緑青色としっかり交わした。
「僕は逃げない、逃げられない。でもそれは諦めているからじゃない。決して悲劇にしないために。いつか笑えるように。そのために僕は、その未来へ向かうと、そう決めたんだ」
「……」
そうして握った拳を見つめていたブランクだったが沈黙を受ければ途端に気恥ずかしさが勝り、ついついと後ろ頭を掻いた。
「って……ごめんね、偉そうに。僕と君では、状況が違うのに」
「……いいえ。あなたの言う通りだとは思うの。分かってはいるの。でも……わたしはまだ、わたしを許せそうにないの」
ごめんなさい、と謝られると、ブランクも何も言えなくなる。
「せめて……お父様さえ生きていたら──」
一雫とともにこぼれ落ちた呟きに。ブランクは泣くほど強く、拳を握りしめた。
「ごめんなさい。わたし、これから執務があるの。クロエの容態も快復に向かってるそうよ。あなたも目覚めてくれて……本当に良かった」
赤く腫れた目を少女は指の背で拭うと、そのまま背中を向けて、歩き出した。
「待っ──」
「ありがとうっ、目覚めてくれて!」
少女は、寂しそうな笑顔で去っていった。
少年は少女の去った扉へ伸ばした手を、そっと胸元に引き寄せた。
「エレノア……」
ギュッと握りしめた拳を見つめる目は、揺らぎを矯めて光っていた。




