エピローグ『金運、荒風と共に来たりて』
「うっ、ぐぅ……!」
膝を着き、歯を食いしばり。槍を杖にしてなんとか立ち上がろうとするも、腹部の裂傷は傍目に見れば致命的で。やはりネロは立ち上がれずに、再び膝を着く。
(よし。今のは不意打ちだったから、決定打を与えられたのがかなりデカい……!)
いくらブランクが膨大な魔力を持っていても、有効打となる攻撃は多くない。それが、油断していたネロの足元を掬えたとはいえ、ブランクは、上手くいくかは五分五分で見ていた。
何よりも。ブランクは今、ハオディの反動で動けずにいた。まるで昔にゴアドを使った時のようで、足の裏の、皮の感覚がなくなったようにすら感じている有り様で。
この反動は、ブランクにとっても予想外なものであった。もしこれを止められていたら、あの槍に触れられていたら──。
そう思えばこそ、ブランクは、とっくに雨も止んだというのに、この薄氷の上の勝利に冷たい汗をかいていた。
「ブランク!」
「エレノア」
無事? と確かめると、エレノアは「ばか!」と怒鳴りつける。
「それはこっちのセリフよ。いっつも無茶ばっかして……」
ははは、と苦笑を浮かべるブランクに。エレノアは懐からハンカチを取り出す。あまりに汚れのないその布に、ブランクはとんでもないと手と首を振る。
「そんなに大した怪我はしてないんだ。僕よりもあっちの方が──」
言いかけて。ブランクはゾッとした。エレノアも同様だったようだ。その魂が震えるような殺気が、致命傷を負ったはずの青年から放たれている。
「何故、何故、何故、ナゼ……!!」
「ネロ──」言いかけたエレノアの声が止まった。その理由はすぐに分かった。ブランクの視線の先──ネロは、赤い目を血走らせて、牙を剥いた。
(コイツ、まだ──!)
その姿は兎の骨格こそ保っているが、瞳はぬばたま色に染まり、肌は赤くなり、額から角が覗く、恐ろしい形相へと姿を変えつつあった。
「手に入らないなら、いっそ全て壊シて──」
(ぁ──)
一瞬、どこからか死の足音が聞こえたような気がして。ブランクの頬から、生ぬるい雨水が頬から流れ落ちた──その時だった。
「はい、そこまで」
ブランクの喉元に突き立った槍が、ギチギチと悲鳴を上げていた。そこへ──白羽がヒラヒラと舞い降りて。現れた人物が抱えていたものに、ブランクの鼓動は火に油を注いだように加速した。
「クロエッ!!」
ブランクよりも早く、エレノアが駆け出した。しかし、
「おっと、いけないいけない。全くもって手癖が悪いね、ウチの坊ちゃんは」
目の前の人物──大鷲の男は、ネロの拳を鉤爪ですっぽりと受け止めていた。
「何のつもりだ」ネロが低い声で威嚇すると、男は言った。
「ああ、失礼。奥方様から、キミヘ言伝があってね」
「後にしろ」
ネロの眼力に一つの物怖じもせずに。その大鷲の男は「やれやれ」と首を振る。
「話は最後まで聞いてほしいものだね。僕はただ、いつも贔屓にしてくれてるキミの奥方様に頼まれただけだよ。奥方様が大きく体調を崩されてね。キミのことを、探していたみたいだけど?」
「母上が……」
ネロはその身の変化を徐々に抑え、元の姿へと戻っていった。そうして矛先を納めると、そのまま踵を返した。
「今一度、命を預けておいてやる。エレナ……次こそ君の目を覚まさせてやる」
必ずだ、と言い残し。ネロは背中を向けたまま歩き出した。
待て、と追いかけようとして。
「うっ……!」
ブランクのその眼前に、大翼の壁が立ちはだかった。
「なんのつもりだ!!」
「やれやれ。僕は彼の使用人じゃないとはいえ、ホーエンハイム家お抱えの運び屋だよ? そんな物騒なものを持って怖い顔していたら、止めないわけにはいかないだろう?」
それに──、と。大鷲の男は、大翼の羽先をブランクの後ろへ向けた。
「そんなことしている暇があるのかな? 僕の見立てでは瀕死だよ。彼女」
「あっ」
クロエ、クロエと揺さぶる少女を押し退け。ブランクは「下がって」と腰から小瓶を取り出す。
(出血がひどい。腹部の傷が、開いてから時間が経ってる……)
さらに天候は雨。泥水も跳ね、不衛生極まれりだ。
「エレノア、さっきのハンカチを貸して」
「え、ええ……」
エレノアが懐からハンカチを取り出すと、ブランクはそれをすかさず壺の中へと突っ込み、取り出した。ベトベトとした油まみれになったそれを、ブランクはそのままクロエの傷口へ押し当てると、外れないように上着の袖を巻き、キツく縛った。
「へえ。キミって医療の心得もあるんだ。面白いね」
「応急処置だ、ゴゲラの脂を塗って。だけど……早く医者に診せないと……」
バサッと羽を開くと、その男は途端に地を離れた。
「さあ、僕の彼への報告の仕事は終わった。もし彼女を君たちの領まで運ぶのなら……騎獣よりも安静を保って連れて行ってあげるけど?」
高くつくよ、と続けられて。しかし言葉を返したのはブランクではない。
「お願い、わたしの友だちを助けて……!」
滲む緑青色に、大鷲の男は果たして、
「お安い御用だ」と褐色の少女を抱え上げた。
「元よりそのつもりだったさ。だから助けたんだ」
大鷲の男は、黒猫の少女を抱えて飛び上がった。
「待て」
一刻を争うのだが、ブランクはどうしても確かめておきたかった。
「あなたは、どうして僕たちに肩入れする?」
すこしの疑問を覚えつつ、ブランクがそう尋ねると。大鷲の男はニヤリと笑った。
「僕はお金の匂いが大好きなんだ。それ以外に、何か理由が必要かい?」
そんな言葉を残して。大鷲の男は、不吉を孕む棚紅の空へと飛び立っていった。




