第五十二話『君に捧げる狂想歌』
「ハオディ」
ブランクの言葉に反応して、足元に魔法陣が浮かび上がる。それを受けて、黒髪の青年は、一息にブランクの元まで肉薄すると、手にしていた矛先を一閃し、ブランクのいた場所を薙ぎ払った。
「ネロ、お願いやめて!」
エレノアの必死な呼びかけも、ネロの耳には届いていないのか。ネロは、槍先を掠めた服の繊維を振り払うと、逃した獲物へと視線の先を戻した。
「成る程、俊敏性の向上か」
「やられてばかりじゃいられないからね」
ブランクはそう言いながら、冷や汗をかいた。魔術を使って、ようやく五分五分の戦いである。それも、継ぎ足し使えば問題がないとはいえ、自分は時間制限があるのに対し、相手は常時その力を有する亜人で。
(やっぱり、戦うしかないのか……)
こいつは相当骨が折れるぞ、と。ブランクは躊躇いながらも、向けられた敵意へ応戦するべく、しかと剣を構えた。
「ふ」
すると。ネロが一笑に付すものだから、ブランクは怪訝に眉をひそめた。
「何がおかしい?」
「ネロ……?」
その様子に、歩み寄ろうとしていたエレノアさえも不審に足を止め。ネロは、ひしゃげた笑みを、手で覆い隠して、ようやく落ち着かせると、冷めた声を基調とした、喜色に富んだ声色で、答えた。
「今日は千客万来──とでも言うべきか。目の上の痰瘤が二つも取れるのだ。これが面白くなくて、一体何が笑えようか」
「二つ……──ッ!」
ブランクは、思わず息を呑んだ。服の至るところに、よく見れば、赤黒い斑点が不規則についている。黒を基調とした服で目立たなかったが、それは、ブランクの中にあった、嫌な予感を助長させるには、十分過ぎるほどであった。
一つは恐らく自分だ。すると、もう一つは──、
「ねえ……ネロ。クロエは……どこ?」
同じ答えに辿り着いたのか。エレノアは、フラフラとネロに歩み寄りながら、そう尋ねた。つぶやくような問いかけに対して、ネロは、チラリと少女を一瞥すると……言った。
「エレナ、君を誑かす悪い猫は──俺が始末しておいた」
「……え?」
ついぞ言い切られた言葉に待ったをかけようとしたエレノアの手が虚空を彷徨って。エレノアは「嘘よね? ネロ……」と、唇を震わせる。
「証拠ならある。ほら」「ぇ……あ──」
投げ渡された手袋は、クロエが身につけていたものだった。それは、不吉を多分に孕んだ黒ずみを染みつけて。拾い上げたエレノアは、現実を受け止めきれないかのようにハタリとそれを手落とした。
到底飲み込みようのない事実に、少女はフラフラと後退る。黒髪の青年は大手を広げると、まるで定められた言葉を謳う、舞台劇さながらに。
「駄目じゃないか、エレナ。飼い猫の躾は、飼い主の責任だ。ここにも……こんな不調法者が居る。これは躾なんだよ。君の甘さは命を掬い上げはするが、その後に面倒を見ると言うのには、常に責任が」「やめろ」
ブランクは、震えて縮こまるエレノアを抱き寄せながら、ネロへの警戒を解かぬまま、口を挟んだ。すると──揚々と語っていたはずのネロは、その姿を見て、額に青筋を浮かべた。
「何故……お前がそこにいる?」
「あなたが……彼女を追い詰めたからだ」
そんな、だって、なんで、ネロとクロエが……と、震える唇で繰り返す少女の肩の、なんと華奢なことだろう。もはやこわばることすらできない絶望に立たされ、ブランクの支えがなければ、今にも座り込んでしまいそうだった。
「俺が……彼女を追い詰めている?」違うな、と赤眼は一層鋭さを増した。
「お前が彼女を惑わしているのだ。あの娘も、お前も。彼女の有り様を崩してしまっている。忌々しい、実に忌々しい。彼女から離れろ。その薄汚い手を今すぐ退けろと言っている!」
ブランクはゾッとした。育ちは全く違うというのに、このネロという貴族の青年と、あの奴隷の仕入れ人は、異なるようで同じ本質を持っている。
言葉が通じるのに通じない。本来心を通わすはずの会話は、一方的に泥漿だけを送りつけられている。彼の心には人が入り込む隙間がない。全てがエレノアだ。それ故に、他の全てが淘汰され、消えている。おぞましい。あまりにおぞましい。
ブランクは、近くの木にエレノアを支えさせると「ここにいて」と小さく耳打ちをした。
「さあ、約束通り、僕はここに──」「疾ッ」
エレノアから離れたブランクが全てを言い切るよりも早く。ネロの矛先がブランクの頬へと迫っていた。ブランクはそれを間一髪で弾き飛ばすと「汚いぞ!!」という非難と共に、一閃蹴りを浴びせんとする。
ネロはそれを予定調和でもなぞらえたかのように悠然と躱し、槍の石突きがブランクの胸部の直線上に結ばると、圧倒的な殺気と共にそれを解き放った。
「うっ、ぐぅッ!?」
「ブランクッ!!」
吹き飛ばされて咳き込むブランクを案ずる声が端から飛んで。ネロは追撃の手を止めた。
「エレナ。君は、何故あんなものの心配をする」
「……え?」エレノアの声が震える。
「これは、俺が君の為を思ってしていることだ。何故それが分からない」
「そんなの……分かるわけ──」
降り出しそうな、空の下。震える声で、常の彼女を忘れさせる気弱な反論。ネロはそれを、
「エレナッ!!」
声高に名を呼ぶことで、無理矢理止めた。
「言い訳などするな。君は、幼馴染を殺した。親友を失った、父を殺した、苦しい、助けてほしいとあの時──俺に言ってくれたじゃないか」
「だって……それは、ネロ、あなたが……!」
ポタポタと。空の下で一足先に、雨が降る。緑青色が生み出す重たい雫は、歯の根の合わない現実を呪って、静かに土を黒く湿らせる。湿度の高い生暖かな湿原で、少女はただただ震えてうずくまる。その溢れる心の血を覆い隠すべく、止めるべく、少女は必死に自分の顔を押さえつける。
それを見たネロは、心を痛めるわけでもない。
「あの泥棒猫は始末した。この少年も、すぐに後を追う」
ただ戦果を語るように、少女の心の傷を広げていく。
「君には俺だけだ。それでいい。他はいらない。君の領地も、豊穣祭でも、幾らでも助けてきただろう? これからもそうだ。大丈夫、君と俺なら、きっと──」
「やめてッ!!」
エレノアの悲痛な叫びに、唸る暗雲の音が重なった。パタ、パタと雨が走る。どこか遠くへ向かう雨は、見るに堪えないこの現実を嫌う急ぎ足で。
「ごめんなさい……」そんな言葉が、混じって落ちた。
「わたしが、間違ってた……。あなたが変わってしまったのは、きっと……アルフレッドが亡くなってから、よね。ごめんなさい。わたしが、あなたの心を……壊して……ッ!」
少女は膝を突いてうずくまった。白い服は跳ねた泥を吸って黒ずみ、空からは少女を非難するように刺す雨が降って。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
少女は、ネロの顔も見ずに、誰へ向けたかも分からない謝罪を繰り返した。ブランクには、いつも気丈夫な彼女が一回り小さく見えて。
それを受けたネロは、雨雲の来る方向へと視線を向け、言った。
「アルフレッド……彼はいい人だった。リーリエを好いていて──君に興味がなかった」
そんな──心ない言葉が投げかけられた時、
(コイツ……ッ!!)
ブランクの中で、何かが切れた。




