第四十八話『雨のち晴れ』
ポツポツと、窓の外では雨が降り出した。
(手……小さいな)
ブランクは、寝台で眠り続ける少女の手を、ずっと握り続けていた。
少女の手はとても小さくて頼りなくて。皮がなければ途端にこぼれそうなほど柔らかく、強く握れば弾けそうで。しかし筆の触れる部分だけが出来上がったマメで固くなっていて。
(一体……どれだけ一人で頑張ってきたんだろう)
布団に入ったことでようやく容態も落ち着いてきた。呼び立てた医者の見立てでは、過労が原因だそうだった。
エレノアは鬼人族であるため、比較的そういった肉体的摩耗には強いのであるそうだが、それでも重ねた無理が祟ったということは、恐らく普通の人間ならば、とっくの昔に限界を迎えていたということになる。
(君は……どうしたら自分を大切にしてくれるのかな)
さらりと撫でた髪の隙間から、赤いツノが垣間見える。それは、少女の血を煮詰めたように紅く、放っておけば、そのうち割れてしまうのでは、と思わせた。
(そういえば……初めて会った時、僕はこの角に気づかなかったんだね)
後で亜人だと聞いた時には、驚いたものだった。
「んっ……」
ブランクが優しく角の先を撫でると、エレノアはぴくりと体を跳ねさせてから、薄っすらと目を開けた。
「えっち……」
「わっ、ごめん!!」
慌てて飛び退いたブランクなど歯牙にもかけず、エレノアはするりと上体を起こした。
「わたし、どれくらい寝てたの?」
「まだ半刻も経ってないよ」
ブランクが思い返しながらそう言うと、エレノアは「そんなに……」と小さくこぼした。
「早く、仕事の続きをしなくっちゃ──」
「わっ、わっ、待ってってば!!」
ずるりと寝台から抜け出そうとするエレノアに、ブランクは慌てて戻るように手で行く先を塞ぐ。
「邪魔しないで!!」
「僕も仕事を手伝うから、君は休んでて!!」
身振り手振りで咄嗟にそう言ったブランクに、エレノアは訝しむように眉を寄せる。
「あなた、また適当なことを言ってる。文字も読めないのに、どうやって──」
そう言いかけたところに、ブランクは突破口を見出し、食いついた。
「文字なら、僕もすこしは読める、君の助けになれる!!」
そうやって、少女の手を取った。エレノアは驚きに数度緑青色をパチクリとさせて、それからハッと顔を赤らめさせると、自分の手を握るブランクの手を振り払った。
「油断も隙もないわね、すぐ触ろうとするんだから」
「うっ……不可抗力だよ……」
他意はないからと落ち込むブランクを他所に、エレノアは、握られた手へと視線を落とし、しばらく見つめていた。それから窓の外へ視線を投げやって「ねえ──」と口火を切り出す。
「何も聞かないの?」
「……古傷は自分で触っても痛むものだろう? 僕はそれを人の傷口と知った上でズケズケと踏み込むほど愚かでもなく、恥知らずでもないよ」
ブランクがそうやって自分の気持ちを伝えると、エレノアは「何よ」と拗ねたように小さく呟いた。
「いっそのこと、全てを暴いて、わたしを蔑んでくれれば良かったのに」
「そんなこと、しないよ」
エレノアは「うそよッ!!」と強く喚きながら、身を起こし、真っ向からブランクを睨みつけた。
「いいわ、教えてあげる」
「え?」
何を、と言うよりも早く。少女は、まるで神の赦しを得るための懺悔でもするように、背負う罪を一つでも裁いてもらうように、言った。
「あなたのお兄さんが竜人の、アルトリウスに負けたのは────わたしのせいよ」
「…………は?」
ブランクは、突然の告白に、何が何だか分からずに、思考を介する余裕もなく、条件反射で問い返していた。
「あなた、魔法の力は知っているのよね?」
「……もちろん」
人の世の理を外れた、神代からあるとされている、神の力を行使する、人理の外にある力。曰く、どんな奇跡も起こすことができるとされ、まさにブランクもその例に漏れず、その力で、三度命を救われているのだから、それを知らぬはずもない。
「……それで、その魔法の力が、ジャンとどう結びつくのさ」
しかし、それを気取られるわけにもいかないことを、ブランクは知っている。この力が及ぶ影響が、歴史を変えるかもしれない可能性を、それを求められる必然性を、その危うさを、ブランクは既に頭の片隅に置いてある。ダザンならそうするはずだからだ。
「あの日、彼はわたしの呪いと、クロエの呪いとを解いた。いいえ、彼の言葉を借りるなら……まさに〝壊し〟た、が正しいのかしら」
「破壊の左腕……」
ジャンの持つ破壊の力。あらゆる障害や理不尽を、文字通り破壊する力。ジャンはあの力で、様々な困難を下してきた。ジャンが身内のためでなくとも、女性のために力を振るったというのは、彼ならそうするだろうという光景が、ありありと見て取れて、
「ジャンらしいや……」
少女の耳にも届かないほど小さな声で、ブランクは、彼の兄貴分の矜持に思いを馳せて、その頬をゆるめた。
「これで分かったでしょう? 力には代償が付き纏うものよ。あれほど強力な力なら、際限なく使えるはずがないのよ。そんな彼の大切な力を、わたしは、二回も使わせてしまった。これがわたしのせいでないなら、一体誰のせいなのよ……」
ブランクは頭を抱える彼女を見て、拳を強く握りしめ、毅然と尋ねる。
「理由は……それだけ?」
「それだけって……わたしが足を引っ張ったから、彼は力を出しきれずに──」
「見くびるなよ!!」
少女が全てを言い切るよりも早く、ブランクは珍しく声を荒げて言葉を押さえつけた。
「僕の兄貴分は……君が惚れた男は──自分の落ち度を女の子のせいにするような、そんなダサい男じゃない!!」
「……っ、なんで、わたしの……!」
「僕だって……それくらい、見てれば分かるよ」
ブランクは、どこか諦観の念を抱くように、しかし確かな思いを伝えるべく、胸に手を当て、告げる。
「僕たちの身に起きたことを解決できなかったのは、僕たち自身の問題だ。ジャンが君たちを助けるために力を使ったのなら、それは、ジャンがそうするべきだと判断したということで、君に落ち度はまったくないはずだよ。それを、どうして僕が責めることができるというんだい? そんなものまで、君が背負う必要はない」
第一、とブランクは続ける。
「君は、さっきからまったく見当違いなことを言ってる。僕が──僕たちが憎むべきなのは、アルトリウスの方だ。君がアイツのぶんまでつらい思いをするなんて、絶対間違ってるよ」
その言葉を受けて。エレノアは、開いた唇を、再び結んだ。一つ溜飲の下がるような、あるいは、腑に落ちるような、形容し難い思いを言葉にしてくれたような顔をして。少女は、視線を左右へ振らせながら、手元を見た。
「……そうね。たしかに、その通りだわ」
わたしったら、そんなことも……と、視線の落ち着いた先にあった、自分の手を見つめて。少女は先ほどブランクに取られた手を、確かめるように撫でたかと思うと、おもむろに布団をかぶって、ベッドで寝転んだ。
「すこし休むわ」
「え?」
ブランクは、聞き間違いかと思って、一度問い返した。するとエレノアは、ガバッと掛け布団を深くかぶり直し、ひょっこり顔を覗かせながら、言った。
「すこしだけ休むって言ったの! 一回でしっかり聞き取ってよ!」
「あ……ああ、もちろんだよ!」
それじゃあ、と、邪魔をしては悪いからと、ブランクは席を立とうとした。するとクイっと袖元が引っ張られ、ブランクは、後ろ髪引かれる思いで振り返る。
「どうしたの?」
「一緒にいてくれないの?」
「いっ!?」
突然のことに、ブランクは頭を槌で打たれたかのような衝撃を受けた。しかし、少女の目は至って真剣だった。
「アルバートは、眠る時、こうして一緒にいてくれたわ」
アルバート──とは初めて聞く名であるが、恐らくは、この服の持ち主の執事だろうと、ブランクは思った。
「……分かったよ、ここにいる」
病に伏せると気が弱るとは話に聞くが、ブランクは、恐らくその類だろうと思った。過去の出来事を不意に思い出したり、人肌が恋しくなったり、ブランクにだって、覚えがある。
目が覚めたらまた元に戻っているかもしれない。ブランクは、とりあえずはと、この場を離れないことを伝えて、気の変わらないうちに休んでもらうこととした。
「約束よ、ぜったい……」
どこにも──と、続けた唇は、次の瞬間には、規則正しい寝息を立てていて。ブランクは、すこしホッと胸を撫で下ろした。
ようやく安心してくれたのだろうか、と考えてから、ブランクは、いや、それは違う、と考えを改め、至った。
それだけ限界だったのだ。
(そういえば……風邪ひいた時、ジャンもこうして手を握ってくれたっけ)
粗野に見えて、そういったところは、意外にしっかりと、優しくもある。この少女もきっと、そういった一端を見て惹かれていったのだろうと、ブランクは目蓋を伏せた。
それから、故郷の思い出に耽った。
目を閉じればまるで昨日のように蘇ってきた。故郷に咲くハプルの花が、薫風となって運ばれて。ブランクの鼻をくすぐると、
『わっ!』
ウィルが後ろから飛びついてきて、ブランクは驚いて、ジャンがおいおい、とウィルの首根っこを掴み上げる。
『はしゃぐなよ、ウィル』
『へへっ、にーちゃん、ブランクがボーッとしてたから、つい』
なんだと、と言いかけて。ブランクは口が固まる。否──喉が固まった。
(声が、出ない……?)
ブランクは、我が身に起きた異変に青ざめた。こんな記憶は、果たしてあっただろうか。喉を押さえ、胸を押さえ。腹を探っても異変はないのに、声だけが出ない。喉が凍りついたように動かない。
『どうしたんだよ、ブランク』
『お前、へんだぞ』
二人の心配そうな顔に、必死に弁明の声を上げようとするのに、声が出なくて説明ができない。
『にーちゃ?』
袖を引くメルに、ブランクは慌てふためいた。違うんだ、と言いたいのに。メルに心配をかけたくないのに、その瑠璃色の瞳が、どんどん不安に揺れていく。
『どうかしたにゃ?』
目の前にクロエがいて。突然現れたクロエに、ブランクは、
『聞いてよ、クロエ。僕の声が──』
言いかけて、ブランクは止まった。声が出たことに驚いたのではない。
(どうして──ここにクロエがいるんだ?)
これは、ブランクの故郷の記憶で、ここにクロエがいるわけがない。覚えた疑問に震えて、背中とシャツの間に、ぷつぷつと浮かんだ脂汗が走る悪寒から身を守るべく、滲んでは生地に溶けていく。それがブランクは、たまらなく気持ち悪かった。
『クロ──』
言いかけて、ブランクの喉が再び凍りついた。また声が出ない。こんなこと、普通は起こり得ない。魔術による攻撃か、と、ブランクが目端を左右に走らせていると、
『にゃーんで声が出ないか分かるにゃあ〜?』
突然不敵に笑うクロエに、ブランクは息を呑んだ。ブランクは、命の危険や、圧倒されての恐怖心なら、クロエに感じたことはある。ただ、目の前にいるクロエは、あまりに異質で、ブランクは、何故だか涙が止まらなかった。
そして、メルがそれを察知してか、ブランクの前に立った時。
『理由などない──』
クロエの顎が、伸びた。それは突然黒から白金色に髪の見目姿を変えると、ブランクの前で大の字に構えていたメルを、クロエ──否、
『ワタシだからだ』
あの竜人が。アルトリウスが──メルを食べた。頭から、丸呑みで。前顎や後ろ顎が伸びて、もはやそれは化け物以外の何者でもなかった。
『ひっ──』
ブランクは、喉が締まって短い悲鳴を上げて、後ずさった。すると、ブランクの踵に、柔らかく重たい、何かが引っかかった。
『ぁ──ぇ……』
そんな、声にもならないような声が、声帯を辛うじて通り抜けていく。床に着こうとした手がぐにっとその生暖かくも冷たくなりつつある何かに触れて、ブランクは、それがウィルやジャンだと気づいた。
『ワタシだかラだぁ、うァああああ』『──ッぁ』
ブランクは、目の前にいたアルトリウスが、突然ヤラグ族になっていることに気がついて、その巨大な頭が、自分をまさに今、飲み込もうとしついることに気がついた。もはや、喉は一切の弛緩を許さず、あまりの恐ろしさに、ほとんど声が出ない。
プァフュっと空気を吸い食むような音と、ガチッと歯の重なる音が聞こえた。それは身の毛が弥立つほど大きな音で、ブランクは、生臭い洞窟のような場所に放り込まれ、ヌメヌメした液体を運ぶ動く床に、声を上げることもできずにただ無様に転がされていく。
『なんだよ、これ……』
体についた液体は、ブランクが触れた途端、突然固まって、一切の身動きが取れなくなってしまった。そればかりか、ブランクは、突如止まった肉の床の動きに、加速する悪寒と、嫌な予感とに、たまらないほどの吐き気を覚えていた。そして──、
『ワタしだからだ』『ワタしだカラだ』
『わタシだかラだ』『わたシだからダ』
『わたしだからだ』
『ぅっ、あっ──』
床の肉が、無数のヤラグ族へと姿を変えていき、ブランクの四肢に食らいついていく。その無限を思わせる、どこからともなく聞こえる不遜な声は、次の瞬間、
『え』
パタリと止んで。ブランクの目の前には、巨大なヤラグ族の形をした肉塊が、雪崩や滝のように、再び大口開けて降り注いだ。
『ワタタタタしだカラだァあああああッ!』
「やめろォおおおおおッ!!」
ハッと、ブランクは飛び跳ねた。
座っていた椅子が慌ただしく転げて回り、既に陽の落ちた外から差し込む闇が、ブランクの周囲を包んでいた。
(夢……夢か。あれは、夢だ……)
滝のような汗を流しながら、ブランクは息をつく。わずかに喉を通る空気でヒューヒューと声帯を鳴らしながら、ブランクは、眼前にあるベッドを見て、あることに気がついた。
「エレノア……エレノアッ!!」
握りしめていた手元には、何もなかった。寝台は冷え切っていて、忽然と何者かに攫われてしまったようで、ブランクは部屋を飛び出した。
屋敷内は暗闇が忍び寄っていて、窓から差し込む月明かりだけが、物々の輪郭を形取っていた。ブランクは何の当てもなく、彼女がいそうである執務室へ真っ先に向かっていた。
(エレノア、エレノア……!)
悪い予感ばかりが頭を覆う。彼女が地の海に沈んでいて、あるいはまた倒れていそうで。ブランクは「エレノア!!」と叫びながら、ドアを開けた。
「騒がしいわよ!!」「うぐっ!?」
突然顔に本が飛んできて。ブランクは、思わず鼻っ柱に突き刺さった本を掴みながら、鼻をさすった。
「エレノア……?」
執務室では、あまりに普段と変わらない背筋の伸びた姿で、椅子に腰をかけ、淡々と仕事をこなす少女の姿があった。その姿に、込み上げる安心感や、夢は夢であると、うなされた悪夢の洗われる様に、ホッと胸を撫で下ろしていると、
「いいご身分ね」「へ?」
少女は、苛立たしげに立ち上がって、ブランクの元へゆっくりと差し迫った。
「今のわたしは、仮にもあなたのご主人様なのよ。そんなご主人様と一緒に眠ってしまって。しかも、ご主人様のベッドを侵して……今だってそうよ。ご主人様を呼び捨てにして。お前は……いけない召使いね」
つい、と喉元を指の腹が滑る。妖艶な様に、初めてブランクは喉を鳴らして緊張した。目の前にいる少女はあだっぽくイタズラに笑い、大人びて見える振る舞いの中に、どこか幼さが垣間見えて。翡翠のように輝く緑青色が、ブランクを蠱惑的に視線を釘付けにした。
「……なんてね」
しかし、それも束の間だった。少女は、つかつかと自分の仕事机へ向かい、ブランクは、ハッと我に帰った。また寝ずに仕事をするのでは、と、慌てて歩み寄ろうとすると、少女は書類を手に取り、そして──、
「続きは明日するわ。あなた、出立前に手伝ってくれるのでしょう?」
かけていた眼鏡をたたみ、机の上に置いた。
「えっ。あっ……うん」
ブランクが呆気に取られながらそんな生返事をすると、エレノアは「なによ」と不服に眉を寄せた。
「すっとぼけた反応しちゃって。あなたが言い出したことなのよ?」
「へっ? あっ、そうだよ、ごめん!!」
そういえば寝る前にそんなことを言った。ブランクは、寝ぼけて掠れた記憶が蘇って、他人事のようにそう言ってから、しまった、と、恥ずかしさに俯いた。すると、
「うふふっ。何よ、それ」
ブランクは、わあ、と驚いた。少年は、初めて少女の年相応の笑い顔を見た。
それはあどけなくて、けれど育ちの良さを感じさせる品があって。血潮に捨てたはずの思いに再び火がついて。
月明かりが覗く窓の中、ブランクの胸は、静かに高鳴っていた。




