エピローグ『心の椅子に腰かけて』
ブランクは、鬼の口から下がる鉄の輪を扉に打ち付け、数回ノックをする。
「……どうぞ」
素っ気ない返事が返ってきて、ブランクは、今更ながら自分が、どのツラ下げて、と馬鹿にされないか心配になってきた。しかし、ノックをしてしまった以上、後戻りをすることは許されず、ブランクはとうとう「失礼します」と断りを入れた。
「……なんだ、あなたなの」
眼鏡越しにちらと一瞥して、随分な挨拶をしたエレノア。ブランクはなるべく波風を立てないようにと、
「クロエはちょっと用事があるらしくて。代わりに、僕に、行ってきてーって、さ」
あらかじめ用意しておいた用向きを、すかさず言い繕ってみせた。
「ほら、召使いらしいことしようかなー! ……なんて。あはは……」
「ふーん……」
訝しむような視線を受ければブランクだって、自分の話に無理筋があることは、重々承知していた。あれから、無言の獣車に揺られながら、ブランクは、なんとか名誉挽回の糸口を探り続けていた。しかし、同乗は許してくれたと言うのに、エレノアは顔を合わせることもなく、荷物にあった手紙の数々を、ずっとその目に通していたのだ。それはさながら、仕事をしているから話しかけるなという、明確な拒絶を突きつけるようで。
行きとは打って変わって。帰りの沈黙は、針の筵よりもなお辛い、拷問へと変わり果てていた。時が経てば解決することもあるが、この短すぎる期間では、それも望みは薄く。
ブランクはとうとうこの日暮れまで、屋敷に戻ってからも話しかけるタイミングを見失っていた。
しかし今日という日を逃せば、エレノアとブランクは、旅立ちの都合上、関係修復を図るタイミングがなくなってしまう。なんとかその状況まで漕ぎつけたいと唸っていたら、寝る間際に、クロエが発案してくれて、乗っかり、そうして今に至るのだ。
「何をしてるの?」
ブランクが紅茶の準備を進めながらそう尋ねると、エレノアは「見て分からない?」と、大層な物言いで言う。
「執務に勤しんでいるところよ。領主ってあなたが思うほど、暇じゃないの」
「へ、へえ〜、そっかそっかぁ……」
ムカムカムカ、と、胸や腹の内から怒髪天を衝こうかとするのだが、ブランクはすんでのところで慈悲深き笑みを貼り付けて、事なきを得た。先にあちらの逆鱗に触れたのは、紛うことなくブランクであるので、さすがにここで憤っては元の木阿弥である。
「息が詰まって疲れるでしょ、夜にずっと一人だと」
そうやって、茶器のセットを教わった手順通りに進めながら話しかけていると、エレノアは「別に」とすげない態度で対応する。
「一人には慣れてるもの。誰かさんと違って」
視線の一つも寄越さないでそう言うのだから、ブランクは、なんとかわいげのない、と、腹を立てた。しかし、ブランクはその理不尽も呑まなければならない。なぜならば、相手の地雷を踏み抜いてしまったのは、自分だからである。
「またまた。一人が好きな人なんていないでしょ。人間は助け合って生きてきたんだから」
ブランクがそうやって言いながら茶葉から蒼い液体を抽出していると、エレノアは、じろりとブランクを睨んだ。
「価値観の押し売りは感心しないわね。わたしは孤独で結構よ。それで誰に迷惑をかけてるわけでもないのだから、放っておいてちょうだい」
「でも──」
ブランクがようやっと完成した蒼茶を、エレノアの元へ運ぼうとした瞬間、
「やめてったらっ!!」
カチャンっ。と、何かが割れる音がした。見れば足元にはカップが砕けて割れていて、
「熱ぅ……!」
その中身はといえば、少女の手にかかったようで、ブランクは「あ……」と再びの失態を上塗りしている現状に、いささかの目眩を覚えた。
「あなた……わたしを憐れんでるのでしょう? かわいそうだと思っているんでしょう? あなたのわたしを見る目が、どんどん変わっていく。腫れ物を触るみたいに。分かるわよ、そういうの。わたしなんて、哀れまれる価値も……その資格もないのに、どうして、そうやって決めつけるの? 余計なお世話よ」
「ちが──」
言いかけて、言葉が詰まった。決定的だった。煌々と輝く緑青色は、ブランクすら知らなかった自分の心を見透かすようで。言われて初めて、ブランクはその通りだ、と思った。少しの余念もなかったと言えば嘘のようで、ブランクは、少女の言葉と圧に、返す言葉の一つも浮かばなかった。
「もう──出て行って!!」
邪魔をしないで、と言った少女の顔は、どこか憔悴していて。不健康な印象を抱かせるその顔は、いくら気丈夫な彼女でも、そろそろ限界を迎えそうだと、ブランクの中にある何かがそう囁いて、必死に警告していた。
もはや話し合うなどという余地もなく、力づくで追い出された部屋の外で、ブランクは、強く閉ざされた扉の前で、必死の弁明を図った。
「誰かを信じるということは、その心に椅子ができるということだよ! 立つか寝るかでも死ぬことはないけれど、人生に彩りを添えるのは、いつだって誰かがいる時だ! 一人は、つまらない!」
扉の向こうにいる少女へ向けて。少年は、夜だということも忘れて、必死に呼びかけた。
聞こえているのかいないのか。少女の声は、扉の向こうからは聞こえてこなかった。
届かないのだろうか。この硬い扉に隔たれては、どんな思いの丈も、意味を為さないのだろうか。少なくとも、押してダメなら、ブランクに残された手立ては、引くしかないということであった。
「ごめん……君の力になりたかったんだ。こんな風に、傷つけるつもりはなかった」
今更遅い素直な気持ちがするりと出てきて。後悔を抱えたまま、ブランクは──扉の前を後にした。
「もう、いや……」
その扉を挟んだ向こう側。気高き少女は、その顔を濡らしてうなだれた。
「だれか、助けて──」
そう言いかけてから、少女はハッとした。目元を拭い、下がった眉尻を吊り上げ、強さを目に矯めた。
「お父様は──こんなことで音を上げないわ」
まるで、自分自身に言い聞かせるようにそう言った少女は、喝を入れるべく、その白い両頬の、赤くなるほど強く叩いて、己を鼓舞した。
「お仕事の……続きをしなくちゃね」
執務はまだまだたくさんあって、エレノアは、きっと朝までかかるのだろうと思った。
しかし、それでいいと思った。自分の望んだことであったからだ。
「見送りまでには、済まさなきゃ……」
山積みの報告書や他領との確執の報告、災害による支援の要請、予算の捻出、資産管理。やることは山積みで、エレノアは、時間を奪った新たな新人召使いに向かって、不服に口を尖らせた。
「余計な仕事ばかり増やすんだから」
割れたカップを片付けながら、エレノアは、それは自分もか──と、小さくため息をついたのだった。




