第四十五話『歪んだ偏愛』
その瞳は一縷の迷いもなく、これまで容赦なく奪ってきた命を煮詰めたような色をしていて、ブランクは、その仲間入りを果たさないようにと、頭の中で懸命に状況の整理に努めた。
(こいつ、何者だ……さっきの手捌き、ただものじゃないぞ)
見るに、美青年という言葉が似合いそうな端正な顔立ちは、息を止めればさながら彫刻のように美しくあり、しかし、黒い髪がささらと風に揺られれば、まるで、それが人であると教えてくれるようだった。頭上には大きな兎の耳があり、その耳がピクリと動くと、青年は、ただ静かに口を開いた。
「聞こえなかったのか? それとも口が利けないのか?」
なら──と言葉に続いたのは矛先であり、ブランクの喉元との間にあった空間は、ついと埋められ、その皮膚を食い破らんと、鈍色の刃が、無遠慮に差し迫った。
「待て!!」
吠えたのはブランクではない、ランツだ。ブランクは咄嗟のことに、口を開くことすらできなかった。開けば喉が裂けると理解していたからだった。
間一髪のところで命を救われて、ブランクはドッと汗を噴き出して、肩で息をしていた。
(ランツさんが止めなきゃ、僕は死んでた……)
あまりに突然の出来事に、鼓動の鳴るのを忘れていて、それを取り戻すかのように早鐘を打つ心臓が、ブランクはあまりにうるさいと思った。しかしそれも束の間である。
喉の皮膚から血が滴り、それが槍の刃先を滑るのだから、ランツの制止も、気休めにすらなりやしない。窮地は依然変わらず、ブランクは、自らの天命をランツに託すしかなかった。
「なんだ? 一介の御者に過ぎないお前が、貴公子である自分に物申すということが、どういう事か、理解できているのか?」
「お、おではエレノア様の私兵だべ、御者なんかじゃあ──」
強気に出たランツであったが、それもひと睨み利かせただけで、言葉が詰まった。
「同じ事だ。二度も喋らせるな、煩わしい。お前の発言が、一体何を生むと云うのだ。全て無駄な事だ、邪魔立てするなら、まずはお前から──」
その矛先が、わずかに引いた時、
「プロテマッ!」
ブランクは──再び向けられたその矛先を、強く握りしめた。
「それは……敵対行為か?」
「自衛だよ、襲われてそのまま死ねとでも言うつもりかい?」
強気にその矛先を引き寄せようとしたブランクであったが、ブランクは、それが微動だにしないことに気がついた。押せど引けどもびくともしない。まるで彫刻のように動かない。ブランクが心の中で密かな焦りを覚えていると、凍りつくような声が背筋をなぞった。
「魔術か。それも見るに、少しばかり頑丈になる様だ」
容易く皮膚を裂く刃を握れる程度が、果たして少しという範疇に収まるものであろうか。顔色一つ変えないのだから、それが彼にとっての道理なのかもしれない。
逆に、ブランクはどうだろうか。焦りや不安が胸中を過り、矛を握る手には、うっすらと汗が滲んできた。
「疾ッ!」
その機微を読まれてか。ブランクは、一息もしないうちに、目の前に何かが迫るのを感じた。何の起こりもなく、気がつけばあったようなそれが、次の瞬間には、自分の顔にめりこみ、ブランクは再び地面を転がされていた。
「一つ。お前がどれだけ打たれ強いのか、試してみようか」
鼻っ柱に受けた衝撃が、鼻腔に鼻水を詰まらせ、しかしかすかに抜けた土のにおいが、先ほど迫ったのが、靴底なのだと気がついた。しかし目を開けることができない以上、それだけが唯一の情報だった。
「あっ、がっ……!」
ブランクの頬に、顎に、頭蓋に。あらゆる骨に、鉄芯のめり込むのを感じて、ブランクは、もはやこれは、一方的な蹂躙であると感じた。
「くそっ!」
ぶんっ、と振るった拳が空を切り、その甲へ再び鉄芯が食らいついた。刃で攻撃をしないところを見るに、いたぶることを楽しんでいるようですらあった。
そうして息つく間もなく、あらゆる角度から攻め立てられて。ブランクは、とうとう制限時間の過ぎ去ったプロテマが、自分を守ることをやめて、傷を増やしていく現実の歯がゆさに、歯を鳴らして悔しんだ。
「無様だな」
「なぜ……こんなことをする」
辛うじて絞り出した声で、ブランクはそう尋ねた。一見すれば理知的に見えるこの青年、道楽や気まぐれなどで、こんな悪趣味な生殺しのようなことはしないと思ったからだった。しかし、
「理由……理由か」と、何か、自分の中に一石投じるかのように探りを入れて。男がついに辿り着いた答えは、ブランクの目を剥かせた。
「お前は──彼女のなんだ?」
「…………は?」
敵国の人間とはいえ、突然何の断りもなく痛めつけられた理由としては、あまりに不可解な理由であった。ブランクはそれが聞き間違いかと思って、いや、聞き間違いであってくれと、無意識に言葉を聞き返していた。すると青年は「彼女は──」と言葉を続けた。
「最近まで、笑う事が無かった。己を律するように、心を殺して、思いなど、水屑のように沈んで。その起こりさえ見せない時もあった。それが──ここ一年で変わってしまった」
傍聴していれば、それの何が悪いのだろう、と思わせることであった。しかし、
「そんな事は、在ってはならない。彼女を笑わせる役目は、自分であるはずだった。原因がお前にあるのならば──再び彼女の笑顔を奪えば、まだ自分が彼女の笑顔を取り戻す折が、必ず待っているはずだ」
ブランクは、驚愕に震えた。この男は、目的と手段が入れ替わってしまっている。自分が求めた結果に、自分という過程が挟まっていないから、強引な手口を使って、やり直そうというのだ。なんとも馬鹿げている。あまりに人の心というものを理解していない。
「あなたは……狂ってる……」
「識っている」そう言いながら、青年はブランクの顎を突き上げた。
自分は、エレノアと知り合ってまだ日が浅い。そんな自分が、彼女の心に変化をつけたとは到底思えないが、少なくとも、この男がこれから先の人生で、どれだけ彼女の心を救おうと努めたとしても、その目的を履き違えている以上、それに気がつかねばこれから先、一生望む答えに辿り着くことはないのだろう、と、ブランクは思った。
そして、顎に受けた一撃で、ブランクの意識が手放されようとした時だった。
「何してるのよッ!!」
初めて聞く、どこか取り乱した声が聞こえてきて。薄目を開ければ、やはりそれは、もう聞き慣れた声で。ブランクは、頭を包む柔らかな感覚に、自分が抱き寄せられているのだと、ようやく気がついた。
「答えて、ネロ。あなたは……一体何をしているの?」
「エレナ……」
愛称で呼ぶその男の声には、少しの狼狽が含まれていて。少しのためらいを含ませた沈黙に「なぜそいつに肩入れをする」と、疑問を返した。
「そいつは、グランヴァレフの人間だ。臭いで分かる。人の魂の形を見れる君が──それを分からないはずがないはずだ」
男の詭弁に、声を上げることのできないブランクに代わって。案の定、エレノアが「答えになってないわよ」と強気に出て、ブランクは、少し溜飲の下がる思いをした。
「いっ……!!」
自分の顔を撫でた何かに、ブランクは、強い痛みを感じた。それが柔らかな布であると、腫れた目の隙間で捉えて、ブランクはようやく理解した。
「ごめんなさい。まさか、こんなことになるなんて……」
滲む脂汗や血を拭き取り、必死の看護をするエレノアに、その青年は、困惑の色濃く矛先を向けた。
「エレナ……君は、祖国を裏切るつもりか?」
「彼は……わたしの協力者よ。あなたに頼んだ依頼も、彼からのもの」
ブランクは、我が耳を疑った。あなたに頼んだ依頼、ということは、この男は、ブランクの望んだ情報を持つ、協力者だということだ。
(こんな……こんな男が協力者……!?)
ブランクは困惑した。今日出会うまで、エレノアの知り合いなのだから、一癖あったとて、きっと心根の優しい人なのだろうと思っていた。
しかし、実際は次に会うことも避けたいほど癖の煮詰まった人物で。ブランクは、有無も言わさず敵対視をしてくる彼の者の、痛烈な蔑視を受けつつも、それを甘んじて受け入れるしかない己の無力さと歯痒さに、下唇を噛んだ。
「その男は……君のなんなんだ?」
場合によっては──と、続く言葉に、光る刃。ブランクは、未だ自分の命が安全圏にないことに気づかされた。エレノアもそれを重々理解しているようで、必死に言葉を探るように、視線をあらゆる向きへ、彷徨させた。
それから、ランツに留まると、エレノアは一度唇を結んでから、言った。
「彼は──うちの召使いよ」
ブランクは、寝耳に水であった。いつからそのようなことになったのか。その運びへ至る経緯も、何から何まで初耳で、しかし自分を抱える指の震えから、ブランクは、それがエレノアの口から出まかせであると、ようやく理解した。
「召使い、だと……? そんな、敵国の人間を、召し抱えるなど……あり得ない。他の貴族から、どれだけ風当たりが悪くなるかなど……思考を介さずとも、肌で理解るはずだ。何を考えている?」
「あなたこそ……何を考えてこんな大それたことをしたの? それに、ここはわたしの領地でも、あなたの領地でもない。これ以上はここにいるわたしの親友……リーリエに、迷惑がかかるわ。そんなことも分からないの? あなたこそ、何をしにここへ来たの?」
そう諭されて、男は押し黙った。それを受けてエレノアは「あなたが……」と、今にも雨の降り出しそうな声で、小さくこぼした。
「最近、あなたが何を考えているのか……もう何もわからないわ」
一体どうしてしまったの、と。続く言葉を受けて。その青年、ネロは「興が削がれた」と手にしていた槍を──文字通り、虚空の彼方へ消し去った。
「おい、そこの」
存外な呼びかけが、自分以外を指さないことを、ブランクは知っていた。ネロは続ける。
「お前の探している者かどうかは分からない。ただ……ジャンという男と、銀色の髪をした子どもは、ノワール領にいた」
どうやら約束は守ってくれたらしく、ブランクが切望していた情報は、打ち捨てられるかのように告げられた。
「もし次に会う事があれば──タダでは済まさない」
覚えておけ。という、苛烈な言葉だけを残して。男は去っていった。
まるで嵐の過ぎ去った後のような、そんな静かなる騒々しさと敗北感が、ブランクの胸の内に、痛々しく爪を突き立てたのだった。




