第四十三話『車窓の向こうに、雨が煙る』
それは、ブランクが、ドマとガランド親方の仲を取り持った、よく晴れた、次の日の出来事だ。
夜明けと共に眠りについたブランクが起きたのは、のどかな昼下がりで、野暮ったく湿気った曇り空に目をしぱしぱとさせながら、しかしなんとか惰眠に抗い、遠く見慣れぬ異国の地へ向けて、ぼんやりと視線をうっちゃっていた時のことである。
「どうぞー」
コンコン、と、珍しい来客に、どうせクロエに用向きがあるのだろうと、ブランクがいい加減な生返事をすると、
「いいかしら?」
「うん……えっ、はい!?」
そんな──氷水の澄んだように声が聞こえてきて。ブランクは、知った声の主が扉が開くまでに、慌てて襟を正した。
「遅いわね、まだ眠っていたの?」
「少し前に起きたところだよ」
ブランクがそう返すと、エレノアはやっぱり遅いじゃない、と不服に眉をひそめる。よく見ればエレノアは髪の手入れなどもしっかり済ませており、ブランクよりずっと早く起きていたのだろう、と、目の下の、粉黛の奥にあるクマが、そっと教えてくれた。
「君は、あれから寝たの?」
「ええ、一刻ほど」
ほとんど寝てないじゃないか、という言葉は、何か問題でも、と言いたげな、どこか含みのある視線によって、阻まれた。ブランクにできたのも「はあ……」と不服を漏らすくらいのことであった。
「それで。クロエに何か用だった?」
「相変わらず根暗なため息」
流して済まそうとしたのに、そうやって目くじら立てて拾い捨てられたものだから、ブランクは、なんだと、と突っかかりそうになって。しかしそれもすまし顔一つで受け流されては、打つ手もなく。そうやって、ブランクが恨めしそうにじぃっと頬へ熱視線を送っていると、エレノアは、言葉による追撃のないことを認めてから、
「あなたに用があるの」と、何の恥ずかしげもなく、そう言った。
「は、はあ……?」
ブランクは、どのツラ下げて、と、ピクピク痙攣させながら、眉の収まるところを探した。すると、エレノアは、頬を赤く染めながら、ツンと言い放つ。
「なによ、わたしがあなたに用があってはいけないっていうの!?」
「うえぇ!? いや、決してそんなことはないけれど……」
「というより、あなたのためを思って来てあげたんだから!!」
「はい……ごめんなさい……」
突然、火の弾けたようにまくしたてられて。ブランクは、とうとう情けない声をあげて、言いくるめられてしまった。
(気の強い女の子って、どうにも苦手だ……)
勝ち気で男勝りで、今まで出会ってきたことのないほどに気の強い女性であるから、ブランクは、距離感をずっと掴み損ねていたのだ。
そうとはつゆ知らず、エレノアは「まあいいわ」と自分の落ち度ごとバッサリ切り捨てた。
「それで、あなたに頼まれていた調査のことだけれど──」
きた、と、ブランクは思った。長らく待ち望んだ情報に、ブランクは、水面へ墜つた羽虫に振り返る魚のごとく、目蓋を持ち上げて、美しい唇の開くのを待った。
心臓が耳元で鳴ってるかと思うほど高鳴りして、喉が乾いて、目など、期待に押されて、今にも飛び出しそうだった。
「先に断っておくわね。協力してくれている人がいるの。何せ、一人じゃ荷が重いし」
わたしも暇ではないから、と続けば、ブランクも「ああ……」と気持ち半分に受け流す。いつもなら気にかかる憎まれ口も、今は耳に残らない。それに気がついたのか、エレノアは、自省に眉を正すと、ブランクとしっかり目を合わせた。
「わたしが見知ったわけではないのだけれど、その、あなたの言っていた──」
ブランクは、とうとう待ち望んだ情報に、悠久の時を感じた。まるで走馬灯のような、あるいは夢の終わり際のような、引き伸ばされた刹那が、
「似たような特徴の──銀髪の子どもを見かけたと、彼が言っていたわ」「どこでッ!!」
その言葉がとうとう終わりを迎えると、ブランクは大きな声で詰め寄っていた。そんな今にも食らいつく勢いで迫られて、エレノアはびくりと掴まれた肩を跳ねさせると、我が身を抱き、小さく震えて固まった。
「あ、ごめん……」
「……いいわよ、別に」
気もそぞろに、ひとまずの欠けたる礼儀に謝意を示したブランクの冷静な耳が、
「わたしだって、お父様が生きていたら──」
そんな、諦観にも似た声が鼓膜に爪を立て、ブランクは、妙にその言葉が頭の奥に、突き刺さった。
「お父様?」
ブランクが尋ね返すと、エレノアは、己の失言を隠したがるように、口へ手を当てがった。
「なんでもないわよ。それより──」
首を振った少女は、しらーっと野暮ったい視線を送ってきた。それは、ブランクの頭の先から爪先まで、少し侮蔑の色を込めて、どこか呆れたようになぞっていく。そして、
「これからその友人に会いに行くのだけれど……あなた、その格好なんとかならないの?」
「うっ……」
いつの間にか山賊のようなボロに変わっていた旅着に、ブランクは、とうとう情けなさが先立った。
「まさか、それが一張羅──だなんてこと、ないわよね?」
「……面目ない」
他にある服は下着が多く、ブランクは、服を多く持っていない。これもブランクにとって誤算であったのが、旅をしていると、突然の雨に降られたり、河川を渡る際の飛沫に濡れてしまったり、また、それらが乾くと布が痛み、よく服がボロボロになってしまうのだ。
ブランクは、まさか自分が貴族と関わり合いになるなどとは思っていなかったので、上流階級の人間が見れる服など、一つも持っていやしない。
「あなた、持ち合わせは?」
「に、二千ネッカなら……」
ブランクは素直に路銀の全てを詳らかにした。だが、
「お話にならないわね。下着を買おうというわけじゃないのよ?」
「し、した……!?」
貴族と庶民の価値観は大きくすれ違っていて、ブランクは、顔を真っ赤にして狼狽えた。しかし、そうは言っても実際ない袖は触れず、にっちもさっちもいかないこの状況に──、
「はあ……しょうがないわね」
エレノアは、やれやれと呆れたように、ブランクの頭先から爪先までを見て取って、腕を組みながら、助け船を出した。
「わたしが服を貸してあげるから、それを着てらっしゃい」
「え、君の服を?」
僕が? と続けて。今度はブランクがエレノアの格好をじっと見て、その意味を理解したエレノアはといえば、顔をかあっと真っ赤にして「なんでよ、ばか!!」と一喝した。
「違うからッ、ちゃんと男性用だからッ、この、変態!!」
「ご、ごめん……」
いくらエレノアの穿いているのが丈の短い短パンであるからと言って、ブランクは、自分がそれを穿いては、さすがに留め具の弾けるのが、目に浮かぶようだった。
ブランクはそうならなかったことにほっと胸の内を撫で下ろすのだが、目の前にいる少女の好感度は、どうやら壊滅の一途を辿る一方であった。
(まあ……彼女とどうこうなろうだなんて思ってないから、別にいいんだけどね)
侮蔑的な視線を受けながら、ブランクはしみじみとそう思う。
彼女が貴い一族であることから、そのような関係など、まさに絵空事であると、ブランクは知っている。
吟遊詩人が謡ったり、本にすればよくよく見る身分違いの色恋沙汰など、現実では到底あり得ない話で、ましてや彼女は、まさに羽を休める暇もないほどの忙しさに追われる毎日であり、花の束に添えて寄せられた縁談を断った数など、二十やそこらでは、効かないと言うのだから。
そんな彼女が一体全体、どう転んで自分など好きになると言うのか。それを思えば、ブランクだって無謀な恋を、むざむざ散ると知りつつも抱くほど、浅はかではない。花は散らせ、次に実を結ぶためにと、甘酸っぱさを噛みしめて。
「それじゃあ、着付けの方はクロエに頼んでおくから。着替えが済んだら、早めに玄関前にいらしてね。獣車で向かうから、野暮ったい套着は、絶対ぜーったいに、やめてね?」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい!」
そうやって約束を取り付け、ブランクはエレノアから着替えを受け取り、全てをクロエに委ねたのだが……──、
「──……ごめん、待った?」
ブランクは、エレノアに渡された燕尾服に袖を通して、屋敷前に待つ獣車へと駆け寄った。
着付けを手伝ってもらったのだが、クロエもあまり知識はないらしく、二人して四苦八苦して、ようやく見れる形にはなったのだが、いかんせん時間がかかりすぎた。案の定、春先とはいえ、寒空の下に長く待たされたエレノアは「遅いわよ!」と眉を吊り上げてブランクの遅刻を咎めた立てた。
「雨垂れの井戸掘りではないのだから、もう少し、キビキビ動いてくれなくては困るわ」
時間は有限なのよ? と諭されて。ブランクは歯の鳴りそうなのを、舌をかまして冷静さを取り戻すと、そこへ「ごめんごめん」と歯の浮くような思いをして、心ない謝罪を重ねた。
「クロエも着付けの知識がないらしくて……」
「まあ。あの子ったら……」
どうやら、一度教えたことはあるらしく、吐く息に乗せられた疲労感はあまりにも多く、興味のないことは覚えてくれないのね……と独りごちて頭まで抱えれば、彼女の気苦労など、もはや手に取るようだった。
「そんなに変かい?」
「うーん……見れないことはないわ。でもあまりに無様ね」
「そんなに……?」
「さすがに今から屋敷に戻る時間はないわね……。獣車の中で仕上げるから、早く乗りましょ」
さあ、と手を差し伸べるエレノア。
クロエにも言われていたが、ブランクには何が何だか分からない。服は着れれば良いものだと思っていたので、丈や裾などと言われても、さっぱりだ。
ただ言われれば長いだとか、短いだとか、そういうのは分かるのであるが、シワ一つにまで気を遣わなければならない世界だなんて、貴族の世界というのは気苦労が多そうだ、と我がことも含めて、そう思った。
そうして乗り出した獣車の中でブランクは、エレノアに丈の調整をされながら、ふとした疑問を口にする。
「そういえば……なんで燕尾服?」
ブランクも短い間とはいえ、屋敷を出入りしての生活するようになってから、少しの理解はあった。屋敷には、男手がおらず、目に映るのは女手ばかりなのだ。
それにも関わらず、どこからともなくこの服が現れたのだから、もしかして、この屋敷には秘密の部屋があって、そこに執事がいるのでは──などと、面白おかしく掻き立てられた想像に、ブランクがどこかワクワクしていた時、
「遺品よ、以前働いていた執事の」「いっ!?」
そんな寝耳に水打つような発言が聞こえて。ブランクは、たまらず身を縮こまらせた。
「ちょっと動かないでよ!」
「ごめん……」
どうしてわたしが……と、不服を漏らす少女に、しかし手持ち無沙汰なブランクが見つめていると、エレノアは、ハッと服に空いた小さな穴を見て、哀愁に満ちた目をして、それを撫ぜた。
「エレノア……?」
「あっ……ごめんなさい、なんでもないの。もうできたわ」
気がつけば少女の目は潤んでおり、それを摘み去るように、エレノアは親指と人差し指で、目尻から涙を掬った。そうして気の落ち着くところに収まると、エレノアは「うん?」と、何かへ向けて、疑問を覚えた。
「少しいいかしら?」
「……なに?」
突然貼り付けられたような笑みを向けられて、ブランクは嫌な予感がした。
「どうしてあなたは、そうやってすぐに、女の子の名前を呼び捨てにしようとするの?」
「うっ……」
我がことながらさらりと口をついたもので、ブランクは、意識をしていなかったからか、自分の礼儀を欠いた行いに、思わず言葉を詰まらせた。
「クロエのことにしてもそうだわ。あなたったら、すぐに人の心の隙間に入り込もうとするのね。さすがの女たらしだわ、賞賛に値するわね」
「そんな不名誉な賞賛いらないから!!」
軽蔑の眼差しに突っぱねられて。ブランクは、また話を掘り下げるタイミングを見失ってしまった。
いや、あるいは彼女自身がそれを望んだのかもしれない。獣車の中は凍てつくような沈黙が続き、外から差し込む春の陽気が、まるで嘘のようだ。
緑青色の瞳がそれを羨むように、あるいは遠い過去を慨くように丘陵を見遣るものだから、唯一の同乗者に袖にされてしまえば。とうとうブランクにできることはといえば、同じく窓の先の視線を辿ることだけになってしまった。
(そんな顔されちゃ、なんにも聞けないじゃないか……)
その先に見えているものは、きっと違った景色なのだろう、とブランクは思った。ちらと見遣れば向こう手の景色はこんなにも晴れやかなのに、彼女の面影には、今にも迅る雨音が、どこからともなく聞こえてくるようなのだから。




