第五話『勇気の代償』
プロテマの有効時間とハオディの有効時間とに、まだ少しの余裕があることを感じながら、ブランクは、次の策を講じることにした。
「助けたまえ、貸し与えたまえ、ブルード・イ・バルグ──」
ブランクの体に光の粒子が付き従い、それが体に染み込んでいく。
「ゴアド」
その漂う光の粒子に誘われるように、大熊は、ブランクの元へと駆け出した。
(来るなら来い……!)
そうして今度は獲物の逃げないことをしっかりと確認すると、その大熊は、自慢の剛腕を目一杯引きしぼり、それを一気に振り抜いた。
「うっ、くっ……!」
腕が軋む。骨が軋む。肋骨が泣き叫んでいて食いしばる歯もミシミシと鳴る。だがしかし、体格差が倍以上ある大熊の一撃を、ブランクは確かに止めていた。
「どう、したの? 攻撃を止められたのは──初めて?」
そんな憎まれ口を叩くも、ブランクだってギリギリだ。剣はギチギチと悲鳴を上げ、早くこの鍔迫り合いを終えてくれと、訴えかけている。その意思を汲み取ったブランクは、柄を握る力をより一層強めると、雄叫び上げて、軋む剣を、気合い任せに一気に振り抜いた。
「おりゃああっ!」
すると次の瞬間、土煙が一面に広がった。
「はあはあ……どうだ!」
肩も上下して、息も絶え絶えだ。しかし、その光景は、背後で不安げに瞳を揺らしていたメルすらも驚かせる。赤枯れ色の髪した少年が、自分の何倍もの体格をしているあの大熊を、力を拮抗させるばかりか、横殴りに横転させたのだ。完全な力勝ちであった。
これこそが、ゴアドの力である。精霊の力を体内に取り込むことで、その膂力を何倍にも引き上げる。当然人の身に余る力にリスクがないわけではない。腕や足の骨は軋み、わずかにちぎれた筋繊維が懸命に悲鳴を上げている。それでも負けられない戦いに、出し惜しみはしない。ここで終われば全てが終わる。文字通り、全身全霊を懸けた、背水の陣である。
(くそっ、だいぶ無茶をしちゃった……ゴアドの効果を切らないともう動けなくなる。頼む、このまま終わってくれ……!)
ぐったりと横たわる大熊の姿に、ブランクの願いは、果たして──。
「……嘘でしょ?」
当然のように裏切られる。うめくように低い声を鳴らした大熊は、ぶつけた頭をブルブルと振り回して、しっかりと脊椎が機能してあることを確認する。それから再び立ち上がると、鼻を鳴らして、その先をブランクへ向けた。
(ゴアドの影響で全身が痛い。早々に勝負を仕掛けないと……)
ブランクが二度目の肉薄に備えて剣を握り直すと、ゴゲラは、
「えっ?」
こけた。それもブランクが弾いた側と反対の腕が、奇妙なほど、ぐにゃりといびつに折れ曲がった。受け身に失敗したのか定かではないが、明らかな骨折か、捻挫である。
(効いてる、効いてるんだ! それなら……あとはトドメを刺すだけだ)
できるのか、という思いがわずかにちらついた。けれど、小さなヤラグ族ならいざ知らず、こんな怪物を野放しにしては今度こそ誰かが命を落とすだろう。そんなことをすれば、自分だけじゃない。ジャンの評判も地の底に落ちるだろう。
(やるしかないんだ、ごめんよ!)
ブランクは、ハオディの力を余すことなく用いて接敵した。瞬き一つの間に、慣性を利用して振り抜かれた剣身が、そのまま大熊の痛んだ左前腕に食らいつく。当たった瞬間、確かに感じた手応えに、ブランクは、大熊の転ぶ姿を脳裏に映えさせた。
しかし次の瞬間──ブランクの体は、宙に浮いていた。
「はっ……? うぐっ!?」
痛烈に走った左腕の痛みが、大熊の右手によって弾き飛ばされたのだとブランクに教えた。ブランクは、身動きの取れない空中で、必死にもがいた。しかし、きりもみすれば変わるのは体勢ばかりで、眼下で待ち構える大熊の姿に、ブランクはゾッとした。
(剣──ない! 他に、あるのは──)
手元に剣のないことを確認すれば、ブランクは腰元から短剣を取り出した。頼りない木の芽のような銀を手に、ブランクは、大口開けて待ち構えるゴゲラにその剣先を振り降ろした。
「くらえ!」
振り下ろせばヤスリのように皮を削ってくる硬質な体毛を掻き分けて、短い剣先がゴゲラの頭をずるずると滑っていく。
「くっそう……!」
ブランクの剣は大熊の頭蓋を割り、目蓋で止まった。プロテマの有効期間が終わったのだ。その硬度は並の鋼へ戻り、軟鉄だけがブランクの体を支えていた。ゴゲラは烈火に爆ぜる栗のごとく暴れ回り、まさに死に物狂いでブランクを押し潰そうと、その剛腕を振るった。
──あ。死ぬ。ブランクがそう思った時、暗い森の中に、銀色の風が一陣吹き抜けた。
「魔弾ッ!」
明るい声と、少し遅れて鈍い音とが届く。ブランクがずっと待ち望んでいた声だ。けれど、今はそちらを振り向いてる余裕などない。迫っていた腕が、紫紺の光弾に抉り抜かれたことだけを一瞥して確認したブランクは、
「プロテマッ!!」
ありったけの力を込めて、ありったけの声を振り絞って、全神経を短剣の刃先へ向けて、痛む左腕も、全てを懸けて──手にした剣を、一気に振り抜いた。
「うわっ──この、暴れるなっ!」
眼球に突き刺さった剣は、脳へと達しているようだった。じゃじゃ馬などとは比較にならないほど暴れ猛る大熊ゴゲラは、命の終わりへと向けて、最後の足掻きに激しく生命を乱れさせる。大熊がのたうち回れば巨体に潰され、打ち付けた短剣の抜けないように、左手で頭の毛を掴むことを強いられた。
「あぐっ、うぅあああッ!」
途中、弾みでブランクの腕がゴゲラの口に放り込まれる。プロテマの堅固な守りによって、噛みちぎられることこそないが、その圧力はブランクの左腕を執拗に締め上げ、大熊ゴゲラが食いしばるたびに、ミシミシと悲鳴を上げさせる。その圧力は、ガルフなんかとは比べ物にならない。まるで上下から巨大な岩が食らいついてきているような、えもいわれぬ圧倒的な大質量が牙の形に折り重なり、ブランクの腕をこれでもかと潰しにかかる。
(こんなの──我慢比べだ! ゴゲラだって、今一番つらいはずなんだ!)
あと少しの辛抱だ。そう分かっているはずのに、左腕の関節が臼歯に決められ折られると、ブランクはとうとう限界を訴える悲鳴を上げた。
「うあぁあああッ!?」
「ブランクッ!」
ウィルの声が遠く聞こえる。ここに至るまで、意外と人間は頑丈だと思えることはあった。だがこれ以上はさすがに生命活動を維持することも厳しそうだとブランクは肌で感じていた。目にすることはできずとも、もはや感覚がなくなろうとも、左腕はズタズタに引き裂かれているのだろうという、そんな直感的な確信があった。
──もう、無理だ。そうやってブランクが意識を手放そうとした、その時だった。
「破壊の左腕」
ブランクの耳に、聞き馴染みのある声が聞こえた。それと同時に、大熊の顎の力が、一瞬で消え去った。ずるりと歯の隙間から左腕が抜けると、ブランクは自分の体勢を整えることも出来ずに地面へ落ちていく。
(ああ──これ、また剣を握れるのかな?)
見れば左の腕は無惨に皮がめくれ上がり、ややもすれば、抜き身の骨でも見えんと言わんばかりの状態で、そうだと言うのに、少しの痛みも感じない。あるのはその腕周辺の圧倒的な熱と、水膨れを剥いだような肌寒さである。その腕が地面に着くかどうかというすんでのところで、それを支えてくれた誰かがいた。ひどく掠れた視界は、その姿を朧げにしか映さない。
「ブランク、無事か?」
「……ジャン?」
切羽詰まった、しかしどこか安心するその声色は、よく聞いた馴染みのある声だった。
「まあ、及第点だ。ほんとによくやったよ、お前は」
誰かは分からない。おそらくジャンだとは思う。けれど、生まれて初めて、誰かに認めてもらえたような気がして。ブランクは、霞む視界の潤うことを感じた。体の外に流れるそれが、不思議と心の深奥に沁み渡っていくのを、ああ、悪くないと噛み締めて。
ブランクの意識は、抗い難い眠りの淵へと誘われ、どっぷりとその中に落ちてくのだった。