第三十八話『冷え切った火床』
ブランクは、エレノアの邸宅で厄介になる運びとなってからというものの、暇を持て余していた。肉の塩漬け作業も終わって、ようやく腰を据えてエレノアと話せると思っていたのだが、彼女はと言えば、奴隷商人や仕入れ人を下したことの報告や護送も兼ねて、一度帝都へ向かっているために、数日を留守にしている。
荷物もまだ返してもらってはおらず、与えられた自由も、この町から出ることは叶わず、せめてと、ブランクはエレノアに、遠征に出るついでにと、ジャンとウィルの特徴を伝えて、その情報を待つことにしたのだ。
ヴリテンヘルク大帝国が奴隷制度の廃止を唱えたこともあったが、エレノア自身、奴隷商に対しては私怨のようなものも抱いているようで、摘発による報復などの恐れはなく、自国の魔手が敵国といえ、他国にまで伸びてしまったことを、いたく気にしているようであった。
(にしても……意外だったなあ)
ジャンのことは知っていたようだった。それも、ただならぬ様子で。
始めは少しの動揺を見せて、瞳を潤ませて、それから、桜の散るような儚さを纏わせて、
「そう……」
と、子どもの頃のおもちゃ箱を見つけたような、どこか偲ぶるような面持ちで、一時の間、追憶の彼方を見遣った少女の顔は、今まで見たどの顔よりも美しく、寂しげで、少しの苦味を含ませていて──ブランクは、それが人の恋をしている顔なのだと知れば、胸の奥に突き刺さる小骨のような痛みを、優しく包んで、くしゃくしゃと丸め込み、流れる血潮の中に、かなぐり捨てた。
(そりゃ、ジャンなら好きになるに決まってるよね……)
気障ったらしい一面もありつつ、あまりに人間臭く、何よりも、頼れる兄貴分なのである。ブランクだって年頃の乙女ならば、その立場を置き換えれば、恋慕の情くらい抱くか、その起こりくらいは掻き立てられるだろう。その人となりを知れば、あけすけな眩しさに、自由奔放な大人の有り様に、ついと焦がされてしまうはずである。
そんな、水底に横たわる、気すら吐かぬ溺れた古木のように、いわゆる、どこか諦観の念を抱いたブランクは、胸の深奥にある、腐った水屑のような思いを、ただひたすらに埋めた。
「辛気臭いツラだにゃあ……」
「クロエ……」
先日の一件以来、クロエはわずかばかりか心を許してくれたようで、早朝の務めに出る前に、歯磨きをしながら、ブランクへ茶々を入れにきた。
「これからお仕事?」
「オイラがそれ以外にここを出たことがあったかにゃ?」
トイレ、という言葉が頭を過ったが、取り上げてそれとは言わなかった。ブランクは「そうだね」と返すと、ぼんやりと窓の外を眺めた。すると、クロエは取り立てて煩わしそうにため息をこぼすと「目障りだにゃ」と耳を低くして言った。
「気分転換に外でも行けにゃ」
「え? いいの?」
意外に目を丸くしてブランクが尋ねると、クロエはしっしっと手であしらった。
「どーせおみゃーに人の約束破るような勇気はないにゃ」
「そんなこと──ないな。確かにない」
売り言葉に買い言葉で反論しようとしたとて、ブランクは、こうして自分を騙すことすらできやしない。短い付き合いではあるが、嘘を見抜けることもあってか、クロエは、それをよくよく理解しているようだった。
(クロエはすごいな……)
意外であったのが、これが持って生まれた性質である、ということだ。禍猫種には度々、そのような能力を持って生まれる者がいるらしく、クロエはそれだったのだという。こうも気が回る子が、一体全体、どうしてあの子と過去に仲違いをしたのだろう。どのようにして、と、その理由に思考を巡らせば、あの性格である、と、ブランクは腑に落ちた。しかし、
「……おみゃーは心の顔とが丸出しにゃ」
「え?」
ブランクが苦笑に浸っていると、クロエは呆れようにそう言う。そして、じーっと訴えるような眼差しで見ていると、途端に視線を逸らし、観念したかのように、クロエは言った。
「あの子を先に裏切ったのは……クロエだにゃ」
(あっ──)
まただ、と、ブランクは思った。クロエは、度々自分のことを他人事のように言う。そういう時、彼女は決まって寂しそうな顔をするのだ。短い付き合いではあるが、心を読めなくたって、それくらいはブランクにも理解できてきた。
しかし、それが踏み込んではいけないものだと昨日に釘を刺されれば、ブランクにとってそれは、奥歯に物の詰まったような、あるいは喉に刺さった小骨のような、もどかしい思いが募る、目の上のたんこぶでしかなかった。
(いつか、話してくれるのかな……)
ブランクがそんなことを思ってると、クロエは言った。
「……いつか、にゃ」
「あは、あはは……」
白けた視線を受けて、ブランクは、また顔に出ていたかと、自分の頬を引っ掻いた。
「んじゃ、行ってくるにゃ」
「行ってらっしゃい」
そうしてクロエが仕事に出ると、ブランクもまた、屋敷の外へと出た。久々に外の空気を吸うと、ブランクは、どこか晴れ晴れとした気持ちになるのだが──。
「──……こんにちわ」
「……」
屋敷の門には二人も護衛がいるのに、そのどちらもが、ブランクに返事を返さない。それどころか、彼らの一瞥に込められた瞳には「厄介者が来た」と言わんばかりの、侮蔑と警戒の色が、濃く濃くと煮詰められていた。
(出てもいいん……だよね?)
邪魔をされないのだから問題はないのだろう、と、ブランクは、どこか後ろ髪の引かれる思いをしながら、屋敷を後にした。よもやクロエの算段の一つなのでは、などと肝を冷やしながら、都度都度振り返り、ブランクは、とうとう屋敷の見えなくなるまで歩いた。
屋敷の庭は少し広く、周りは塀に囲まれていて、門の兵に話を通せば、ブランクは、ようやっと敷地から出ることができた。気分転換一つなら散歩でも良かったのだが、前回見た時に気になっていた目的地のあったことと、どこまで許されるのかという好奇心とが相待って、ブランクは町まで出張っていた。
(子どもがあんまりいないな……)
これもブランクの知りうる中では、栄えた町の特徴であった。栄えた町街には、遊び歩く子どものいることが常であるが、この町にはそれがない。人気のない町は、噂に聞く貧民街よりも沈んだ印象を受けた。
それだけではない。出歩く人々も、その目には失意にも似た、あるいは諦観の念のような、どこかぼんやりと縁取られた曖昧な虚さを、皆、一様にその目に備えている。それがどこか空恐ろしくて、ブランクは、おっかなさに背中を押されれば歩幅を狭くして、ひたひたと、目的地への足運びを急がせた。
「ごめんください」
ブランクの訪れたその寂れた平屋の家は、居住区ではない。
(あれ、空気が冷たい)
中に入って、ブランクが真っ先に気にかかったことが、それだった。染み入るような金床の音も、溺れそうなほどの湿気も、肌の焼けるような熱気もない。
それどころか、肌に触れる空気はひんやりとしていて、湿気はあれど、それはどこか湿っぽいのだ。
キッシュベルクの鍛冶場は、ブランクが思っている以上に活気がなかった。
「すみません、誰かいませんかー?」
ブランクがそうやって中へ入っていくと、冷え切った火床が目に留まった。見れば炉などずっと火が入っていないようで、その周りには、煤の代わりに埃が積もっているくらいだった。
(ずっと使ってないのか……)
誰もいないのかと、ブランクが残念に思い、その場を立ち去ろうとした時だった。
「うぅ〜ん……」
地の底からうめくような声が聞こえ、ブランクは、乙女のような声を出して、心臓と一緒に地面からきゃあと飛び跳ねた。
「……なんだぁ、泥棒かぁ?」
「違います……って、何してるんですか?」
その男は、ろくすっぽ掃除もされていない、赤サビまみれの鉄片や、その切り粉や、埃だらけの床に、何の躊躇や戸惑いもなく、寝そべっていた。確かにこちらを見ているというのに、その焦点はいつまで経っても定まらず、完全に目が据わってある。ブランクがよく見たことのある特徴だった。
(うわっ、酒臭っ……!)
思わず鼻をつまみたくなるような、吐瀉物もないのに、それによく似た口臭が、口を開くたびに振りまかれていて、ブランクは、自分の育ての親の存在が、頭を過った。
(絶対に飲みすぎでしょ……)
人の酒の許容量には個人差があるというが、さすがにダザンと変わりない大柄な男の、身を囲むようにある酒瓶の量は、見るに余るほど異常である。
「なんだぁ? おれが昼間っから酒飲んで、なんか、文句でもあんのかぁ?」
(舌まで座ってるし……)
懸命に動き回る舌先のおかげで、なんとか言葉としての体面は保っているものの、その声はひどくガラガラで、聞くにすこぶる酒焼けしていた。
「あの、鍛冶場があったので気になって訪ねたのですが……でも一体全体、これはどうしたんです?」
何かあったんですか、とブランクが腰を低くして尋ねると、無精な大男は、視線を鋭くして立ち上がろうとした。
「あっ!」
すると、大男はだらしのないことに、自分で自分の体すら支えられず、また、ブランクの介助も間に合わず、とうとう床に腰を打ち付けると、また大の字になって寝そべった。
「あの、大丈夫ですか?」
ブランクがおずおずとそう尋ねると、大男は、再びのっそり上背を起こして、
「酒だ、酒を持って来い!」と、聞く耳持たなかった。
(相当悪酔いしてる……)
うぷっと膨らむ頬を見て、ブランクは、呆れたように聞いた。
「水じゃなくていいの? 吐けるなら吐いた方がいいと思うけど」
突然現れた若者にそんな口を聞かれたからか、大男は、なんだとぉ!? と強く息巻いた。
「吐くだなんてそんな情けなくて勿体ねえことができるかってんだ、反吐が出るぜ!」
まさに雷親父と言わんばかりの剣幕に、ブランクは少し気圧されたものの、その瞳には、持ち前の負けん気によって、強く反発心のようなものが芽生えた。
「はいはい。じゃあ、取ってくるね」
ブランクは酒の場所を聞いた。当然、ブランクは向かい酒などの類は信じていない。酒の居場所を聞いたのは、台所などの場所が知りたかったからである。
「……よし」
ブランクは、マグに注いだ液体を眺めながら、満足気に頷いて、それからそれをこぼさないように、先ほどの大男の元へと急いだ。
「よーしよし、持ってきたかあ」
「はい、どうぞ」
大男はブランクの手からマグを引ったくると、それを怪訝に眉をひそめて見つめた。
「なんだぁ? 気取ったもんに入れてきやがって」
水じゃねえだろうなあ? と言われて、ブランクは首を横に振る。
「ただの水じゃないよ」
「そうかあ、よしよし」
あまり深く聞きもせず、大男はマグカップをぐいっと一気に煽った。
「ぶふっ!」
そして、それを噴き出した。
「お、まえ、これ、何飲ませ……!!」
大男はむせながら、ブランクにそう尋ねた。するとブランクは、言った。
「塩水だよ。海水濃度と同じくらいの、ね」
人は──本能ゆえか。ある一定の塩分濃度にある水を口に含むと、肉体が拒絶反応を引き起こす傾向にある。それは飲めばえづくほどであり、元々分解されにくい酒が胃に溜まっていれば、その効果はやはり覿面である。ブランクは、海など見たこともないが、本で学んでから、自分で作ってみて、その効果のほどを、ジャンの介抱に使ったこともあるので、どれほど酔っぱらいに効くかを知っていたのだ。
大男は、一服盛られたかのように、ブランクを睨みつけていたが、ブランクは呆れたように言う。
「言ったでしょ? ただの水じゃないって」
と、ブランクが己の正当性を主張した時。大男は、その赤ら顔を途端に青ざめさせた。
この後の惨状と後処理の手間を思い浮かべて。ブランクは、深い深いため息をついた。
「ほんと、気が滅入るよ……」
大男は──盛大に胃の中身をぶちまけた。
※当作品による塩水を飲ませる対応は、この作品の時代背景に沿った、いわゆる民間療法に則ったものであるため、決して真似はしないようお願い申し上げます。




