第三十七話『するものとされるもの』
ブランクはベッドの上で、昨日エレノアと握手を交わした手を天井へ向かって掲げながら、思い出し笑いに勤しんだ。
思えばヴリテンヘルクに渡ってから──否、辿り着くまでですら、慌ただしい日々だった。領主には追われるし、因縁のヤラグ族とは過去の清算をしたし、挙げ句の果てには、洞窟の出口にて、蜘蛛男であるナハクと邂逅し、見事これを討ち倒したのだ。
だがしかし、快進撃と言えたのは、ここまでかもしれない。どちらかと言えば国を渡ってからの方が、苦難が多かった。何度死ぬ思いをしたことか分からない。
一度目は心を殺されかけ、二度目は巻き添えに殺されかけ──。
(もしかして僕って、相当ぼんやりしてるんじゃ!?)
いやいや、そんなことは──、とブランクは首を振る。油断や慢心は大敵である。ダザンにもしっかりきっかり、そう教え込まれてきた。しかしナハクとの激闘を思えばこそ、二度ならずとも三度までも、命の危機を迎えるとなれば、それは迂闊なことには変わりがなく、ブランクは、より一層気を引き締めねばと思うのだが──。
「へへっ」
あのツンと澄ました少女の信頼を、一つ勝ち取ったのだと思えば、ブランクは、琥珀色の瞳を喜びに細めた。
「ニヤニヤして気持ち悪いやつだにゃ」「うあっ!?」
次の瞬間には水を差されて、ブランクは、飛び跳ねた。
そうしてちらとベッドの下を見遣ると、ブランクは、そこへいた人物へ「いたの……?」と問いかけた。
「相部屋で誰もいなきゃ、おみゃーは相当な嫌われ者ってことだにゃ」
「うっ、たしかに……」
エレノアと和解してから、ブランクは一時的に屋敷で厄介になる運びとなった。しばらく留守を預ける間、クロエの目の届く範囲でなら自由を約束されて、ブランクは、束の間とはいえ、こうして羽を伸ばしている次第である。
そんな見張りもかねた同居人に身も蓋もないことを言われて、ブランクは納得すると同時に、どこか居心地の悪さも感じていた。
(なんだかなあ……)
その理由は明々白々であり、それはこの屋根裏部屋が、少し埃っぽいだとか、あまり日が差さないだとか、そんな大それた理由などなどではなく、根源にある、もっと分かりやすい、人間性による馬の合わなさであった。
(なんで、片付けないのさ……!?)
さすがに食べカスなどは見当たらないものの、室内には衣類がそこいら中に散乱していて、畳んでからつま先で蹴飛ばしたような形跡や、ソックスを踏み散らかしたような跡が見受けられた。顔は愛らしく、いかにも人畜無害そうなのに、中身はまるで真逆で、その光景たるや、さながら猪に荒された畑のようである。
「って──何してんのさ!」
「にゃ?」
突然の出来事に、ブランクは狼狽えた。黒髪の少女──クロエが人目もはばかることなく、目の前で、いきなり寝巻きをまくり上げようとし始めたからである。
「見て分からないかにゃ?」
着替えるに決まってるだろう? そう訴える眼差しに、ブランクはとうとう堪えきれずに顔を背けた。
「なんで僕がいる時にするかなぁ!?」
「着替えようとする時に起きてきたのはお前だにゃ」
ド変態、と続き、ブランクは否定する気力も失われた。
すっかりなじりながらも遠慮や恥じらいというものはないらしく、ブランクは、その背で布の擦れる音が聞こえてきて、聞きたくないと思いつつも、気がつけば聞き耳を立てていて。それを気づかれないようにと、心の中で、小さく祈り続けていた。
「終わったにゃ」
「まったく……目の毒だよ」
ブランクがそうやって訴えると、クロエは「失敬なやつにゃ」と顔色一つ変えずに言った。
「まあクロエの体はおみゃーとあんまり大差ないにゃ。気にするだけ無駄にゃ」
「いやいやいや……そんなことないよ。もっと自分を大切にしようよ」
ブランクが何の気なくそう言うと、クロエは意外に目を見開き、それから虚ろにブランクを見つめると、とうとう首を傾げた。
それから数回瞬きすると、その目の青は、途端に澄んでいて、
「エレノアも、君も──ボクにそう言う割に、自分のことを大切にしない。どうして?」
あ。と、ブランクは思った。彼女を纏う雰囲気が、また変わっている。その純粋無垢な瞳は、答えるまで待ちそうで、ブランクは、えっと……、と、咄嗟に答えを考えた。
「あの子のことは分からないけど……僕は自分を大切にしてないつもりはないよ」
ブランクがそうやって真摯に答えると、クロエは「でも──」と、また一つ疑問を呈した。
「キミは、いつも無謀なことばっかりしてるよね?」
弱いのに──と続いて。ブランクは、言い返せない情けなさやら歯痒さやらを奥歯で噛み砕いて、それから「いやいや待ってよ」と、弁明の声を上げた。
「僕は無謀だとは思ってないよ。勝算がない戦いは臨まないから」
そう返すと、クロエは「ふーん……」と不思議そうに唸った。それから、じゃあ──、と切り出して。
「キミは、無謀とすら思えないほど、バカなんだね」
「バ……!?」
あけすけに貶されてしまい、ブランクは、くらくらと頭に槌を打たれたような思いでふらつく足を堪えたが、何一つ言い返せない正論に、今度こそ思いの内で、白旗上げた。
「どうせ、僕はバカだよ……」
心の内に潜んでいたはずの図星を突かれ、ブランクは、とうとう畳んだ膝に、顔を埋めて丸まった。その様子に思いの外慌てて「わ、わ!」と愛らしい声を高くして、今度はクロエがえっと、えっと、と言葉を探している。すると──。
「世の中ずる賢い奴らばっかだからおみゃーみたいなバカがいてちょうどいいにゃ」
纏う雰囲気が、また変わった。その様子に気圧されていると、クロエは続けて言う。
「オイラもクロエも、お前みたいなバカなら……別に嫌いじゃないにゃ」
(オイラ……?)
一人称や雰囲気が、春の時雨よりも気まぐれに、激しく移り変わる。ブランクは「ねえ」と、とうとう気になっていたことを尋ねることにした。
「なんにゃ」
「君の雰囲気が時々変わるのが、どうしてか聞いてもいいかな?」
ブランクがまっすぐな瞳でそう尋ねると、クロエは、ゆらゆらと不機嫌に尾を左右へ振り回しながら、沈黙で間を取り持った。それから、
「……そこまで教える義理はないにゃ」
信用に足らないと目蓋で心の壁を作られれば、ブランクは「あ、はい……」としょんぼりうなだれて。部屋の隅っこへ視線を投げ遣るより他がなかった。
「そんじゃ──おみゃーのことは、エレナお嬢様が考えてくれるから、あんまり派手に動き回るんじゃないにゃ」
「外に出てもいいの?」
ブランクがそう言うと、クロエは一考挟んでから、ふっと一笑に付した。
「町の外に出たら抹殺命令が下ってるから、せいぜい気をつけるにゃ」
「物騒過ぎるでしょッ!!」
まあいいにゃ、と命を軽々しく扱われて、良くないと訴えようとしたところで。クロエは言った。
「おみゃーにそんな意気地がないことは知ってるにゃ」
「ちょっとだけ複雑な気持ちだけど……ありがとう」
どうやら少しは信用されたようで、ブランクは、少女と握手を交わした手に、ひとしおの喜びを感じた。
「気持ち悪い顔だにゃ。それだけはやめるにゃ」
「うっ……そんなこと言わないでよ」
そんな訴えも聞いていたのか聞いていないのか。クロエは、とにかく扉の奥へと消えた。ブランクは一人取り残されて、ひとまずはと、居候がこなすべき仕事として、部屋の掃除に取り掛かった。
しかし──、
「あっちに下着、こっちに下着……!」
いくらドロワーズとはいえ、男として見られてないのでは、と、ブランクは思ったが、ブランクは思い出した。
『冷静に考えたら、あなた程度にクロエをどうこうできるはずがないのよね。クロエもずっといるわけではないのだから、しばらくは同じ部屋でもいいかしら?』
いいわよね? はい決まり、と、半ば無理矢理に同居が決まって、ブランクは年頃の女子と相部屋になるなど初めてで、もはや気が気でない。
そう思っていたのも最初の内で、扉を開いて部屋を見れば、その幻想は容易く砕け散った。クロエは平気で服を脱ぎ散らかすし、もらった給金は雑然と服のそこかしこに引っかかっていて、あるいは隠れていて、ブランクはまるで、宝探しでもしているような気分だった。
(二十ネッカもあったよ……一日分の給金じゃないのかな、これ)
日当の相場がわからないのでなんとも言えないが、ブランクはそれらをまとめて、クロエの使われていない机の上にまとめた。
(そういえば、僕の路銀も賢者の書にしまったままだから──あっ)
ブランクは気づいた。今、自分が無一文であることに。
「もしかして、僕って相当やばい……!?」
「おみゃーがやばいのは元からだにゃ」
恐る恐る現状の確認をしていると、突然後ろからそんな毒舌が忍び寄って。ブランクは、ぎゃあと情けない声を立ててはおっ跳ねて。お化けだと思って振り返ったブランクであったが、そこにいたのは、件のだらしない同居人であった。
気づけば窓の外はもう日暮れ時で、クロエは一仕事終えてきたようであった。
ブランクは人だったことに安堵してホッと胸を撫で下ろすと、その同居人──クロエに、突然心を読まないでよと、訴えかけた。すると、クロエは「口からダダ漏れだったにゃ」とブランクを白い目で見つめた。そうして言葉を詰まらされたブランクにできることといえば、もはや話題を変えることくらいだった。
「そそ、それよりも、お金いっぱい見つかったよ! 二十ネッカもあって、ほら!」
ブランクは集めておいた二十ネッカを、クロエへ手渡した。ちゃんと管理しなきゃダメだよ、と言おうとしていたブランクであったが、次の瞬間、耳を疑う発言が聞こえてきて、
「お前にやるにゃ」
「そうでしょ? やっぱりお金はちゃんと大切にしないと──へ?」
用意していた言葉がお役御免となり、ブランクは、完全に肩透かしだった。しかし決して聞き間違いなどではなく、ましてや、そんなもの、見たくもないと言わんばかりに押し付けられたとあっては、ブランクの疑問は、ますます深まるばかりであった。
「これは贖罪だにゃ」
「しょくざい?」
尋ね返せど、クロエは内情を答えない。やがて──自己問答を終えて首を左右へ振ると、とにかくと、ブランクの手の中に、お金を突っ込んで、握らせた。
「生きていくのに困ってるわけじゃにゃいから、お金なんて、オイラには無用の長物だにゃ。そんな必死になるなら、使い方をよく知ってるおみゃーが使う方がマシだにゃ」
「でも──」
ブランクがそうやって食い下がろうとすると、クロエは、ぐるりと部屋を見回してから、言った。
「救いようのない下着漁りのついでに、部屋の掃除をしてくれたみたいだから、これは報酬としてやるって言ってるんだにゃ」
「下着漁りッ!?」
不名誉な誤解を受けて、ブランクは一つ物申さんと身を乗り出した。しかし──、
「誰かに世話をしてもらうというのはこんな気持ちになるのかにゃ、と初めて知ったにゃ」
そうしてくるりと回った黒髪の少女は、照れ臭そうに褐色のほほに、紅を浮かべて、
「案外──悪くないにゃ」
無垢に笑っていた。
ブランクは、意外に目を丸くして、返す言葉を失った。それから拾い集め寄せ集めた言葉は、あまりにありきたりで。
「……そうだろう?」
ニカっと笑うブランクを、クロエはやはり生意気だ、と言うのであった。




