第三章幕間『日常を支えるもの』
「メルー、聞こえてるー?」
当然、聞こえている。大好きな姉が部屋を訪ねてきて、メルは、毛布にくるまりながら、姉が去るのを待っていた。毛布にくるまっているのは、特別寒いからではなく、もしも姉が部屋に入れば、顔を合わせたくなかったからであった。
「ご飯、ここに置いとくから……」
しかし、それも無用な心配に終わったらしい。少し寂しげに揺れた声が、メルの心の内をかすかに撫ぜたくらいで。まだわずかに湯立つ、温かな食事の乗せられたトレーを、メルは扉を開いて確認すると、右と左とに、人の視線のないことを確認してから、ぴゅっとそれを持って、部屋へと引っ込んだ。
この生活は大好きな人がいなくなってから──いや、その旅立ちを聞いた日から、ずっと続いている。
ついて行くと言えば断られ、行かないでと言えば困った顔をさせてしまって。手詰まりな状況にどうすることもできなくて、歯痒くて、メルは、とうとうどうしていいか分からずに、日夜問わずに、枕を濡らして眠り続けた。
もう涙はとうに枯れて、泣くこともなくなって、お腹もぐうと鳴り、腹を減らして食べるようにはなったのだけれども、メルは、とうとう部屋の出方が分からなくなった。
扉の開き方が分からないわけではない。それなら食事を引き取ることもできないからだ。問題なのはむしろ、メルの元々の気質にある。
(わたし、どうやってしゃべってたのかな)
たった数日誰とも話さなかっただけで、メルは喋り方を忘れていた。それは言葉を忘れたとかではなく、声の出し方だとか、目線の合わせ方だとか、そういった類のもので、メルは、もしそういった状況になった時、これまでたくさんたくさん言葉を教えてくれた大好きな姉がひどく悲しい顔をしそうで、それが怖くて、顔を合わせるのも、部屋を出るのも、怖くて怖くて仕方がなくなってしまった。
(にーちゃ、どうすればいいのかな……)
お日様を見るのもつらくなって蓋をしたカーテンの隙間からは、しとしとと雨の走る音が聞こえて、メルは、じとじととした目で外を見た。そうすると、彼はもういないのだったと思い出した。
(にーちゃのうそつき)
ずっといてくれるって言ってくれたのに。どこにも行かないって言ったのに。メルのものだったのに。そんな嘘つきな彼が、この窓の外の同じ空の下、まだのうのうと歩いているのが、メルには、どうにも許せなかった。
(ねーちゃも、みんなうそつきだ)
連れて帰ってくれるって言ってくれたのに。引き止めてくれるって言ったのに。
(でも──)
メルは知っている。一番の嘘つきは自分だ。だって本当は二人のことがとってもとっても大好きなのに、閉じこもっていの一番に、二人のことを『だいっきらい』だと、自分の枕に、喚き立てていたのだから。
(にーちゃ……どこ行っちゃったの?)
とっくに枯れたはずの涙がぽろぽろとまた溢れてきた。ぐすんとぐずりだした鼻をすすると、メルは、一等毛布にくるまって、丸まった。毛布は暖かかった。ふわふわのもこもこで、寒がりに震えていた心の内を、じんわりと温めてくれるようで、メルは、その暖かさに寄り添い、心を預けた。
そうして安らぎに揺られていると、気がつけば夜が明けていた。モゾモゾと毛布から顔を覗かせれば、窓の外では昨夜の雨など忘れ去られたようで、小鳥たちが社交的に、あるいは愛を語らい合って、それぞれの日常の在り様を過ごしていた。
(わたし、寝ちゃってたんだ……)
メルは再び夢から引きずりだした現実が憎くて、むすっと唇を尖らせた。
幸せな夢だったのに──。
夢の中では大好きなあの人と姉の三人で、仲睦まじく料理を楽しんでいた。姉がふかしてくれた芋を自分が潰して、あの人がじゅうじゅうと焼いていた。木の実を混ぜたそれは嗅ぐに香ばしくて、溺れそうなくらい唾液の溢れていたことを、目覚めた今でも覚えている。
それを今食べようかという時に目覚めてしまったのだから、その口惜しさたるや、言葉にするのもむつかしい。あまりの悔しさに、メルは、代わりに自分の指をかじった。
(あれ?)
メルは、ぐうと腹の虫が鳴ると、部屋に美味しそうな匂いがするのに気がついた。
ご飯は確かに昨日食べたはずなのに、トレーの上には、またご飯が作られている。それもまだかすかに湯立っていて、それは、夢の中で見たふかした芋の、平焼きだった。
(妖精さん?)
昔、姉が読んでくれた絵本に出てきた。妖精はいたずら好きな精霊で、時々、人の前に姿を現しては、悪さをするのだという。でも、
(悪さはしてないような……?)
う〜ん、う〜ん、と、メルが唸っていると、再三、お腹がぐう、と「食べないの?」と、尋ねてきた。
(ごはん──のまえに、歯みがきしなきゃ……!)
姉との習慣で、メルは、寝起きのご飯前にはしっかり歯を磨く。キッシュという名の草に生える綿毛は歯毛とも呼ばれており、水気を含むと固くなって、メルは、それで歯を磨いている。
(ねーちゃとの約束)
歯の隙間まで欠かさず、念入りに。水を含んで吐き出すと、メルは朝食を食べた。妖精のいたずらにしてはあまりにおいしくて、メルには、姉の作ったものとの違いがあんまりよく分からなかった。
そうして食べ終えると、メルは、妖精にお礼を言いたくなって、まんじりともせずに朝を迎えた。途中うとうとすることはあったけれど、目をこすってこらえた。
(──きた!)
メルは、妖精じゃなかったら嫌だなと、毛布をぐっと巻き込んだ。そうしてしばらくすると、足音が聞こえて、やはり人だとメルは思った。そしてその人物は「さて、始めますか」と言って自分を勇気付けると、パタパタとあわただしく、なにかをし始めた。
どんな人なのかが気になって、毛布の隙間からこっそり顔を覗かせると、メルはよく見た顔にびっくりして、ぴゅっと毛布へまた引っ込んだ。
(ねーちゃだ……!)
鼻歌まじりに掃除に勤しむ姉は、こそこそとメルが見ていることにも気づかずに、メルの部屋を隅々まで清掃していった。
そうやって掃除を終えると、大好きな姉は、トレーに乗せた食事を運んできて、机の上に置いてから、部屋を去った。去り際に見た姉の目は、クマだらけで腫れぼったかった。
(ねーちゃ……ねてないの?)
思い返せばメルが引きこもってから初めて見た姉の顔は、少し痩せこけていた。昼の仕事もやって、早朝からメルの部屋の掃除をしていくのだから、当然だった。
メルは、今まで特に気にしていなかった。部屋が綺麗なのも、ご飯があるのも、当たり前だと思っていた。そんなはずはないのに。みんな、大好きな姉が、身を削ってやってくれていたことなのだ。
それに比べて自分は、大好きな姉に、ずっとおんぶに抱っこだ。
(ねーちゃ……)
それはいやだ、と、思ってから、メルは、首を横に振り、気がつけば扉を飛び出していた。
「わっ!?」
驚きにトレーの上の食器をひっくり返したこともお構いなしに、メルは、大好きな姉の腰に、飛びつき、抱きついていた。
「えっ、ちょっ、メル! ごめん、起こしちゃった?」
てんやわんやに困った姉の姿を見て、メルは、とうとうこらえきれなくなった。
「ねーちゃ、ごめんなたい……」
あっ、と思った。泣いて震えた舌がしっかり言葉を発してくれなかった。やっぱりちゃんと喋れなかった。それなのに、
「メルぅ〜! 良かったぁ、もう顔も合わせてくれないかと思った……!」
大好きな姉は、困ったような顔をしてから、笑って、それなのに、泣いていた。色々な顔をしていたので、メルは思わず、
「ねーちゃ、かなちー?」
と、聞いていた。すると大好きな姉は、声を震わせながら、
「ううん、嬉しい。大好きだよ、メル……!」
と、言ってくれた。メルはその言葉を聞いて、悲しくないのに涙がポロポロと溢れてきた。
昨日までは胸の内まで冷えていたのに、今日の涙はまるで、心の奥底から温かさが溢れてくるようだった。
それからメルは、大好きな姉と話をした。今まで話せなかったぶんを取り戻すかのように、たくさんたくさん話をした。メルは話すのが得意ではないから、大好きな姉がよくよく話しかけてくるのだけれど、メルはいつにも増して、頑張った。
「今日はお風呂一緒に入ろうね」
「うん」
「今日は一緒に寝ていい?」
「……あんまり強く抱いたらだめ」
「メルが大切だから……だめ?」
「だめ」
「釣れないなあ……でも一緒に寝てくれるんだ?」
やったぁ! と喜ぶ姉は、心なしか、今朝より顔色が優れていたように思えた。
その夜の夕飯時には、父とも顔を合わせた。父は、メルを見れば驚いたように目を丸めたけれど、それから、何事もなかったかのように「食事にしよう」と微笑んだ。
メルは改めて、たくさんの大人たちに自分が愛されていたのだと気がついた。父や姉や、心配だけでいえば、きっとジジにも。もしかすると、あの人にも。
夕飯を食べ終えてから、食器を洗っている姉の後ろで、メルはこっそりと、父に話しかけた。
「とーちゃ」
紙に筆を走らせていた父は「うん?」と意外そうに顔を上げてから、ペン先をインク瓶に入れた。
「メル、にーちゃを追っかけたい」
「ふむ」父は、真面目な顔をして考えた。
「メル、メルの人生はメルのものだから、僕は、メルが考えたことは応援してあげたい」
父の言葉にメルの顔がぱあっと明るくなると、父は「だけど──」と言葉を続けた。
「僕はメルの父親だから、メルが一人前にならないと、不安で不安で仕方がないよ」
メルはとってもかわいいからね、とも付け加えて。
「かわいい子には旅をさせろと言うけれど、ブランクくんだって、認めてもらうにはたんと苦労をしたんだ。これは意地悪で言っているわけじゃない。メル、僕は、メルが心配だから言っているんだよ」
「とーちゃ……」
納得できる言い分と、結社通らない意見とが自分の中で混ぜ混ぜになって、メルは、悔しさに口を小さくしてうつむいた。
「せめて僕やダザンさんが安心できるくらいの腕は、磨いておいてほしいかな」
サリナは駄々をこねるだろうけど、と続けて、父は言う。
「メルの苦手な言葉だって、覚える必要がある。でもね、父さんはメルがそれをできないだなんて思ってない。──と言うと、重荷を背負わせるか……?」
終わりに向かって小さくなった声は、あまりよく聞き取れなくて。メルは、もう一度言ってほしくて、首を傾げた。すると父は「そうだね……」と言葉を探るように視線をよそへやってから、言った。
「メル。メルの目標は、実はとっても大きな目標で、そのためには、メル自身が頑張らないといけないんだ。けれど──父さんは止めないよ。メルが初めて、自分でやりたいと言ってくれたことだからね。そのためにできることは、父さんは惜しまないつもりだ」
ただ──、と父は続ける。
「それは、今すぐにできる事ではないんだよ。何事にも、準備というものが必要でね。すぐ行こう、というわけにはいかないんだよ」
わかってくれるかい? と言われて、メルは悔しさに口をとんがらせた。結局昨日までと何も変わらない。変わろうとしたって、ぜんぜん変われない。目蓋が熱くなって、焦がれた気持ちが溢れようとした時、父は言った。
「でも──僕からダザンさんに頼んであげるよ」
それでいいかい、と、父が優しい笑みでそう言った。しばらく何のことか分からなくて、メルがぼうっとしていると。父は「やめとくかい?」と聞いてきて、メルは、とんでもないと、首の取れそうなくらい、横に振った。
「ジジの……いーの?」
「かわいい娘が初めてやりたいと言ったことを応援しない父親はいないよ」
などと言いながら。照れ臭くなったのか、父は苦笑いを浮かべながら、頭の向こう側をガシガシと掻いた。
「いやはや、面目ないね。メルの引っ込み思案も、もしかすると僕のせいかもしれないのに」
「──!」
そんなことはないと、首を振っても、父はこっちを見ていなかった。
「母さんが亡くなってから、こっちの生活を落ち着けることばかり考えていて、思えばメルにあまり構ってあげられなかったね」
ダメな父親だよ、私は──と続けば、メルは、居ても立っても居られなかった。
「とーちゃ! めっ!」
「……メル?」
ぱちくりと驚く父の顔は、とても新鮮だった。でも今はそれよりも何よりも、伝えたいことがあった。
「とーちゃは、メルのとーちゃは、やさしくて、メルは、すき」
本心だった。メルは、父の優しいようで、過保護過ぎない絶妙な距離感が、とても居心地が良くて好きだった。そこに甘えていたのは自分で、父には何の責任もない。
「メルがこわかったのは、メルがこわいから。でも──」
これからは、それだけではいけないと、メルは決意を固めた。
「メル、これからはがんばる。おしゃべりも、おべんきょうも」
「…………メル。メルは、えらいね」
くしゃりと撫でられた頭には、じんわりと父のぬくもりが広がった。それは、あの人からもらったぬくもりのようで、メルはとても気持ちよくて、思わず目を細めた。
それに引き替え、と、父は続けた。
「ブランクくんは罪な男だね」
「にーちゃ?」
そう。と、父は複雑な顔をしていた。




