第三十六話『助ける理由はないけれど」
『遺言なら聞いてヤるぜ、串刺しにする前ニな』
(実際に言うんだ……)
周りを見れば、厄介ごとはごめんだと言わんばかりに、孤児たちは姿を消していた。あるいは幻だったのかも、と思いながら、ブランクは「あはは……」と笑いながら、背中を向けて駆け出した。
「……ばいばい!」
『コロす、絶対コロス』
わずかながらに残っていた理知的な品性も、その大牛は、全てを捨て去っていた。もはやほとんど魔物と成り果て、血走った眼は、常に本能のまま逃走する獲物を捉えていた。
(詠唱する時間がない!!)
つい最近まで、自分がどれだけ魔法剣に頼っていたかを思い知らされ、ブランクは、下唇をきゅっと噛み締めて、走り続けた。
(もうすぐ路地を抜ける。そうすれば──)
広場へ出れば、やりようがある。回り良ければ、憲兵団が駆けつけてくれるかもしれない。ブランクが、そう思いながら走っていた時だった。
「え」「あ」
曲がり角から現れたのは、亜人の親子だった。二人は刹那の時間に、ブランクの背後から迫り来る危機を見遣ると、途端に目をふやけさせ、紛うことなき死の予兆に、終生の訪いを、容易く受け入れたようだった。
(くそっ……!)
ブランクに、他の手立てはなかった。ここでこの二人を見捨てられるほど非情なら、ブランクは、もう少し上手く立ち回れているはずだからである。
「ゴアドッ!!」
ブランクは振り返り、精霊の力を借りて、迫り来るツノを握りしめた。
(重……痛ッ……!)
普段ならばプロテマと併用して使うゴアド。膂力が増したとて、受ける衝撃がそのままであるならば、その衝力が逃れる術などなく、そのとめどない重量が、一点、ブランクの体を圧し潰さんと、一身に降り注いでいた。
「逃げ──」
ブランクは言いかけて、それが不可能だと気がついた。顎が浮いたぶんだけ、頭が下がる。しかし、その意思が通じたのか──はたまた、巻き込まれまいとしたのか、いずれにせよ、ブランクの思惑通り、二人の家族は脱げた靴を放り捨てて、まさに裸足で逃げ出した。
(良かった。いや、良くない……!)
ブランクは、自分が普段どれだけプロテマに頼っているのかを、思い知らされた。歯が、骨が、関節が潰れそうで、そうはさせまいとする筋肉の全てが剥離しそうで、全てが軋る音に、ブランクは、とうとう自分の人生の終わりを見た気がして、一寸の隙間もないほど息が体を満たして、体からは、魂が抜け出ていくようだった。
『潰レロ、チブレロッ!!』
(だんだんと言葉が──)
思いかけて、ブランクは希望の光を灯した。この悪人は、果たしてどれだけの時間、変身し続けることができるのだろうか。力には代償が伴うのが、世の常である。火を燃やすのにだって、燃料がいるのだ。魔術に魔力が必要なように、これだけの圧倒的な暴力、何か代償があるはずだと、ブランクは少ない酸素で、必死に脳を働かせた。
(どうする? どうする!)
今更プロテマを発動させたとて、もはや衝撃どうこうというものではない。ゴアドの膂力も、衝撃を受け止めたことで、かなり消耗してしまった。我慢比べは、とっくに出来レースとなってしまっている。もしこの怪物が、ずっと変身できるなら、どうなる?
(ダメだ、僕がなんとかしなきゃ……!)
外的要因へ過度な期待を抱くのは、ただの希望的観測だ。それは油断や慢心を生み、即座に命を脅かす存在となる。ダザンに口を酸っぱくして教えられたことだ。
(それに──)
ここでこの化け物を野放しにしたら、何が起こるか分からない。先ほど同様に、何の罪もない人が傷つけられるか、この美しい町並みを破壊して逃げ去るか、いずれにせよ、碌でもない結果になることだけが、明々白々である。見逃すという選択肢は、当然ない。しかし、かと言って、逃げ出すという選択肢も現実味がない。刻一刻と差し迫る死の足音を聞きながら、ブランクは、ハッとした。
(もしかすると、あれなら──!)
ブランクは、迷いながらも、その時間がないことに気づけば、即座に行動へ移した。当然悠長に詠唱などしている時間はない。無詠唱である。失敗すれば、命の保証はない。今更だ。これまで幾度もこのままでも既に、命の保証がないのだから。
「ラズンッ!」
ヒュッと、喉の鳴るように。視界が一瞬落ちそうになると、なんとかそれを持ち直して、ブランクは、この大牛と対等とまでは行かなくとも、自身の体重が、軌道を逸らすことならば可能であるくらい増していることに、気がついた。まだまだ質量差はあるが、ひとまず、爪の皮一枚程度の呼吸をする余裕ができただけ、めっけものである。
「うぁああああッ!!」
それから、ブランクは、力任せに一度押してから一気に引きつけた。そうして大牛が石畳を砕きながら顎を打つと、赤枯れ色の髪したその少年は、ありったけの力を込めて、大牛の眉間に拳を打ち込んだ。
「これで、どうだッ!!」
一発、二発では足りないと、ブランクは、三発目をかましたところで、一度、死にはしないかと不安が過って。ブランクは、彼の牛の目玉を覗き見た。少しその視界に濁りが見えたか。意識のないことを確認するやら否や、大牛の体は、徐々に小さくなり始めた。
(良かった……ゴアドによる負担も考えれば、限界だった)
ブランクが、ふう、と一息つくと、そこへ「おい、そこのお前!」と、声がかかり。ブランクは、いっ!? と虫の断末魔のような声をあげて、振り返った。
「これは何事だ、それに、貴様、ヴリテンヘルクの人間ではないな!?」
「あ、憲兵さん。これには事情があって──」
ブランクが、そうやって弁明に気を抜いた──その時だった。
『気付けにちょうど良かったぜ、お前のヘボいパンチは』
不快な低い声が響いたかと思うと、ブランクはあっという間もなく異変に気がついた。
「なっ──にッ!?」
ブランクの体を、大きな手が掴み取った。それは見るに不潔で、爪は黄ばんで白みがかり、赤黒い。咄嗟に突き飛ばした憲兵は、その光景に尻込みして、脇目も振らずに逃げ出していた。
「プ……プロテ、マ──」
息苦しさに苛まられながらも、これを通せば先がない。ブランクは、なんとか発動させたプロテマで、それ以上の体を潰さんとする圧力を分散させて、一命を取り留めた。
しかし、それはただの気休めでしかない。窮地は依然変わらず、ブランクは、あれほど気をつけていたはずなのに、と、その不意打ちをかました薄汚い悪党を、力なく睨みつけた。ただしそんなものは、もはや、ただの強がりでしかなかった。
その悪党は、ゲヒゲヒと笑って、それから、ブランクの前で、大見得切って、これでもかとその青い心を煽り立てた。
『甘ぇなァ! ガキはバカで、ほんっと助かるぜェ、えぇッ!?』
その大牛だった悪党は、少しばかりこぢんまりしたものの、未だ大柄な体は、人としての要素を残して、それから、剛腕を以って、ブランクへ襲いかかったのだ。
ブランクは、なんとか身をよじらせながら、一呼吸できるほどのゆとりを肺へもたらすと、息も絶え絶えに、脱出が困難であると認めると、歯痒さに、とうとう口で抵抗するしかなくなった。
「おま、え……ほんと、卑怯だぞ……!」
ブランクは途切れ途切れにそう言った。この悪党には、正々堂々と言う言葉がない。同じ悪党でも、この男は、ナハクとは比べるべくもない、恥という概念が欠如しているように、ブランクには見受けられた。現に、男は言う。
『青臭ェこと言うなよ。オレぁ、テメェのことをソンケーしてるんだぜ?」
と、牛男は、まるで恭敬の念など一つも抱かずに、言ってのけた。
『今まで散々バカだバカだと思う奴らは見てきたが──その中でもテメェは、ぶっちぎりの、クソミソのバカだぜ!』
でっはははは! と嘲りに嗤う男に、ブランクは、自分でもその理由を考えた。しかし、その理由は、意外にもすぐに見つかった。
『他人なんて踏み台を助ける気持ちが知れねェよ、どういう脳みそしてたら、そんな考えに至るんだ?』
理解が及ばない。あるいは、理解したくもないと言わんばかりに、牛男は、ブランクへと唾を吐きかけた。生臭い。吐き気がする。けれど、ここで言い返せねば、その心すら負けを認めたことになる。少なくとも、ブランクには、そう感ぜられた。
『あァん?』
だから、ブランクも唾を吐き返してやった。この唾棄すべき悪党に、言い返してやった。
「助ける理由はないけれど……助けない理由は、もっとない。お前にへは、一生かかったって分かるもんか」
ブランクはそうやって言葉にしながら、ようやく納得した。腑に落ちた。これまであった自分の行いを、ようやくうべなうことができた。
言ってしまえばそれは本能のようなもので、持って生まれた性なのだ。だからそこに大層な理由などなくて、我が身かわいさだとか、そんなものは二の次で、気がつけば、いつの間にか助けに行ってしまっている。自分で自分をバカだとは思う。
(でも──)
少なくとも、この気持ちを他人がバカにする権利は、一つもない。ブランクの強い意志を受けた仕入れ人は、
『死ね』
感銘を受けるわけでもなく、何の琴線に触れることもなく、悪辣な言葉と共に、ブランクを地面へと叩きつけた。
『青臭ェ芋虫みてぇなもん吐きやがって。気持ちわりィんだよ、ダボが!』
ブランクの体に、そんな雑言と、巨大な拳が叩きつけられる。ブランクは、せっかく解放されたというのに、なす術もなく、床と拳の板挟みになる。それもそのはずで、ブランクは、最初に打ち付けられた時に既に、脳に過度な衝撃が走っていた。
あまりに打ちどころが悪く、常ならば致命傷であったが、プロテマがそれを拒んだ。だが、その代償はあまりに大きく、もはやブランクは、まな板の上の魚そのものであった。牛男は『気色悪ィんだよ、テメェら偽善者は!』となじりながら、大振りの拳で、ブランクのいた石畳へ向かって、立つ砂煙の中を、ひたすら殴打し続けていた。
『綺麗事だけ言ってりゃ、世の中が回ると思ってやがる! バカは光が強くなれば、その分影が濃くなることを知らねェ!』
もはや牛男は、ブランクすら見ていない。その盲目的なまでの怒りは、社会の仕組みそのものへ向けられている。
『テメェらが綺麗事を言えば、そのぶん割りを食った奴らがまんまを食いっぱぐれんだ! 今で手一杯な奴らのことを何にも考えてねえ!』
牛男は、肩で息をしながら、言った。
『オレは、帝都で油商人をやってたんだ。税率が上がったから、そのぶん油の値段を値上げしてやったのよ』
ところがどうした、と牛男は続けた。
『他の油屋が値段をバカみてぇに釣り上げるから、お前も上げろと、脅されたのさ。それに逆らえばテメェのとこの油を、全部燃やしてやるってな!』
だかよぉ──と、牛男は、辛抱たまらんと言わんばかりに、声を震わせた。
『市民に言われたさ。高すぎるってな。オレもそう思ってたさ。だから、その日、こっそり店に来た奴らにオレは、油を常相場で売ってやったのよ』
すると、牛男は歯を怒りに軋ませ、吠えた。
『その夜、オレの店は燃やされ、それ以前に高額で買った客に、オレは刺された!!』
怒りが天を衝き、牛男は、額に青筋立てて声を荒げた。
『真面目にやりゃバカを食う──そんな世の中で、偽善ぶった奴がいるのが、オレは絶対に許せねェ! 死ね、全員死ね、テメェは死ねッ、オレが殺すッ!!』
止んでいた拳の嵐が、再び拓けた土煙の中へと向けられた。
『何ィ!?』
だが──そこにブランクはいなかった。代わりに、
「そう──。なんだ、彼、いい人なのね」
鈴鳴りに澄んだ、よく通る声が、響いた。声に誘われるままに、牛男が奥手の屋根の上を見ると、そこに、小さな人影があった。
『テメェは……!』
牛男は、一驚飛んで、それから歓喜に震えた。牛面のままでも分かる醜悪に歪んだ笑みは、亜麻色の髪した少女へと向けられた。少女は赤枯れ色した少年を近くの煙突へ寝かせると、そのまま屋根の上から飛んだ。
「まっ──」
待ってと言いかけて。ブランクは、プロテマをかけようとするのに、思考が飽和して、上手く呂律が回らず、少女の勇姿をただ見守るしかできなかった。
だが──。
『げっへへへ、テメェだ、テメェさえ捕まえれば、オレはまだ帰り咲けるのさッ!!』
牛男は、まるで蝶でも掴むかのように、左右から大きく手を振りかぶって、少女を素早く掬い取った……ように、思えた。
『は……待て、なん、ちょ──』
牛男は、目に見えて狼狽した。自身の指一本ぶんくらいの背丈しかないその少女に、自身の巨大な手が、容易く押しのけられているのだから。この大柄な牛男の鹵獲
少女は、涼しい顔をしたまま、左右から挟むこもうとする指を握りしめ──砕いた。
汚い断末魔が響いた。あひあひと苛む痛みに悶え、苦しみ、慟哭し、のたうち回り、えづいた。
「汚い手で触らないでいただけるかしら。未来の旦那様に失礼よ」
予定もないけど──と続ける少女は、牛男が泣き叫ぶ姿を見下しながら、その動きがないことを確かめると、ボソボソと小さく、何かを呟き始めた。
『て、テメェ……一体何もんだ!! ただの領主じゃねえな!?』
牛男の言葉に、少しの呟きを続けてから。少女は、名乗った。
「エレノア・ラーゼンヴァルグよ。領主の名前も知らないだなんて、あなた、商人としては落第よ、非常識もいいところだわ」
ラーゼンヴァルグ。その名を繰り返す牛男は、記憶の中から、そそりを掻き立てられ、顔を青ざめさせた。
『ってぇことは──テメェが〝英雄の忘れ形見〟か!!』
そう聞こえて。
「ええ……そうよ。そして──その責務はしっかり果たさせてもらうわ」
ブランクは心なしか、少女の怒りに震えた声の中に、寂寥感にも似た、自罰的な、およそ同じ歳の頃とは思えない、重みのようなものを感じていた。そして──、
『吐かせ小娘がッ!!』
牛男が最後の足掻きをする頃には、ブランクは、周囲の異変に気づいていた。魔術反応である。巨大な魔法陣のようなものが、その照準が、牛男の全身をしっかり包んでいることを。
「降り注ぐ魔王の眼光ッ!」
『なんッ──』
それが、男の最後の言葉となった。短い断末魔だった。
魔法陣からは雲間から差す日柱のように強い光が立ち込めて、それが男の体に触れると、ゾッとすることに、男の体は、頭からどんどんと色褪せては忘れ去り、固まり、ひび割れ、吹く風に侵され、お終いにはとうとう砂となり、それは、もう命として成り立たなくなってしまって。
もはや素人目にも高位の魔術を見届けて。
ブランクは、全てを見届けると、フッと意識を途絶えさせた。




