第三十五話『闘争する罪人』
一体どれほどの時間が経っただろう。見るに山のようだった高積みされた切り身の肉も、気がつけば、ブランクの背よりも低くなっていた。完成品はたびたび訪れたクロエが運んでいった。謎の達成感で満たされたブランクは、ここで、完成品の山を眺めることができないのを残念に思って、額の汗を腕の背で拭い去った。
「ようし……あと一息だぞ!」
人間やればできるものだと、ブランクは、感動を覚えた。最初に見た時は、冗談にしても笑えない……と思っていたのに、いざやり始めてみると、思いの外コツなどを掴んでいき、手際よく進んでいったのだ。これにはブランクも驚いた。
(このぶんなら、本当に一日で終わるぞ……!)
外を見遣れば日はとうに傾き、遥か彼方にある空色が、だんだんと茜色を迎えつつあった。それでも続ければ、目に見えて報いがあるものであり、ブランクは、本来の目的を忘れて、この作業を楽しんでいる自分に気づいてしまった。
(いけない。これは二人を探すためにしてることなんだから──)
脳裏を掠めたのはウィルとジャンの存在だ。けれど、二人を見つけた後に生きていくためには鍛冶屋だけでなく、自分には、色々な生きる道があるのだと、こうして気づいた。外に出れば色々な発見がある。それこそ国を出ればこちらへ来てより、多くの知見があったように、ブランクには思えた。
まさに。まさに、ジャンがくれたきっかけの言葉通り、ブランクは、たくさんの楽しさを見つけた。それは年相応に遊び歩くようなものではなかったが、強いて言えば、常人ならば、まともに持ち合わせるような知識欲をそそり立たせるような。あるいは、世界を識るという、未開域を踏破するような、持って生まれた性とでも言うべき達成感を、ブランクは、村を旅立ってからの数日で、既に多くを学んでいる。これからだって、そうあるべきなのだ。
(そうだ、早くあの子の信頼を得て、僕の荷物を返してもらわなくっちゃ)
思い立てば最後の仕上げまでが早かった。一息かかるところを、ブランクは、根性一つでたちまち片付けて見せたのだ。
「終わったーっ!!」
もうさすがに限界だ、と人の目もないのだからと、ブランクは、恥も外聞もなく、どさりと大の字になって、床へ寝っ転がった。そうしてパンパンになった前腕の存在を、まるで、確かめるかのように指の先をにぎにぎ丸めると、ブランクは、自分へ伸びてくる影に、今度こそ気がついた。
「よお、お疲れかい?」
「トートードさん!!」
ブランクは、そこから覗いた顔が、あのなまりっ気のある好々爺だと気がつくと、ガバッと飛び起きて、それから失礼のないようにと、念のため、服についた土埃を払ってから、彼の哨戒兵を出迎えに向かった。
「お仕事はもういいの?」
と、尋ねると、トートードはいっひっひ、と上機嫌に笑う。
「おまんさんの様子を見てお勤めは終わりだよ」
「そっか……」
わざわざごめんね、と謝ると、いいさあ、とトートード。
「おでだって、今回のこと、力になれなんだに」
今回のこととは、きっとブランクの疑いを晴らすことができなかったことだろう。先刻のブランクなら、エレノアの愚痴の一つくらいこぼしていたかもしれないが、今のブランクは、そんな気には到底なれなかった。
「ううん、本当のことを言ってくれただけで、僕は嬉しいよ。僕も男だからね。自分の疑いくらいは、自分で晴らしてみせるさ」
変わってんなあ、おめさは……。と言われて、ブランクは、そうかな……。そうかも。と、どこか納得してしまった。賢者の弟子なのだから、変わり者ではあるのかもしれない。それから、成果はどうだいと問われると、今しがた下処理を終えた肉を、親指で示して胸を張る。
「おー、やるでねーけ。おでもやったことあるが、まま、しんどいよなあ」
狩りに出るよか楽だけ、贅沢は言えんがねえ、と続けるのがトートード。それを受けて、ブランクは、そういえばと、ついぞ気になっていたことを、とうとう尋ねることにした。
「これだけのお肉、いったいどうやって集めたの?」
今まで何の肉かも分からずに触っていたが、これだけの数である。ともすれば、生態系の危機であるのではと、いらぬ心配を抱いていると、トートードは「そうか、おめさんはよそ者であったけか」と、得心いったように、塩のついた肉を撫でた。
「こいつぁ、アザラシだ。『ダルカマルダ』つう、どえれぇでっけぇ魔物だ」
もはや語るばかりの身振り手振りすらしないので、ブランクには、それがどれだけ大きいのかなど、皆目見当もつかなかった。そうなると、双方に理解のある大きな生き物が、パッと脳裏に浮かんだので、ブランクは、それと比較することにして、打診してみた。
「どれくらい大きいの? ベルベントくらい?」
ベルベントといえば大層大きな蛇だ、何せ体が建物くらいあるのだから。ブランクが何の気なくそう尋ねると、トートードは、いかにも浅薄だ、と言わんばかりに、ははは、とどこか乾いた笑いを浮かべた。ブランクは、何がおかしいのだろうと、首を捻った。
「子どもでベルベントくらいだ、と言えば分かるかね?」
「またまたぁ、トートードさんでも冗談って言うんだね?」
僕、本気にしちゃいそうだったよ、と笑い飛ばせば、その好々爺は、まさに大人が子どもを微笑ましく見守るような優しい顔で受け止めるので、ブランクは「まさか……」と、頬を引きつらせて笑った。
「うそでしょ?」
「狩猟期は豊穣祭と呼ばれてね。帝国の一大イベントさね」
聞く気になって初めて進められた会話に、この話の信憑性はぐっと増した。
「ダルカマルダの求愛期には、ナワバリを追いやられたオスが流れてくるのさ。貴族やその私兵たちは、皆、この狩猟期に、領民が食いっぱぐれないように、冬を越すための食べ物を賄えるようにしなければならないという、まあ一つ義務があるのだね」
「そうなんだ……」
まあ、それもついこの間終わったけど、と言われると、ブランクは、なんだ、と、どこかガッカリした。というのも、豊穣祭といえば、賢者の冒険譚でもお目にかかったことがあるからである。
しかし、それも文字だけだ。ダザンは西の国出身であるからか、民族ごとの特色は深掘りしても、ことさら珍しくもないという豊穣祭は、あまり大っぴらに取り上げてはいなかった。
もしくは兵糧などの問題で、東の国に知らせては不利だという、政治的側面もあったのかもしれない。いずれにせよ、その全貌の、氷山の一角にあるものを見て、ブランクは、とうとう異国の文化に触れたような気がして、鎮まった気持ちが昂ってきた。
「……面白い話かい?」
言われてはたと、ブランクは、自分の頬を撫でる。
「……そんな顔に出てました?」
「君ほどあけすけな少年は見たことがないんね」
そうかな、とブランクは難しい顔をして。自分の顔を、ペタペタと触りやる。それを見たトートードは、ああ、おかしいと、腹を抱えてケタケタた笑い遣った。
「おめさん、顔に血を塗るやつがあるかい」
「え。あっ」
ブランクは、言われてとうとう気がついた。日がな一日、鮮度の高い肉(後の方は乾いていたが)をベタベタと触っていたのだから、手が汚れるのは道理で、それで顔をいじれば、たちまち汚れるのも、また道理であって。ひーひーと言って、それからくっくっと腹の底を唸らせて笑うトートードは、倉庫の外を、ピッと指差して促した。
「外に洗濯用の水路があるから、そこで顔を洗ってきねい」
「ありがとう。──って、そんな笑わなくたっていいのに!!」
まだ腹を抱えてよじれているトートードの笑いのツボはさておき、ブランクは、倉庫の外に出て、人気のない水路の段を降りて、流れる綺麗な水を掬うと、それで顔をじゃぶじゃぶと洗った。
流れていくのは血だけでなく、疲れも洗われるようで。ブランクは、寂寥感のある黄昏に、ふうと一息吐くと、この空のどこかにいるウィルとジャンのことを思った。
(二人は今、この国のどこにいるんだろう)
きっとこの国にいるはずだ。それを信じて探している。もしかしたら、この町にだっている可能性はある。
(余裕ができたら、少し聞き込みでもしてみるかな)
そのためには信頼が必要であるのだが、急がば回れという。特に、人と人との交わりが、一朝一夕で果たされることはないと、ダザンから、口を酸っぱくして教え込まれたのだから、それはブランクも、よくよく分かっていた。
お互いに気を許せている気がするので、まずはトートードから、と。ブランクが倉庫へ戻ろうとした時だった。
「え」
ブランクの視界に、見覚えのある人物がいた。それは人目をはばかるように不審に辺りを窺うと、慌てて路地裏へと消えていった。
「待っ──」
言いかけて、ブランクは思った。今ここでトートードの元へ行っては、間に合わないと。このままでは、きっと見逃してしまう。しかし勝手な行動を取れば、今度こそ信用は地に落ちるだろう。それで済めば生易しい。場合によっては、二度と日の目を見ることはできないかもしれない。
(それでも──)
ブランクは、その人物を追った。見逃せば、きっと後悔する。何より、自分の中にある、自分を自分たらしめている、エゴのようなものが、ブランクの足を自然と運ばせた。
「止まれ!!」
ハオディを使って、ブランクはその人物へすぐにも追いついた。周囲にはやせ細った孤児たちが奇異の視線を向けていて、騒ぎがすぐに伝播した。その渦中にあるブランクと、その人物は、黄色い視線を一身に集めながら、観念したように顔を合わせた。
「ちっ。なんだ、てめぇか」
「なんだとはご挨拶だね。外出許可はもらったのかなあって、ちょっと気になってさ」
ブランクは、見間違うはずもないその人物──奴隷の仕入れ人へ向かって、皮肉混じりの挨拶を交わした。自分ももらってなどいないが、今はそんなことはどうだっていい。憲兵団によって取り調べを受けているはずのこの男が、ほぼ黒にも関わらず、人目を気にしながら隠密行動を行なっている方が、よっぽど一大事だ。
「ちょっと用を足しにな。道に迷っちまったのさ」
「嘘だね。顔に書いてあるよ。それとも詰所の場所を覚えてる、僕が案内しようか?」
「……ちっ、クソガキが」
ブランクは、きょろきょろと辺りを見渡しながら、自分の脅威となる存在を確認しているこの狡猾な男が、およそまともに釈放されただなんて、一つも信じちゃいない。
(きっと隙を見て逃げ出したんだ)
ブランクは、仕入れ人から少しも目を離さないまま、自分の腰元に手をやり、
(あれ。あっ──)
空を掴んだ。いつもならそこにあるはずの剣の握りがそこになく、ブランクは、肩透かしを食らったように、また確かめるかのように、目を遣りながら何回も掴んだ。
しかし、剣はない。
(そうだ、武器は全部取り上げられてるじゃないか!!)
今更ながら、自分がさっきまで何のために頑張っていたのかを思い出して、ブランクは、その無様な様相を少しでも取り繕うべく、自慢の拳を構えた。すると、
「ぶぇっははははは!」
堪えきれないと言わんばかりに笑い飛ばされたては、ブランクだって「何がおかしい!」と問いかける。すると仕入れ人は、ニヤニヤしながら言った。
「てめぇ、グランヴァレフの人間だろ?」
「だからなんだ」
少しか驚くと思っていたらしく、早々に認められたからか、仕入れ人は面白くなさそうに舌打ちをした。しかし、ブランクにとっては同じ人物から、二回目の確認なのだ。もはや、素直に驚けというのが難しい。だがその優位性に変化はないらしく、仕入れ人は、あくまで歯ぐきを見せつけて、歯石だらけの歯で笑っている。
「てめぇ、この国の人間とステゴロしようってのが、どれだけ馬鹿げてるかってのが、イマイチ分かってねえな?」
「……」
ブランクは口を閉ざした。下手に喋れば、何が自分を不利に招くか分からなかったからだ。しかし、それは同じことだった。
「見とけ、ボケが! 取るに足らねえガキが、大人様に逆らったことを後悔させてやる!」
みちみちと肉の裂けるような音が響き、骨の軋む音が、そこいら中に染み渡った。それは、ブランクの目の前ではちきれんばかりに膨れ上がり、あっという間に、路地を埋め尽くさんばかりに幅を利かせている。
牛だった。赤黒い肌をした巨大な牛が、金色の瞳で、ブランクただ一人を睨みつけている。その大きな鼻から飛び出す息は荒々しく、その側頭部から伸びる巨大なツノで、今にもブランクを串刺しにしてやると、そう言っているようにさえ感じた。




