第三十話『分かり合う世界』
ブランクは、震えた。周りの気温は暖かいと思っているのに、皮膚が、骨が、芯が、魂が。ゆるやかに向かう死の感覚を、確かに覚えていた。
「あ」
動かせないはずの足がふらふらと覚束ず動いて。その認識と体の状態のズレに、ブランクは、骨髄の澱んだような──あるいは、脳幹に栓をされたような気持ち悪さがどこからともなく湧いて出て。それが、静かにブランクを苛んだ。
ブランクは、覚えた吐き気に逆らうことができずに、空っぽな胃の中身をぶちまけた。
まただ、なんだこれ──?
身動きの取れる今に違和感があり、先ほどまでの状態が真実なのであると、脳がしっかり覚えている。身に触れる寒さに含まれる、かすかな温かさが突然降って湧いたもので、肉体に刻まれた恐怖や戦慄こそが真理であると、まざまざと見せつけている。しかし今いるこの場こそが現実であると、体だけが、理解していた。
(待て──まて、まて、まて)
ブランクは、歯の根の合わないまま親指の背を噛み、状況の整備に努めた。
一つ。自分はまたこの朝にいる。一つ。自分は、二つの未来を体験した。一つ。あれは、夢などという、生易しいものなどでは決してない、ということ。
そうして考えると、ブランクの中に、一つの仮説が浮かぶ。
「時が──戻ってる……?」
ブランクは、ハッと自分の左手を見た。ほのかな温かみを残した神々しい紋様は、今まさに、そのわずかな光を絶やしたところだった。
(もしかして、これがダザンの言ってた──)
ブランクは振り返る──。
『──……ねえ、この手の模様って何? 何か特別な力でもあるの?』
ブランクに尋ねられて。ダザンは、ふむ、と一つ唸った。
『ワシも詳しい力までは知らん。誰の手にも届かない場所へ封じてくれ、と、頼まれただけだからな』
たくわえられた髭に手をかけるダザンの言葉に、ブランクが「なーんだ……」と残念そうに言った時。ダザンは「ただ──」と、言葉を続けた。
『その力を正しく使えたものは、なんでも望みを叶える──と、言われている』
『え、なんでも──?』
ブランクが言葉端に食らいつくと、ダザンは、呆れたように、首を振る。
「ただの言い伝えだ。それに──」
ダザンは言いかけて、ブランクの体たらくを見ながら──やはり言った。
「発動するかも分からんものを当てにするなら、まずは自分を鍛えるべきだな」
「うぐっ……」
ダザンのしごきに堪えかねて……ブランクは、大の字になって寝ていた──。
「──……やなことまで思い出しちゃったなぁ……」
もはや忘れたい過去であるそれが記憶として蘇り、ブランクは、げんなりと疲れ果てた顔をした。変わらないはずの寒さが、より一層寒くなった気がした。
(でも──)
ブランクは、理解した。
(もしかして、望みを叶える力っていうのは──一定の時間を巻き戻して、望んだ未来へと進める力──ということなんじゃないか?)
その仮説に至り、ブランクは、過去にダザンが言っていた言葉を思い起こした。
(あっ──魔力が、減ってる……?)
今までどれほど補助魔術を使っても減った気のしなかった魔力が、少し減っていることに気がついた。枯渇とまではいかないが、自分の魔力の総量がようやく見えた気がして、ブランクは、少しの戸惑いを覚えた。
(いや、魔力はまだいいとして……問題なのは、発動条件がわからないことだ)
死ぬことか。いや、死ぬだけなら、蜘蛛男の時に発動したことに説明がつかない。呪いをかけられた時もそうだ。死んではいない。それでも発動した。
「なんだ。何がキッカケだ……?」
答えのない推考は堂々巡りで、ブランクは、迷いを振り切るように、首を振った。
(やっぱり、この力に頼るのは良くない。ダザンの言ってた通り、発動するかも分からない不確実なものに頼ってたら、きっといつか痛い目を見る)
ブランクは、この力を御守りのようなものだと考えることにした。
(これを命綱だなんて考えたら、絶対に良くない。今まで通り──いや……)
前回は慎重を喫しすぎて、気がつけば窮地に追いやられていた。慎重さは増せば増すほど自分を外野だと思い込み、窮地を理解できない。ならば──。
(今まで以上に慎重──かつ、大胆に行こう)
ブランクは、意を決して雪原を駆けだした。
「──……んだ、おめー!」
「怪しいやつ、止まれ!」
「もう止まってます!!」
「たしかに!!」
見回りをしていた哨戒兵二人の元へ、ブランクは、両手を挙げて飛び出していた。それは、ブランクの知る限り、害意を示さないという万国共通の作法であった。ギラリと光る鉄穹を向けられながら──果たして、ブランクは言った。
「僕は、怪しい者じゃありません!」
「おめ、鏡見たことねーんか!? こんなとこ半袖にマントだけとか頭おかしーべ!」
「怪しいやつは、みんな怪しくねーって言うんだ!」
「たしかに……」
今度はブランクが納得する側だった。しかしここで退いては後がない。ブランクの算段には、この哨戒兵の協力が、必要不可欠だったからだ。
(僕があの魔物に対抗するには、あの子の力が絶対に必要だ……!)
ブランクは、己の力量を計れないほど愚かではない。非力を認めて、工夫を凝らして、今まで生きてきたのだから。利用できるものはなんでもする。そのためのカードを一枚、ブランクは切って落とした。
「言え、何が目的だ!?」「どっから来た!」
当然の質問に、ブランクは、言う。
「僕を助けてほしい。僕は──奴隷の仕入れ人の拠点を知っている!」
「なんっ──!」
若い哨戒兵が物申そうとして、熟練の哨戒兵がそれを手で制する。その目の色は、やはり警戒の色が濃く、さらには増して、疑惑に満ちている。
「おめさが、仕入れ人の仲間でねー保証がどこにあるさ? 罠かもしんねーべ」
「そんだそんだ! オレら騙そーとしてるべ!」
彼らの主張はもっともであり、それはブランクも納得するところであった。しかし、ここで折れては彼らの前に顔を出した、意味がない。
「あなたは──」
ブランクは賭けに出た。食ってかかってくる若い哨戒兵を指差し、それに肩を跳ねさせた彼へ向けて、ブランクは、言った。
「あなたには、好きな人がいる! そして──この遠征が終わったら、告白しようと思っている!!」
「おめさ手を上げとけって──」
熟練の哨戒兵がそうやって鉄穹を構えた時だった。
「センパイ、待ってください」
今度は、若い哨戒兵がそれを手で制した。
きた──! と、ブランクは思った。知らないはずの情報を知っていると言うのは、信用足りえるのでは、と。そう思ったブランクの思想は果たして──。
「おめの言うことを信用したわけじゃねっげど──」
けど──。と続く言葉に、ブランクは、永劫を感じ、切に願って目を固くつむった。
「オレは、付き合えるけ!?」
「え!」
そんなこと、ブランクだって知らない! でも……もう言うしかなかった!
「付き合えます!!」こうなればヤケだった。
「おっしゃあッ、行ぐべ!」
ブランクは思った。ああ、この人の素直さが眩しい。ブランクは、胸が痛んだ。
「いやいや、待て待て待て。そっかー! ってなるか! おめさ、本気け?」
「センパイ、この目を見とくれや!」
「世間を舐め腐った目をしてやがる……」
呆れ返ったようなその熟練兵に、若い哨戒兵はグッと食い下がった。
「止めんでくんさい、センパイ!」
「罠だったらどーすんべ!」
「骨くらいは拾ってくんろ!」
「図々しいな!?」
哨戒兵二人はあーでもない、こーでもないと議論を重ねている。こうなるとブランクには、もうどうすることもできない。賽は投げられた。あとはサイコロの目がどう微笑んでくれるか、だけである。
「第一──こんな小僧が、おめのくだらねえ恋愛事情知ってるっつーのが怪しいべ!」
「あー! 人の恋路を下らないとか言ったべ!?」
「下らねえだろ! こんな怪しい小僧っ子、信じる方がどうかしてるべ!」
「うぐっ……」
熟練兵のいうことは、全て説得力があった。物忘れこそしていたものの、その判断力には長年の経験に裏打ちされた慎重さがあった。自分の浅薄さをまざまざと見せつけられたようで、ブランクは、言葉の矛先が向けば向くほど己が蒙昧さを恥入るばかりであった。
「オレは──こいつを信じてやりたいべ!!」
「……ぁ」
なんと真っ直ぐな言葉なのだろうと、ブランクは感心した。
「オレは──何もしてでも、あの子と付き合いたい!!!」
「お……おう」
こればっかりは、ブランクも同じような反応だった。騙される方も騙される方であるが、騙す方も騙す方で、心苦しいものがあった。もしも次があるのならば、違う手段を取ろうと、ブランクはそう思った。
「そもそも、センパイ。オレら、まだ何の手がかりも得られてねーべ!」
「うっ」
若い哨戒兵は、会心の一撃を放った。熟練の哨戒兵も、成果がないのだから、これに言葉を詰まらせた。
「聞くだけ聞いてみて、怪しかったらどーにかすんべ!」
「どーにかって──」
さらに食い下がろうとした時、若い哨戒兵は言った。
「オレさ、センパイがこの間奥さんのことさ愚痴ってたの、覚えてんべ」
「は?」
突然切り出されたカードに、狼狽する熟練兵は、嫌な顔して固まった。
「確か──オレの嫁さん、子ども産んでから太ったって」「わーわー! やめろやめろ!」
こうなってはもはや形無しだった。鉄穹を放り投げて口に戸をしようとする先輩兵を振り切って、若い哨戒兵は、生面引っさげて言う。
「センパイ。コイツのことは信じなくていい──オレが信じたいコイツを信じてくれ!」
一見すると名言のようなのに、よくよく反芻すれば、自己中心的な迷言である。しかも、それを曇りなき眼で言ってのけた。
この熟練兵のことを思うと、ブランクは、頭が痛くなってきた。
「あの──とりあえず、僕の知ってる情報を全て話しますので、あとは、そちらで判断してください」
ブランクは、仕入れ人の情報を、洗いざらい話すことにした。
「──……巨大な蛇……って、まさかベルベントけ!?」
「ベルベントって……センパイ、なんすか?」
若い哨戒兵の言葉に、熟練兵は言う。
「トンデモでっけー蛇だ、そんなのいたら、おでらじゃあ何にもできねって!」
ブランクは、その言葉に相槌を打った。
「だからこそ、僕も協力者が欲しいんだ。誰か実力者に取りなしてくれないかい?」
ブランクは、あえて少女のことは言わなかった。ここで少女のことを口に出せば、いかにもそれらしく、怪しい。ブランクは、どうにかそこへ辿り着くようにと祈りながら、遠回しな助力を願い出た。
「とりあえず見に行くべ。おめの言う通りなら──ベルベントなんて、遠くからでも見えるはずだからな」
「お、センパイ──」
若い哨戒兵が同道しようとすると、熟練の哨戒兵は厳しい眼差しでそれを制した。
「おめは領主様か、侍女様をお呼びしとけな」
「えっ」
ブランクと若い哨戒兵の声が重なった。熟練兵は、目と口を鋭くして言う。
「この小僧っ子の言うことが本当だろうが嘘だろうが、応援がいる。少なくとも、仕入れ人となんらかの関係があるのは、間違いねっさ。何かあった時に、オラみたいな年寄りが生き残るよりは、おめが生きた方がいい。未来を作るのは、いつだって若者だからな」
「センパイ……!!」
感動に胸を満たす若い哨戒兵と打って変わり、ブランクは、今更ながらな疑問を呈する。
「実働隊とかはいないんですか?」
「んなもん答える義理はねえがん!!」
それはそうだ、と。敵国の、ましてや得体の知れない素性をしたブランクに教えるなど、まともな愛国心があれば、絶対にしないことだ。
「そーれがウチの領ってば、人手が足りないから領主様が、出張ってんだ」
「おい、ドアホ!!」
「…………聞かなかったことにします」
ブランクは、至らない点や配慮の大切さを学び、交渉が、こんなにも疲れるものなのだ、と、初めて知った。




