第二十九話『停滞へ向かう世界』
ゴルム族にも関わらず、哨戒兵にも関わらず。ブランクは、先ほどベルベントと争ってた場所へ、すぐに向かった。大きな木が目印にあるので、迷うこともなく、すぐに分かった。
広場は樹上の葉傘から落ちた吹き溜まりの雪が多く、そこかしこの木に縄がくくりつけてある。
(よく見れば、雪をかぶってはいるけど、網の縄が見える……)
こんな杜撰な罠に、かかる方もかかる方だが、ブランクが疑問を覚えていたのは、そこではない。
(あの時、仕入れ人はすぐに出てきた。一体、どこから出てきた……?)
まさか、あの下劣な人間に限って神の奇跡の御業などということもあるまいと、ブランクは、目を皿のようにして雪原を見遣った。そうして──、なんとなく記憶をさかのぼって。ブランクは、雪原にあるひとところへ向かって、視線を見遣った。
「あれは──」
ブランクは、目を見張った。それは、見るに不自然な木の板だった。湿気や泥をすすって黒ずんではいるが、明らかに人為的に置かれているものである。そんなものが積もるはずの雪も、すっぺりどけて置かれているのだから、疑いの眼差しを向けると、それはもう、この場においては違和感でしかなかった。
「きっと、あれだ……!」
恐らくあの木の板の下に、人の入れる隠れ家のようなものがあるのだろう。それが、獲物の罠にかかった音を聞いて、すぐに飛び出してきたのだ。起こることを知っていれば、何ということもない仕掛けで、ブランクは、どこか拍子抜けをする。
でも──どうやって入り込む? ブランクの中に、そんな疑問が降って湧く。
あの中の構造がどうなっているのかも分からないのだから、現状、ブランクには何の策を講じることもできやしない。もしあの板を持ち上げて、あの男とすぐに鉢合わせでもしようものならば、またあの指輪で、自分という認識を溶かされるかもしれないのだから。
それを思えば拳の震えることに気づき、ブランクはそれを、髪と一緒に左右へ振り払う。
(怖がるな……前回は不意打ちを受けたからだ)
そう思いつつも、また不意打ちを受けたら? という疑問が、脳裏を掠めた。今、自分が言い訳をできているのは、未来を先んじて見て取れた、あの不思議な体験があってこそなのだから。ブランクは、その戒めを手に収め、握りしめた。
(ダメだ。次があると思うな。次があるという考え方は、絶対に油断と慢心を生む……)
本来であれば、あそこがブランクの人生の幕引きとなっても、なんらおかしくはない。
(不確かなものにすがるのは──きっと良くない。次はないと思って、動かなきゃ)
命綱多くて損はなし。それが命を懸ける場面であるならば、慎重に慎重を重ねるくらいでちょうど良い。
確かな方法としては、待ち伏せだろうか、と。ブランクは、時間にはゆとりがあると判断して、すぐに行動に移すことにした。
そうなると、問題は防寒着と飲食料である。懐には携帯食として少しの干し肉もあるし、腰にある木筒も、量としてゆとりもある。しかしそれがどれだけ保つかと言われると疑問は深まるばかりであるが、ブランクにとって最も深刻なのは、むしろ防寒着である。
そのどちらも賢者の書を発動すれば解決するのだが、ここが敵地である以上、何がこちらの存在を向こう手に知らせるかが分からない。迂闊な真似は、少しもできやしない。
(我慢だ、我慢……)
ゴソゴソと外套を引き寄せるものの、それももう溶けた雪をすすって濡れれば凍るように冷たく。その下が半袖なのだから、時間のかかればかかるほど、寒さは拍車がかかるばかりであった。頬や肩、肘や膝などのあらゆる皮膚の薄い関節から、じんわりと寒さが浸透していき、ブランクの体を芯から冷やしていく。
そうして木の上で羽休めする鳥のようにじっとしていると、温かかった昼はすっかり遠く。空の果てでは、役目を果たした太陽が赤い空を背に光の手を振って、底知れぬ冷たさを引き連れた夜の闇が、東からゆっくりと、音もなく忍び寄ってきている。
どれほどこうしていたのだろう、と、ブランクは思った
目蓋は痙攣し、まつ毛はパリパリと凍りつき、ぱっくりと乾燥に割れた唇の上では、鼻水が、ザラザラと皮膚を痛めつけてくる。骨など、とうに芯まで冷え切って、もはや、震えることでしか、体を温めることができやしない。
手はかじかみ、幾度干し肉を落としそうになったか分かりやしない。木筒の水など、ついさっき手から滑り落ちて、掴んだ頃には逆さまになっていて、中身を全部、ぶち撒けていた。
(日が暮れたら……賢者の書に戻ろう)
これ以上は命に関わる。既に寒いという感覚も失った肌であるが、それだけは、ブランクにだって理解できた。宵闇に黒ずんだ雲に変わって、白く染まった吐く息が、わずかに命のこぼれていることを知らせてくれている。
はあ、はあ、と、その白い靄に手を当てやるも、もはや、それが熱いのか寒いのかすらも分からない。ただ指が動きやすくなるのだから、温かいのだろう、と、ブランクは、吐く息で手を温め続けながら、思った。
(そういえば、あの蛇もいない……どこから来たんだろう)
ガシガシと手のひらで指の背をこすりながら、ブランクは、キョロキョロと視線だけで、辺りを見遣る。
(ん?)
すると。ブランクの見張る広場に、一人の人物がやってきたのだ。フードをすっぽりとかぶって、顔を窺い知ることはできない。ただ先行く人物はその背丈こそ低いが、上等な白布など、身に纏うものを見て察するに、やんごとなき立場にあることだけは間違いなかった。しかし、ブランクが気にかかったのは、その後ろに続く、見知った人物だ。
(あの哨戒兵だ……!)
若手の哨戒兵は、媚びへつらうように手を揉み、腰と頭を低くしている。そこには社会の仕組みに毒づく若人の姿はなく、悲しいほどの現実に打ちのめされた、界層の敗北者がいた。
(何してるんだろ……)
何を話しているのか気になる。ブランクは、少しの戸惑いを見せながら、形だけでもと、耳を傾ける姿勢を見せる。
そうして手に筒を作ると。ブランクの人差し指にある指輪がほのかに発光し、その真価を発揮した。
「──それで。ここがその最後の一帯なのね?」
ブランクの指輪は、魔道具である。ダザンから譲り受けたものの一つであり、この指輪は、筒を作った先の音を、かなり先まで拾うことができるという、優れものである。
そうしてブランクの耳に、とても聞き入りやすい、調和の取れた声が染み込んで。聞くに惚れ込みそうな、その止水のごとく澄んだ声音に、あの哨戒兵の、なまった声が続いた。
「へえ。そんで、あの、木の上に、でっけぇ蛇みてぇな魔物がいて──」
腰が低いのに、言葉遣いが──と、思いかけて。途中の聞き逃せない言葉に、ブランクの肩が、ギョッと飛び跳ねた。
哨戒兵の言葉に、ブランクが大きな木を見上げると、薄暗くなっていてよくは見えないが、注視すれば、木陰の隙間には、月明かりをよく弾く、固そうな何かが見えた。およそ木の実とも思えない大きさに、ブランクは、あれがベルベントだと、すぐに理解した。
ブランクは、息を呑みながら、続く言葉を聞いた。
「そ。この辺りに人はいないのね?」
「へえ。部隊は撤退させたんで、いたとしても、奴隷の仕入れ人か──あるいは、その仲間かと、思いやす」
「……そう」
ひどく悲しそうな声色が続いて。顔は見えなくとも、その顔が、痛ましいものであることだけは、なんとなく理解ができた。そうやってブランクが聞き耳を立てていると、
「──深層へ招く栄誉を捧げましょう」
それは、始まった。まるで演説のように、どこの誰とも取れぬ相手へ向けた言葉で。一瞬、ブランクはドキッとしたが、自分に向けられたものでないと、続く言葉で理解した。
「痛みや苦しみ、悲しみの全てを忘れ、永久の喜びを抱えましょう」
ブランクは、ここでようやく理解した。
(これは──魔術詠唱だ!)
まるで歌うようにリズム感のある、メロディックなその詠唱は、聞き入るほどに美しく、ブランクは、悲しみを従えて続く言の葉の調べを、自然と待っていた。
「さあ、我、今ここに、時を超えし箱舟を築き上げ、永遠の夢想郷を打ち建てん」
力強い言葉に、ブランクは、この美しい旋律が終わってしまうのだと、少し残念に思った。しかし、降る雪が止まないように、時の止まることもない。
「グリック・リリッツ・リ・ホーレ──」
精霊語にあたる、最後の口上。いよいよ──魔術が発現する。ブランクは、これにどこかワクワクしていた。魔術が発現する瞬間は、とても美しいからだ。
「停滞へ向かう世界!」
しん、と。音が止んだ。
(え──失敗?)
ブランクは、不思議に思った。魔術は長い口上のあるものほど、等級が上がる。聞くに、今の魔術詠唱は、ブランクの知らない初級以上のものだ。中級魔術か、あるいはそれ以上のものか。まさか、適当な言葉をつなぎ合わせて、それっぽく言ってのけただけなのでは、と、ブランクがさらに耳を傾けると、少女は言った。
「明日の朝には──全てが終わっているはずだわ。ここにいるとわたしたちも危ないわよ、戻りましょう」
「へえ、さすがです!」
聞くに不発などではないらしい。発動に時間がかかるのだろうか、と、ブランクが不思議に思っていると──ブランクは、自分のとんでもない思い違いに、ようやく気づいた。
(これって──あっ)
気づいた時にはもう遅かった。ブランクの体を包む布は、全て凍り付いていた。溶けた雪を含んだ水気が例外なく氷となり、ブランクは、もはや体を動かすことすらままならない。
(ヤバい──ヤバい、ヤバい、ヤバい!!)
異国の地で魔術を見られるいい機会だと、物見遊山な気持ちでいたのが、大きな間違いであった。
指先などもはや震えることすらままならず。かと言って無理に動かせば、枯れ枝のようにポッキリと折れそうなのが、肌で分かって。戦慄する恐怖に押されて──ブランクは、興奮気味に呼気を荒げさせた。
「ぁ──」
しかし──それすらも、誤りであった。
呼吸をして恐ろしいほどの低温を迎えた体内は、容易く凍りついた。どれほど冷たければこうなるのかは分からないが、ブランクは、もはや呼吸すらできない。ゆっくりと鼻腔や喉が凍っていくのが、理解できた。冷気に満たされた肺が、異物となっていくのがわかった。
(あの魔術は──範囲攻撃魔術だ……!)
ブランクは、ようやく気づいた。あの少女が放った魔術が、広範囲を攻撃する高等魔術であるのだと。そして、自分はそれに巻き込まれたのだと。この恐ろしいほどの低温は、あの魔術によるものだと。
どこか遠くの方で、かすかに音が聞こえたような気がした。空気も震えることをやめた中で、地面が揺れるほどの衝撃は、きっとあの蛇が落ちたのだろう、と、ブランクに思わせた。
だが、ブランクにはもうそれを確認する術はない。冷たさに堪えかねて瞳を覆った目蓋が、凍りついて、もう開かないのだから。
音もなく、目にすら見えず、忍び寄ってきた死の輪郭が、ブランクの体を包み、今、その中すらも侵そうとしている。そして、ブランクがそれに抗う術は、一つもない。
あまりにも絶望的だった。
感覚のないのだけが、唯一の救いだった。しかしあるいはそれらが、この無慈悲な現実に留まる意識を刈り取ってくれた方が、幸せだったかもしれない。
ブランクはもう動けない。これから先に向かう運命が、決定的だというのに。段々と意識が遠のいてきた。こうなってはもう、賢者の書へ逃げることすら叶わない。
これで自分の人生は終わるのか?
こんな無自覚に。敵意を向けられることもなく、あっけなく、踏み潰された虫けらのように?
いやだ。いやだ、いやだ、いやだ──!
こんなことは、絶対に間違っている。何を、どこで違えたのか。
少なくとも、ただ待つという選択肢は、誤りであった。それだけは、確かであった。
もう全ての感覚が失われつつある。思考も明瞭さを失い、脳が、まるで深海の暗闇に閉じ込められたような感覚だけが、漠然とあった。
全てが終わる。何もかもが──。
ぁ。
そんな予感がしていたブランクであったが、左手に、何とも言い知れない暖かさを感じた。
その温もりは、暖炉のように。湯水のように。寝起きの布団のように。食卓へ運ばれた、できたての料理のように。あらゆる安心を煮詰めたような、心から渇望する暖かさを孕んでいて。ブランクは、すがるような思いで、それを望んだ。
その次の瞬間──。
ブランクは、世界が砕けるような音が、どこからともなく響いた気がした。




