エピローグ『いってらっしゃい』
鈍い音がした。枝の折れるような音も混じって。見るに悲惨な状況は、亜人であろうとも致命を悟らせる。広がる海が赤ではないだけで、それが何色だろうと変わらない。およそ、この悪人に流れていたとは思えないほど透き通った血は粘りがあり、それゆえか、残されていた最後の余力をしぼって、蜘蛛男は、その口を開いた。
『それがし、が──』
忍び寄った声に肩を震わせたブランクとサリナであったが、それは、もはや動く気力すらなさそうだった。近くに手斧こそあるものの、指先一つ動かせず、上下するのは胸ばかりだ。
「ブル……?」
「たぶん、大丈夫」
ブランクは、静かに歩み寄った。それを確認してか。蜘蛛男は、再び喋り出した。
『それがしが、糸を使えぬと、なぜ……』
恐らく、負けた理由に納得が欲しいのだろうとブランクは考えた。答える義理もなかったが、答えないいわれもない。頭の中で組み立てていた言葉を、ブランクは口にした。
「あなたは、この洞窟中に罠を張り巡らせていた。いくらあなたが蜘蛛だとはいえ、その質量を一人でまかなうなんて、とてもじゃないけど、現実的じゃない」
ブランクの言葉に、蜘蛛男は「だからもうないとでも……?」と一笑に付す。
『早計、であるな……罠がそれがしにも通ずるとは、なぜ……』
ブランクは、過去にダザンの修行を受けていた頃に、生き物を観察していたことを、思い出していた。その中に……蜘蛛もいたのだ。
「前に、観察したことがあるから知ってる。蜘蛛は通常、貼り付く糸と、そうでない糸とを出す。洞窟の出口にある糸は、あなたの言葉を借りるなら裂糸という、張り付かない糸なのだろう。それなら、罠になってる糸は張り付く糸で。あなたは、それをわざわざ避けた」
つまりそれは、自分にも有効であるということだ。
『ふ、ふふ……目聡い……それがしの負け、は、必然であったか……』
蜘蛛男がそう言うと、ブランクは首を振った。
「いいえ──」
ブランクは、そう言った。嘘ではない。あの夢が無ければ。時が戻らなければ。ブランクは、一度死んでいる。
「あなたは、強かったよ……」
それが伝わったのか否か。蜘蛛男は沈黙した。
「あなたの、名前は?」
ブランクが尋ねると、蜘蛛男は一息ついてから、口を開いた。
『…………名など、ない。強いて言うならば、ナハク、である』
ナハク。ブランクがその名を胸に刻むと、蜘蛛男は先んじて、言った。
『聞きたいことを……聞け。知る範囲でなら、答えてやろう……』
「えっ」
ブランクが当惑すると、蜘蛛男は言う。
『早く、しろ……永くは、保たん……』
「……わかった」
ブランクは頷くと、問いかける。
「ナハク、僕は人を探している。金髪の男の人、ジャンと、銀髪の子どもの、ウィル。僕の大切な家族なんだ。何か知らないかい?」
ブランクが尋ねると、蜘蛛男は一呼吸間を置いてから、言った。
『兄上なら、いざ知らず。それがしに、知ることはない』
先ほどと同じ回答であった。ブランクが肩を落としそうになると、蜘蛛男は「だが──」と続けた。
『あの竜人は……『マルシェ』にいる。そこを、探せ』
「えっ。マルシェって──」
ブランクが言いかけると、蜘蛛男はもはや喋る気力も失ったようだった。
「……ありがとう、ナハク」
それが聞こえているのか、いないのかは分からない。ただブランクは、この洞窟で、あの誇り高き女王を送った時のように、敵ながら慈悲をかけるべきだと思った。
「介錯は、僕が」
ブランクがそうやって剣に手をかけた時だった。
「ブルッ!!」
「あっ!」
蜘蛛男は、手斧を握りしめ、振り上げた。危うくブランクに当たるところで退くと、蜘蛛男は、そのまま身じろぎ一つしなかった。
『幼子の手を煩わせるなど──戦士の恥である』
それは──あっという間に天を舞い、蜘蛛男の腹部に刺さった。そうして肩の動くこともない静寂が訪れると、いよいよナハクが死んだのだと、二人は実感した。
それから、ブランクは洞窟内に即席の墓を作り、そこへナハクを葬った。なんとなく、敵ではあったのだが、そうしてやりたいと、思ったからだ。
途中、私兵団が来るのでは、と、懸念もしていたが、彼の者たちが来ることはなかった。
「マルシェ、か……」
「手がかり、できたね」
「うん……」
「私はここまでだね。さすがにメルとお父さんのことが心配だし、お店のこととかもあるしなあ……」
「見送り、ありがとう……と、あれ?」
ブランクが剣を鞘に納めようとすると、その剣身は少し歪んでて、鞘が、それ以上の侵入を拒んだ。
「わっ、どうしよう」
「曲がった剣ってどうするの?」
ブランクが困った顔をしていると、サリナが尋ねる。
「普通は挟んで伸ばしたり、また溶かして成型し直したりするんだけど、ちょっと今は時間が惜しいし、ダザンみたく慣れてないから、賢者の書の鍛冶場も一人で使えないしな……」
ブランクが参ったな……と言うと、サリナはやるせなさそうにため息をついて、それから、背中に背負っていたものの布を解いた。
「はい、これ」
「えっ、これって──」
ブランクは驚いた。それは見たことがある。華美な装飾の施された鞘に納まる剣は、宝石などの類は付いていないが、色の違う金属を、魔法のように重ね合わせている。素人目にも見て取れる凄さが、知識を身につけると余計に匠を思わせた。それは、魔法剣だ。
「私、本当はダザンさんに頼まれてたの。もし、ブルがダメそうなら、村に連れ帰ってくれって。私に泣きついてきた時は、本当にそうしようかなーって思ってた」
でも──と、サリナは続ける。
「あの強そうな人を難なく倒しちゃうんだから、さすがに認めないとかわいそうかなーって思っちゃって。もし認めるならこれも渡せって」
「そっか……」
ようやく一人前ということだろうかと、ブランクは、ホッとする。特殊な状況も重なって、少しずるいような気もしたが、認めてもらわなくては困る。
「良かった……」
「良くない!!」「え!?」
突然のことに、ブランクが面を食らっていると、サリナは頬を膨らませながら言った。
「メルに連れて帰ってきてー、って頼まれてたのに、これじゃ私、本当に怒られちゃうんだから!」
「あは、あはは……」
苦笑を浮かべるブランクに、サリナはわざとらしく眉を怒らせた。
「この埋め合わせは必ずしてもらいます!」
「わっ」
ピッと指を差し、そのまま鼻頭をつついたサリナは、
「絶対──帰ってくるんだぞ」
空気を多分に含んだ、柔らかな声音で、そう言う。赤枯れ色の少年を、固く抱きしめて。
「帰ってこなかったら、メルも私も、たくさんたくさん泣いちゃうから」
温かい。この姉は、身も心も温かい。流れてくる温かさは、確かな生を感じさせて。語る言葉など、鳥の毛綿のようだ。温かくて温かくて、まどろみを包み込む羊毛のように、少年の心を、優しく優しく包んでくれた。
「はい……必ず、帰ってきます」
必ず戻ると、誓って。ブランクは、名残惜しいほど温かい、サリナの腕の中を、離れた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
かけがえのない瑠璃色の記憶を得たこの洞窟で。少年は、帰郷を誓った。
斯くして少年は──朝まだきに光る異国へと、その姿を消したのだった。
書きためたぶんに追いついてしまったので、次回以降の更新が不定期になります。
また、特別要望がない限りは、話ごとではなく、章ごとの更新にしていこうかなと思っております。
私の至らない文才ゆえに筆が遅く、楽しみにされている方々にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。




