第二十五話『世界が砕けた日』
「おまえ……おまえは……!」
暗闇から現れたのは、ツルツルとした体表に、細かな毛を生え揃わせた腕を、複数持っている、長身の男だった。顔には赤い目が八つあり、それら全てがブランクたちを映している。その男は、横開きの口を赤く裂けさせ、風鳴りのようにくぐもった声で、言った。
『斯くして其らは──忌むべきさだめに足を、運びけり』
「ブル……あれ、なんて?」
サリナが至極真面目な顔で聞いてくるものの、ブランクも、あまりよく分かっていない。しかし、今のブランクには、そんなことはどうだってよかった。
「アルトリウスはどこだ……ウィルやジャンを、どこへやった!?」
今にも噛みつきそうな勢いでそう尋ねると、その蜘蛛男は、はて、と首を傾げた。
『兄上ならいざ知らず。それがしに、もはや知る術もなし』
「兄上……?」
言いながら、ブランクは気付いた。よく見ると、この蜘蛛男は、アルトリウスの傍にいた男とは違った。威圧感もなければ、六本も生え揃っていたはずのその腕は、見るに痛々しく、根本や中程から折れ、または無くなり、今では、たったの三本しか動いていないのだ。
しかしそれでもか弱い存在などでは、決してない。油断すればたちまち命を奪うと、言葉にせずとも、その威圧感が物語っていた。
果たして。蜘蛛男は、背中に担いでいた三本の斧に、手をかけ、構えた。
『弱きものよ。これよりまかり通るならば、それがしがお相手つかまつろう』
「相手にとって、不足なしだ」
ブランクは額に青筋浮かべながら、剣を構えた。
「ブル、落ち着きなって……」
サリナが耳打ちすると、ブランクは「落ち着いてる」と震えた声色で言う。そうして柄の鳴るほど握ると、憤りに言葉を乗せた。
「手がかりが向こうから来てくれたんだ……絶対に、情報を吐かせてやる」
そうは言いつつも、ブランクの目は血走っている。およそ冷静さとは正反対の横顔を見て。サリナは、小さくため息をついた。
『構えよ、弱きものよ』
「誰が! 見くびるなよ!」
勇ましく駆け出した少年に、蜘蛛男は、三本の手に手斧を握りしめて、ブランクの出方を窺った。
(挑発的なわりに、臆病じゃないか!)
言葉とは裏腹にある、蜘蛛男の消極的な戦闘スタイルに、ブランクは、自分を侮ったことを後悔させてやる、と心中息巻いた。すると蜘蛛男は、ギュッと腕にこぶを作りながら体を捻り、そして、大きく旋回させ、
『斧闘術──㓛刀」「なっ──!」
一気に弾けた。それは弾丸状に螺旋を描き、三本の斧が花びらのようにブランクの手前で開くと、それらが同時にブランクの体へと差し迫った。
(どれを──)
刹那の判断を迫られたブランクであったが、現実は、無情にも時が流れていく。
「ブルッ!!」
悩んだ末に。ブランクは、咄嗟に一つの斧へと剣を向かわせたが、それらは、ほぼ同時に襲いかかった。そのうちの一つに剣先当てがうも、ブランクの体に、難を逃れた二つの斧が食らいついた。そして、悩んで遅れたぶんだけ力の入らなかった剣身が砕けると──その斧すらも、ブランクの体へ食らいつき、めり込んでいった。
「がぁッ……!?」『ふむ……?』
斬撃を受けて吹き飛ぶブランクに、蜘蛛男は、当惑の声色で唸った。そうして、いつかのゴゲラのように、自らの操る斧の刃先へ目を見遣ると、蜘蛛男は「妙なり」とこぼした。
『面妖な術を使う』
「げほっ、えほっ……」
血液が迅る。脈が早打つ。鼻に刺激が走る。脇腹の骨が折れている。体のありとあらゆる場所が、ブランクへ警告を促し、苛んだ。
土煙にむせるブランクは、キッと蜘蛛男を睨みつけた。
(プロテマがなかったらやられてた……コイツ──強い!)
ブランクは、折れて使い物にならなくなった剣を投げ捨て腰から短剣を引き抜く。そこへ、サリナが「ブル!」と叫びながら駆け寄ってきた。
「今加勢するから!」
「サリナさんは下がってて!」
ブランクが琥珀色の瞳に闘志を燃やしてそう言うと、サリナは、とうとう「は?」と低い声で威圧した。眉根がこれでもかと寄り合い、耐えかねた片眉が吊り上がって震えている。
「それ、本気で──」
「これは……僕の問題だから!」
「……」
あくまでブランクがそう言うと。サリナは苛立ちを噛み殺すように歯を鳴らし、それから、呆れ果てたような失望のため息をついた。
「ブル、アンタさー。一回、落ち着こっか?」
やけに平坦な声でそう言われると、ブランクは「だから落ち着いてるって──」と、言いかけた。しかし、サリナは、その胸ぐらをぐいっと掴んで引っ張り上げて、続く言葉を飲み込ませた。
「落ち着いてる人間が、相手の力量も計らず立ち向かうわけないでしょ、バカタレがっ!」
「あっ……」
サリナにそう捲し立てられて。ブランクはようやく気がついた。頭に血が上りすぎていると。それからズーッと熱の冷めるような音を聞くと、沸き立っていた頭の中が、次第に外の音を冷静に拾い始めた。
(この音──)
ブランクは、大気の逃げ去るような不穏な音を聞いた。橋の上で聞いたことのある、嫌な音だった。
「サリナ姉ぇ、逃げ──」「あ」
ブランクが言い切るよりも早く。サリナの背中に、手斧が食らいついた。
「あぁッ!!」
「サリナ姉ぇッ!!」
プロテマがあるのになぜ、と考えて、それからすぐに答えが出た。
(僕が、自分に使ったからだ……)
サリナの背に刺さった斧は、ずるりと抜け落ち音を立てると、その柄に巻き付いた粘糸によって回収されていく。
「うっ、ぐっ……」
『当たり。げに、良きかな』
思い起こされるのは自分の腕が抉られた時のセリフだ。やはりウィルと相対した者と同一人物なのだと分かれば、ブランクの神経は、みちみちと悲鳴を上げた。
「お前……!」
ブランクが剣を手に駆け出そうとすると、その手をサリナが握った。
「ブル……ダメ。冷静に、なって」
「サリナ姉ぇ、でも──」
呼吸を荒げながら、サリナはにこりと微笑む。
「私なら、大丈夫。こー見えて、けっこー頑丈なんだから!」
表情を作ることすら難しいであろう大怪我なはずなのに。サリナは、あくまでそうやって気丈に振る舞った。
(……何をやってるんだ、僕は)
その汗ばんだ額と痙攣する目蓋が、サリナの嘘を、詳らかにしている。
(大丈夫なわけ、ないじゃないか……!)
そう思えばこそ、そんな手傷を負わせてなお無理をさせているという事実に、ブランクは、ひとしおの冷静さを取り戻し、ふっと一息をついた。
「サリナ姉ぇ、ごめん。ありがと」
「おーう、いいってことよぉ……!」
まるでトトスのように粋に言ってのけるサリナだが、こわばった頬など見るに、その痛みが手に取るようだ。喉から息も、ダダ漏れで、血の代わりを努めようとするものの、それは役不足も甚しかった。
(とりあえず、アイツを倒さなきゃ──)
ブランクは、サリナから距離を取りつつ身構える。すると動けない相手など興味もないのか、はたまた騎士道精神に則っているのか。蜘蛛男は、とにかくブランクを警戒している。
冷静に見つめ直せば、その構えには一分の隙もない。元々腕を数本失っているとはいえ、それでもブランクより多いのだから、まともに組み合えば、勝ちの目など見えるはずもなく。
(それにあの技──)
跳躍から、全体重に遠心力を乗せて放たれる回転切り──㓛刀。プロテマありきでも骨を軋ませ、剣を折ったその威力。手にあるのはそれよりも頼りない銀の爪。折られれば、今度は武器が消える。
(もう後がない……)
それを悟られないように、ブランクはジリジリと距離を詰める。
(数を減らせればいい。僕は身軽な短剣なんだから──)
ブランクは、小石を拾い上げた。それが意味を成すかは分からないが、何もないよりかはマシだった。
(石を投げて斧を一本振らせる。振れる斧が一本減れば、まだ勝機はあるはずだ!)
キッと眉根を引き寄せて。ブランクは、蜘蛛男の出方を窺いながら、距離を詰めていく。
(あくまで受け身で、動きがない。それなら──)
ブランクは、駆け出した。
(先手必勝だ!)
落ち着き払った態度に、ブランクは違和感を覚えながらも、立ち向かう。
「くらえッ!」
小石を顔面めがけて投げつけて。ブランクは、短剣を振りかぶった。すると──。
『斧闘術──要』
「なっ!?」
蜘蛛男は脚を軸に回転した。そこへ斧を振り回して。小石は軽くあしらわれ、ブランクは、急には止まれない。
「くそっ、ゴア──」
遠心力に対抗するべく、精霊の力を借りようとした。しかし、全てが遅かった。
『あわれなり──弱きものよ』
少年は、横たわる姉の元へと吹き飛ばされた。そうやって右腕の折れたことを確認すると、手詰まりを実感した。短剣など、どこにも見当たらない。
「サリナ、姉ぇ……!」
それよりも、何よりも。ブランクは、目の前で冷たくなっていく大切な姉に、闇より深い絶望を感じていた。もはや呼吸をしているのかいないのかすらも分からず、口無しに広がる赤い海は、生命の在り方としては致命的である。
(僕が、しっかりしていれば、こんなことには……!)
サリナの言った通りだった。
冷静さを履き違え、無謀と勇敢を履き違え、持った知識の一つも活かせずに。ブランクは、無様な大敗を喫したのだ。
『せめて安らかに──それがしが、介錯つかまつろう』
こんな。こんな未来のために、生きてきたわけじゃない。このまま死んでは、悔いが残るばかりだ。
まだ何も成していない。また、こんなにもあっさりと。現実が夢のように残酷で、しかし夢のような現実は確かにあって。
果たして、壊れそうなほど不安定な心は──この物語の存在を、否定した。
(神様、どうかお願いだ……)
少年は願った。この間違った世界への救済を。二度目は違えないと誓って。この大切な姉を、家族を、もう二度と失いたくないと願って。神へと縋った。
斯くして。それは応えた。左の手に宿る、神紋が、世界の全てを光で満たす時。
少年は──世界の砕ける音を聞いた。




