第二十一話『もぬけの殻』
黄昏も去り、色の落ち着いて静まり返った空の下。その茜色を受け継いだ赤枯れ色の髪を揺らしながら、琥珀色の瞳をしかめて、少年ブランクは先を見遣る。
「サリナさん、待って……」
「んー?」
肩で息をしながら、ブランクは山道を軽快に登る妙齢の乙女──サリナを呼び止めた。
「どうしたどうしたー、だらしないぞ、しょうね〜ん!」
得意げにそう揶揄うサリナに、ブランクは疑問を抱いた。
(おかしい。僕だってこの一年の鍛錬で体力がついたはずなのに……こんなの、足腰が強いなんてもんじゃないぞ)
大荷物を担ぐ華奢な体の、どこにそんな地力があるのか。ほとほと疑問の尽きないところであるが、今は休息が求められた。このまま歩き続ければ直ぐに潰れることは明白である。
「サリナさん、少し休憩しよう」
「えー、やだ」
年甲斐もなくぷうっとかわいく膨らませられたほっぺに、ブランクがもう一度泣きの声を入れようとすると、
「おねえちゃんって呼んでくれたら、考えよっかなぁ〜?」
「えっ」
そんな冗談が耳を掠めた。
「ブルったら一回も言ってくれなかったしなぁ〜」
「またまた、そんなこと言って……」
あたっぽく笑うサリナに、ブランクは、冗談でしょ、と視線で訴える。しかし、サリナは「まだかなー?」とちらちら視線で催促をする。ブランクは己のプライドと、風前の灯火のような体力とを天秤に乗せて、カタン、と傾いた気持ちを口にした。
「お──おねえちゃん……」
背に腹は代えられず、しかし精一杯の抵抗で、視線を逸らした。
(恥ずかしい……なんだこれ)
吹く風は凍てつくほど冷ややかで、けれど腹の底から、それに負けないくらい言い知れぬ恥じらいが、熱となって込み上がる。穴があったらすぐに入りたい、そんな羞恥を受けて、ブランクは、ちらと一声も発さないサリナを見遣る。そしてブランクは、ギョッとした。
「ブルぅ……!」
感極まった喜びを顔に灯したその顔は──もはや恍惚に近い。新たな扉の開く音を聞いた気がして、ブランクは、一歩退いた。
「ねね、もう一回!」
「もうやだよ!」
今度はブランクが突っぱねる番だ。この後休む暇もないくらい頼み込まれて、ブランクは、歩くのとどっちがマシだったかを考えさせられた。
「もう、サリナさん。遊びじゃないんだから……」
「ごめんごめん。ちょっと、理性の破壊力が強すぎて……」
ブランクは、辛うじて回復したなけなしの体力で「破壊力って何さ」と悪態をつきながら、サリナの先を行く。
「もう、まだ拗ねてるのー?」
「拗ねてません」
ぷいと顔を背けるブランクに「拗ねてるじゃーん」とサリナ。しかし次の瞬間、ブランクが足を止めると、サリナもそのただならぬ様子を感じ取った。
「どしたの? ブル」
「ここだ……」
ブランクは呟いた。その震える声は鋭く低く、怒りの色が濃い。
「あー……この橋?」
目の前の橋は真新しく、けれどそこに横たわる細長い渓谷は、たった一年では忘れがたい因縁がある。
「ここで一年前、僕は──」
思えば昨日のようにも感じられた。ブランクはあの夜、ちょうど今と同じような空の下で、西の国ヴリテンヘルクから来た竜人族のアルトリウスに襲われ、ジャンを見捨てて、この橋まで逃げてきた。そしてここでウィルに勇気の何たるかをまざまざと見せつけられ、記憶を掠めた既視感に押されてウィルを庇い、落ちた。
追撃者である甲虫種の男の攻撃によって切り離された橋に宙ぶらりんになったブランクを、よりにもよって、過去に自分が助けたヤラグ族による裏切りを受けて、この谷底の川まで、突き落とされたのだ。その時の悔しさや悲しみを、ブランクは生涯忘れないだろうと思った。
手袋越しに拳が泣くと、サリナは「ブぅル〜?」と呼び止める。
「こーこ。怖いぞ?」
サリナが指を差したのは眉間だ。言われて初めて、ブランクは自分の顔がこわばっていたことに気がついた。
「……ごめん、サリナ姉」
まったく……と数拍置いてから、サリナはハッと顔を持ち上げる。
「今──なんて?」
「うっ……これくらいなら、いいよ」
その瞳の煌めきに気圧されながらも、ブランクは、お世話になったこともあったし、これぐらいの融通は利かせようと思ったのだった。しかし予想を上回る喜びを体で表して、抱きつかんとするそのサリナの猛攻を、あわやというところで身を翻して、ブランクはなんとか躱すことに成功した。
「どうして避けるの?」
「自分の胸に聞いてみてください」
サリナは自分の胸を見る。すると得意げなしたり顔で、口角を吊り上げた。
「あー、ブルってばえっち〜」
「年頃なので。あと既視感があったので、本能的に、つい」
思い起こされるのは、このうら若き乙女の妹である。羊さながらの髪をたなびかせながら、幾度も突進という名のハグを受けたブランクは、この、抱きつくという行為そのものに、命の危険を感じていた。
「既視感……ブルって私たち以外に若い子と絡むことあったっけ?」
「ひどい言い方するよね。いや、確かにないけど言いたかったのはメルの──」
言いかけて、ブランクは、あっ、と声を上げた。
「どしたの?」
「いや、あの──」
思い起こされたのは洞窟での出来事だった。名も知らぬ美しき少女であったが、ブランクは、あれを交流と呼んでいいものか悩んだ。体調を崩していたその少女を担いで運んだだけだ。その後はダザンに運ばれたし、快復してすぐに、西の国へと帰したのだと聞かされた。
(あの子が亜人ってことにも驚いたけど──)
歳の頃も近いせいか、サリナやメルよりも女性的な魅力を感じた。それは、整った顔立ちもあったが、何よりもブランクが忘れがたいのは、あの時、背中に受けた胸の感触であった。
思い返せばブランクの顔は、上気して赤くなった。
「……ブルがどエッチな顔してる」
「してない、してないってばっ!」
顔を真っ赤にして否定すれば、その信憑性も、晴天に鳴る霹靂の確率より遥かに低いだろう。しらーっと煽りの視線を受けるも、ブランクは「もう、知らないから!」と崖を伝って移動していく。
「橋は渡らないの?」
「ちょっと確かめたいことがあって。サリナ姉はここにいて」
そうは言っても、引率の身であるサリナに、少年の独断を看過できるはずもなく。我先にと足早に崖際を歩くブランクの姿に、どこかソワソワしながらサリナはついていく。
「ここは……?」
岩の裏手にあった穴に入ると、えぐれた堀のような場所に、乾燥した小動物の骨が無造作に散らばっていた。それらは可能な限り有機生命体に分解され、生臭さなどはなく、どちらかと言えば谷底から昇る沢の水気で、どこか爽やかさまである。
「さすがにもういないか……」
ブランクが探していたのはあのヤラグ族だ。必ず雪辱を果たすと誓った相手。
(それらしい骨は見当たらないけど……ここを離れたか、あるいは──)
もうどこかで野垂れ死んでいるのかもしれない。実のところ、ブランクは、ここにヤラグ族がいないことは知っていた。
まだ五体満足だった頃にダザンがここまで確認しに来てくれていて、ここがもぬけの殻であったことは聞いていたのだ。それでもわざわざ足を運んだのは、自分の目で確かめたかったからだ。
(ケジメを付けたかったけど、それも難しいか……)
ここに残された痕跡を見るに、引き払われて久しいのは明らかだ。そもそも魔物の中でも弱小とされるヤラグ族の、それも一匹狼気取りの『はぐれ』が生き残ることなど、困難なのである。あの時生きていたのも奇跡と言えただろう。
(なんだろ。残念だけど、ホッとしてる自分もいる)
もしもここにいたなら、ブランクは自分が冷静さを保っていられる自信がなかった。視界に入れた途端、理性の糸がはち切れて、何をしていたかが分からない。
「なんか、誰かの隠れ家みたいだね、ここ」
「……そうだね」
ブランクは気もそぞろに答える。
あの日、困難であったとはいえ、ここにヤラグ族の潜んでいることを見抜けなかった自分を、幾度も恨んだ。ダザンには蛮勇だ、と切り捨てられたが、あの日、ウィルと共に戦い、死んだ方がマシだと、何度も何度も思った。ブランクには、たくさんの後悔があった。
(何よりも──あの未来を視てたのに、どうして気付けなかったんだ)
遺跡にいた時、この橋での出来事を予見していた。その情景をしっかり覚えてさえいれば、あの橋から無理矢理にでもウィルを離していたのに。
(あの力を、使いこなせたなら──)
あの日以来未来を視ることはなかった。ダザンに聞いても、玉にそのような力は封じられていないと言っていた。
そうやって思いの内に耽っていると、ブランクは、自分の頭が物理的に重たいことに気がついた。
「こーら、ブル。女の子を無視するなー!」
「あっ……ごめん──って、何してんのさ!」
頭の上に大きな胸が置かれていて、ブランクは驚き、飛び退いた。そんな初々しい反応を見て、サリナはイタズラにくすくすと笑う。
「やっといつものブルだね。そんな怖い顔、似合わないぞ」
「まったく……敵わないな」
サリナは自分のことを母親似だといつかに言っていたが、こういうところは、父親そっくりじゃないかと、ブランクは思った。すっかり毒気も抜かれて、ブランクは、サリナの大人の余裕に感謝の念を抱いた。
「……待って」
はぐれヤラグ族の隠れ家を離れたブランクは、外に出て、異変に気付いた。
「うん?」
本来橋を渡って抜けるはずの山道の頂きに、ちらほらと明かりが見える。それは、ブランクたちがこの隠れ家に入ってすぐ後に来た者たちのものらしく、人の歩行速度のように、緩やかに山道をなぞって動いていた。
「変だ、こんな夜中に国境を目指してたくさん人が集まるなんて……まるで僕たちを追ってきたみたいじゃないか」
「誰か、内通者がいた……?」
サリナがそう言うと、ブランクは首を振る。
「見張りがいたのかもしれない……村の人を疑いたくないだけかもしれないけど、そっちの方がしっくりくる」
いずれの場合にせよ可能性が高いのは、彼らが領主の私兵団である可能性だ。もしここで見つかれば、厄介なことこの上ない。
「西はダメか……」
ブランクの言葉に、サリナはどうする? と判断を仰ぐ。するとブランクは動揺など噯気にも出さずに言ってのけた。
「迂回しよう。無駄な争いは避けるべきだよ」
冷静な判断に、サリナも賛成、と二つ返事に動き出す。
そうして月明かりだけを頼りに、二人は暗い夜道を歩いた。目立たないように、木の葉を傘に歩き、けれど、月明かりの遮られていない崖沿いに歩き、ブランクたちは、北へ北へと歩みを進めていった。
時折、ちらりと西の山を振り返るのも忘れない。幸い、こちらを追ってきている様子などはなく、それが、ブランクの胸の内にわずかな安らぎを与えた。
思えば歩き通しで喉もカラカラだ。
「サリナさん。次にどこか隠れられる場所を見つけたら、朝まで眠ります」
ブランクがそう言うと、サリナは「分かった!」と素直に従った。一度時間を置くことで私兵団の捜査を撹乱する作戦である。そこに休息も兼ねているので、まさに一石二鳥なのだ。何よりもいざという時に、昼間なら戦いになったとて、魔術反応による光が目立ちにくい。
見つからないと踏んで日暮れの出立にしたが、自分たちが村を出たことが発覚しているのならば、夜に行動する恩恵もあまりない。
キョロキョロと辺りを見渡すとブランクに、サリナが手を振る。
「ここならどう?」
「うん、いいね」
サリナが見つけたのは、木のうろである。人一人が入れそうな空間ではあるが、ブランクがいくら子どもだとは言っても、サリナと二人で入るにはいささか狭すぎる。休息よりも窮屈が勝るそんな場所に、ブランクは先に入ると、床に木の板を敷いた。
「後で一緒に入ってきてね」
「もちのろん! 夜更かしは美容の大敵だし」
ブランクが板の上に置いたのは『賢者の書』である。魔力を注ぐことで本の中に入ることができ、ダザンがあつらえた家まで揃えば、もはや、簡易的な別荘である。
「まさに、木のうろに衾、だね」
元の持ち主が使っていた言葉を口にしたブランクに、サリナは「何それ」と尋ねる。
「ふふ。至れり尽くせり、ってことだよ。開け──賢者の書!」
ブランクがそう言いながら本を開くと、光が、うろの中で強く光った。その輝きに導かれるように本の内側へ飛び込んだブランクに続き、サリナも飛び込むと、本はひとりでにパタンと閉じて。
辺りは夜の静けさに包まれた。




