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The Alter Story《ジ・アルター・ストーリー》  作者: 水落護
第五章『旅のはじまり』

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第五章幕間『黒猫の侍女』

「クロエ、あなたはどうして仕事ができないの?」


 藪から棒にそんなことを言われて。クロエは、きょとんとして固まる。


「筆頭メイドが参ってたわよ。いくら教えても、仕事を覚えてくれないって」


「しごとは、できないとこまる?」


 尋ねると、胸の大きな女の子は言った。


「あなたをラーゼンヴァルグ家で引き取って召し仕えることになった以上、できないと困るわよ。それに──」


 胸の大きなその女の子は、言うか悩んでから、やっぱり言った。


「わたしにもしものことがあったら、あなたはどうやって生きていくというの?」


「にゃあ〜……」


 思考を巡らせるものの、その答えは出てこない。今日までどうやって生きてきたのだろう。しごと──きっとしてきたはずなのに。言い慣れた言葉のはずが、過去が霞んで覚束ない。


 縁のない絵はタールでも噴きかけたような穴だらけだ。


 けれどクロエは考え、至った。


 ──覚えていないということは、きっとどうでもいいことだ。


 この少女の名前も、前に聞いたはずなのに、あまりよく覚えていない。


 つまりどうでもいいことだ。


(あれ──?)


 チクリと胸の奥が痛んだ。


 目の前で呆れるように掃除のやり方や、料理の作り方を教えてくれるこの心優しい少女が、困ったように顔を曇らせると、その度にクロエはたまらなく胸が痛くなった。


「クロエ、聞いてるの?」


「聞いてるよー」


「ほんとかしら……」


 聞いてなかったのに、思わずそんなことを言ってしまった。それから、何と言うわけでもないのに、やってしまったと思った。


 すると途端に呼吸が荒くなり、心臓がネズミの跳ねるように動き回る。くるくると目蓋の中で激しく動き回る目や、きゅうっと息の通りを悪くする舌や、皮の剥かれたような肌寒さに震える体など。たくさんの嫌が押し寄せてきた。


(あれ。これ。いやだ)


 記憶の中から途端に滲み出てきた、銀色の髪をした胸の固そうな大きなおじさん。それが大きな手を広げて近寄ると──クロエは、その記憶を早く消し去りたくて、サラサラとした黒髪を、くしゃくしゃに握り潰していく。


「──ねえ、しっかりして!」


「──……あ」


 クロエは、緑青色に映る自分を見た。その綺麗は、先ほど自分と話をしていた胸の大きな女の子の目だった。


「今日はもうおやすみにしましょう? わたしも、執務が溜まっているから……」


「ごめんなさい……」


 クロエが謝ると、綺麗な目をした女の子が手を伸ばしてきた。


(あっ──)


 嫌だ、叩きつけられる。


 咄嗟にそう思ったのに、持ち上げようとした手が恐くて言うことを利かない。


「あ──」


 クロエの頭に、細長い指がふんわり乗っかった。それは、するすると自分の嫌を溶かしていく。


「謝らなくていいわ。誰だって、初めからは上手くできないもの、ね?」


 撫でられた頭の上の指は柔らかく。不思議なことに、走っていたネズミがどこかに消えていて、頭じゃなくて、自分のぺたんこなまな板の奥が、とっても温かかった。


 クロエは、紅茶も飲んでないのに変なの、と思った。


「──ここの窓ガラス、しっかり拭いておいてね」


「うん」

「返事ははい」


「はい」


「お願いね」


 ヒットーメイドチョーは、他に仕事があると言って、クロエを避けたらしい。そのためか、あの綺麗な目をした少女が、たびたびクロエの元へと足を運び、仕事を教えてくれた。あの少女の言葉なら、仕事は覚わった。クロエは不思議だなあ、と思った。


 そうやってお勤めをしていると、人の陰口もよく聴こえてきた。


「聞いた? 当主様、また降格処分を受けたらしいわよ」


「聞いたわ。なんでも休戦中の敵国に、無許可で立ち入ったらしいわね。バレなかったから良かったものを、下手にハチの巣を(つつ)いて開戦でもしたら、迷惑を被るのは私たち庶民なのに、何を考えてるのかしら」


「先代様がご存命の頃は良かったわね。今もあの禍猫種(イーニス)の子にご執心で、きっと領内のことなど手につかないんだわ」


「どこで拾ってきたのかしら。いきなりズブのど素人連れてこられても、仕事が増えるだけでこっちは良い迷惑よね。筆頭メイドのサラも参ってたわよ」


「やっぱり、血筋だからって若いご当主様じゃなくて、どこかの有力者に嫁いでもらう方が楽よねー。それなのに見合いも断ってるみたいだし」


「働く女性って聞くと素敵だけど、実力が及ばないんじゃねえ?」


 迷惑な話よねー、と井戸端会議に夢中な侍女たちに、クロエは自分の話もされてるのかと、少し経ってからようやく気がついた。


(ボクが、あの子に迷惑をかけてる……?)


 クロエは、生きてるだけでも人に迷惑をかけることを知った。


 それからしばらくして。クロエは、少しずつ仕事を覚えていった。


 初めは興味がなかったのに、一つ仕事を覚えると、あの少女が綺麗な目を細めて喜ぶものだから、その反応が面白くて、ついつい進んでやってしまった。


 クロエは鼻歌を歌いながら、こんなことで褒められていいんだ、と思った。


 だって前なら──。


 そう思いかけて、クロエは固まった。


「あ」


 赤かった。赤くて、朱くて、紅くて、垢く手。ぬるぬる。少女がくれた温かいと同じなのに、それが冷えていくと、黒くなって、心まで黒くなって、それがとっても気持ち悪い。


 血だ。包丁の噛み付いてきた指から、見慣れた色が飛び出してる。


(あれ、でもどこで──)


 クロエは、砂嵐に霞んだ記憶の底に、恍惚とする自分を見た。その姿は、自分と思えないくらいとてもおぞましくて。けれど突然降って湧いたその思い出が、まるっきり嘘ではないことを、鮮やかな指の赤が押し付けてきた。


「ぁ……」


 自分は、あの少女とよく似た綺麗な目の男を、傷つけている。確か少女には、オトーサマと呼ばれていたその人物を、自分は、平気な顔して傷つけていた。


 クロエは居ても立っても居られなくて走り出した。その場から逃げれば思い出も置き去りにできると思った。けれど、現実は逃げても逃げてもぴったりとくっついてくる。


「あら、クロエ。戻ったわよ。あなたもお出迎えありが──」


 ヒットーメイドチョーの横を通り過ぎ、クロエは屋敷を飛び出した。


 自分は汚れている。鮮やかな赤と、染み付いた黒で。それが脂で、ギトギトだ。


 床や家具、水回りや庭の掃除まで。たくさん教えてもらったのに、自分の掃除の仕方だけが分からない。


 やっぱりクロエは仕事ができないんだ。言われた通りだ。


 思い出した。自分は人殺しだったから。それ以外いらないから。


 だから仕事ができないんだ。


 もうやらなくてもいいのに、それでしか生きていけないんだ。


 悲しくて涙が出てきた。気がつけば怒ったような色をしていたお日様は、もういなかった。少女のくれたような温かさは消えて、かわりに夜は、冷たい孤独を運んできた。


 どうしよう、とクロエは思った。


 出てきてしまった以上もう戻れない。そうやって煙突の温かさに近づいて、屋根の上からちょこんと石畳を見ていると──そこに、彼女がいた。


「クロエー、どこにいるのー!」


 まさか自分を探しているとは思わなかったクロエは、耳をぴょこぴょこ動かした。尾が先までおっ立って、今すぐ向かいたいのに、彼女とどんな顔を合わせればいいかが分からない。


 その歯痒さに板挟みされて、尾先はどんどん不機嫌に揺れてった。


 ──そんな時だった。


「おう別嬪さん、探し人ならあっちにいたぜ!」


「え、それほんと!?」


 そんな声が聞こえてきた。


「え」


 クロエは驚いた。


(そっちにボクいないよ……?)


 頭の上の耳がぴょこぴょこ疑惑に動く。


 それともよく似た別の誰かを探しにきたの?


 それが怖くて。同時に怖いもの見たさもあって。気がつけばクロエは、二人の後を追っていた。


 どんどん先へ、ずんずん先へ。路地裏の奥へ奥へと二人は向かってく。途中、心を壊してしまった人たちがたくさんいたけれど、男の人はお構いなしだ。けれど少女は違った。その一人一人を見るたびに、胸を痛めているようだった。


「さあ着いたぜ、ここだ!」


「ここって──」


 クロエは驚いた。そこにクロエはいない。わらわらとたくさん出てきた固そうな男たちの中に、クロエがいるのだろうか。


「これは……どういうこと?」


 自分と同じ疑問を、少女は綺麗な目を吊り上げて言う。はたして男は言った。


「はあ? まだ気付かねーのかよ。テメーは騙されてたんだよ!」


「どんだけめでてーんだ。オレたちは流れ者の、盗賊よ!」


 下劣に笑う男たちに、少女は怯えるでもなく、震えるでもなく──ただ、呆れた。


「そう。慣れたものね」


「テメーがチョロすぎるんだよバァーカ!」


「うぐっ……」


 クロエは確かに、と思った。自分はここにいるのに、クロエを探しにきたのなら、屋根の上にいるのだから、そんなところにいるはずないじゃないか、と。


(あ──)


 クロエは気づいた。


 そういえばまだ顔を合わせてなかった。それなら、仕方のないことじゃないか?


 そう思っている間に、戦いは始まった。町のゴロツキたちが先陣を切って攻めると、少女はその手にある短剣を軽くいなして。体の外側へ回り込んでは手首を掴み、そこにある肘に目がけて、すかさず掌底をお見舞いした。


「いぎっ!?」


 切込隊長役が一瞬でねじ伏せられると、場慣れした少女の様子に、男たちは途端に勇んだ足を、その場で踏み出した。


「甘く見られたものね。民の敵と分かった以上、みんなまとめて憲兵に突き出してあげる」


 かかっておいで、と指先で誘い出されると、男たちも、意地に懸けて後戻りできない。


「やっちまえ!」


 数の差があるというのに、その差はどんどん縮まっていく。一人、二人、三人──ついには、頭目との一騎打ちになり、人海戦術は一瞬で破綻した。


「今から降参しない? 悪いようにはしないわ」


「いや捕まるんだろそれ。どこが悪くねえんだよ」


 クロエは確かに、と思った。少女もそう思ったようで、うぐっと言葉を詰まらせていた。


「でも、でも──もしあれなら、ウチの領内でお仕事を充てがってもいいわよ。あなたたち、度胸がありそうだし」


「ふざけんな! せかせか汗水垂らすより、テメーみてーな平和ボケしたやつとっ捕まえて売っ払った方が、よっぽど金になるぜ!!」


 その途端、余裕を崩さなかった少女が、一挙にその表情をこわばらせた。


「そう──あなた、奴隷の仕入れ人なのね」


 声の色が変わった。ピリピリと突き刺すような声が、冬の冷たい風よりも、みるみる空気を鋭く研いで、痛くする。


 それに気づかないのか、頭目の男は「はあ?」と煽り立てた。


「他になんだと思ってたんだよ」


「……当たり屋?」


 クロエは吹き出すかと思った。男が笑い飛ばしているのを羨ましいと思った。


「まあいいや。オレ様に楯突いたこと、後悔させてやるぜ!」


 男はミチミチと音を立てながら、一回り大きくなった。その隙間を埋めるように鱗が生え揃い、やがてそれは体の外側全体を覆っていった。


「ハッハァー、どうだ! オレ様は自我を失わないまま、ここまで半獣化できんだよ!」


 クロエは思った。大したことないなと。これならあの少女でもなんとかなるだろう。それは少女も同じようで、一度組み合えば容易く押し切らんとした。


「うぉっ! やるじゃねえか、ええ?」


「お褒めに預かり光栄よ。さっさと負けを認めて」


 投降を促されるも、頭目の男は「誰が!」と突っぱねる。


「こんだけ怪我しても、テメーみてーな上玉捕まえられりゃ帳消しよ、簡単な仕事だぜ!」


 人の悪意に触れて。少女は顔をしかめる。しかしクロエは別に、違和感があった。


 どうしてあんなに余裕なのだろう。今だって、徐々に徐々に腹を逸らされ追いやられてる。


(あ──)


 クロエは気付いた。最初にのされた男が、小さな鉄穹(てっきゅう)を持っていることに。そして、その矢先が、少女の背中へ向いていることに。


「救いようのない愚か者ね。ここからどうやって捕まえるというの?」


「へへっ、やりようはいくらでもあるぜ」


 例えば──と、男が言いかけた時。その矢は放たれた。


「なっ──!?」


 驚きの声を上げたのは少女──だけではない。頭目の男も同様だ。


「見てらんないよ」


「クロエ、あなた今までどこに……!」


 クロエは適当に地面から見繕った砂鉄を集めて、鎖鎌を作った。それで矢を払い飛ばしたのだが、少女の気が逸れたのが良くない。


「クソッタレが!」


「あっ!」


 頭目の男は、伸びたトカゲの尾で少女の肘を(はた)くと、すかさず尻尾を巻いて逃げていった。


「待て!」


 クロエが追いかけようとすると、少女は「ダメ!」と叫ぶ。


「あ」


 何が、と思って振り返った時には、少女の手に鉄針が刺さっていた。


「──オマエぇッ!」


 クロエは怒った。腹の底から湧き上がる激情が、あの矢を放ってビビり散らかしている男をぐちゃぐちゃにしたくなって。どうしようもなくあのガワを壊したくなった。


「クロエだめ!」


 鎖鎌が男の眼球を舐めようとした時、それは止まった。


「わたしなら、大丈夫だから……」


 無理をして笑っている。自分のせいで。本当の笑顔はもっと綺麗なのに。名前だって──。


「あ──エレノア……」


 クロエは、思い出した。必要ないはずの記憶から、忘れてはいけない名前を。


「エレノアッ!」


 そうやって恐怖に気を失った男を放り出すと、クロエは少女を抱き上げた。


「エレノア、エレノア……!」


 クロエがそうやって呼びかけると、少女──エレノアは、荒い息遣いで困ったように笑う。


「やっぱり……何も聞いてないじゃない。わたしのことは、エレナお嬢様と呼びなさいって。他の使用人に……示しがつかないじゃない」


「なんで、ボクを──」


 庇ったのか。父を傷つけた自分を。その事実を認めたくなくて、クロエは続く言葉を口にできなかった。けれど、エレノアは言った。


「お前のような使用人ひとり守れなくて、誰が領主になんてなれますか……」


 吐く息は深く、鋭い。肩がつどつど上下して、掌の傷に、クロエが動揺を覚える。それを見透かしたように、エレノアは言う。


「毒よ。大丈夫、わたしは耐性があるから、慣れてるのよ、ふふっ」


 クロエは知っている。大丈夫なことと、平気であることは違う。慣れているという言葉は、つらいことから生まれる言葉だと。


(ボクも人を殺すことに慣れていた。痛いことにも慣れていた)


 でも──と、クロエは思った。


(この子が傷つくのだけは、もう絶対に慣れない)


 この日、侍女は誓った。この気高い友を、主人を必ず守ると。もしものことのないように。


 ──それから、数日が経った。


 明くる日には、すっかり元通りに執務をこなしていた主人の部屋に、クロエは、鬼の口にかかった輪っかを手に取ると、それをきっかり二回、ドアへ打ち付けて入室の是非を問うた。


「……どうぞ、入って」


「しつれいします」


 慣れない口調と、慣れない服装。自分でも戸惑いの多いその姿を、パチっと認めた心根の優しい主人は、気難しそうな顔から一転して、顔のこわばりを砕けさせた。


「あら、似合ってるわね。やっとあつらえていた物が届いたから、あなたに着てもらったのだけれど──その様子なら、仕事にも支障がなさそうだわ。着替えと含めて二着だけだから、きっと大切にしてね」


 約束よ? と差し出された小指に、クロエは胸を張って応える。


「まかせてください、エレナおじょーさま!」


「……ふふっ、様になってきたじゃない」


 また一つ、嬉しい笑顔に胸がほころぶ。


 クロエにとっての大切が、またひとつ増えたのだった。

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