第二十話『憩いの書』
嘘でしょ。笑い飛ばしたいはずなのに、ブランクの直感が、それは正しいと理解していた。
あらゆる観点から見ても、それは正しい。
ジャンの頭が上がらない人間。蔵書のように豊富な知識。西の国に対する解像度。先ほどの威圧感。どれを取っても根拠の一つとなり、今まで散らばっていたはずの点が線となって結ばれて、まさに腑に落ちた、という表現が正しかった。ブランクは言葉を失っていた。
「どうかしたか?」
「いや、だって、憧れの人がいて、僕、目の前──えっ?」
一度目を閉じて背を向けて、ブランクは自分の頭をポカポカ叩いた。
「何をしている?」
「夢じゃ……ない?」
じんじんと染み入る痛みが、何をすると訴えかけていた。しかし背後に震える心地良い音の響き、残響のように脳内を反響する言葉、どれを取っても夢のまた夢などではないことの証左を、まざまざと見せつけていた。
ブランクは、ちらと振り返る。
「わあ……」
伸び散らかした髪と髭。少し不潔に見えていたのに味があるように見える。
熊のような体。膨れてだらしなく見えたのに、今では愛嬌があるように見える。
青い空色の目。大空を詰め込んだように透き通る青は、今まで見たどんなものより美しい。
ダザンは一息ついて、口を開いた。
「ジロジロ見て不躾な奴だな。見物料でも取り立てるか?」
「あー……うん。ごめん」
皮肉はさすがにダザンであった。その切れ味は鍛冶屋仕込みの砥石ですっぱり抜群らしく。ブランクは、思わず苦笑を浮かべた。
「それで──結局ここはどこなの?」
一度落ち着いて話をするべく、ブランクは気になっていた話題を切り出した。しかし次にダザンの口から放り込まれた情報は、ブランクの予想だにしないものだった。
「ここは本の中の世界だ」
「本の中の世界……?」
あまりに懐疑的なその言葉に、ブランクは首を傾げた。しかしダザンは冗談を言うようなタイプでもない。シワだらけなはずのその顔には、一切の遊びがない。
「……ほんとに?」
「ああ。ここは本の中の世界だ」
「──あっ」ブランクは思い出したように呟く。
「賢者の書……!」
ブランクの言葉に、ダザンは頷いた。
それは西の賢者の冒険譚にも度々登場した『魔道具』である。曰く望む世界を与えるもの。曰く時の巡りに媚びぬもの。曰く一時の隠れ蓑となるもの。本の中に世界を作り、中に入り込み、そこで暮らすことを可能とする。持ち運びが可能な家のようなものとして、冒険の中では描かれていた。
(ここが──そうなのか)
見るに納得する。窓の外に映るのは理想を映し絵に閉じ込めたようなまま定まった世界。
(時の巡りに媚びない、っていうのはそういうことか)
ブランクはここでまだ夜を見たことがない。するとこれはおかしな表現ではあるが、外の世界が夜であろうがここは昼のままであるということだろう。
「今は外は夜?」
「ちょうど黄昏時だ。そろそろ夜にしようか」
ダザンはそう言って、懐から本を出した。その装丁された表紙の中心部を親指の先でコロコロ何かを回すと、外の世界は途端に夜に早変わりした。
「わっ、こんなこともできるんだ……」
「昼か夜かは自分で選ぶことができる。だから時の流れに媚びぬのだ」
なるほど、と納得したブランクは、その瞬間にハッとする。
「それが賢者の書なの!?」
「……そうだ」
「み、見せて……!」
目を爛々と輝かせながらにじり寄られて、ダザンはため息をついて本を手渡した。見た目よりずっと重いその本は、表紙に太陽と月が上下に二分された精巧な仕掛けが施されており、その装飾の中に夜の絵が描かれていた。恐らくこれを動かして昼から時間を進めたのだろうと、ブランクは感心した。
「言っておくが本は開くなよ」
「えっ──」
ダザンが開くなよ、と言いきるよりも早く、ブランクは本を開いていた。すると次の瞬間、ブランクは本の中で渦巻く光の中へと吸い込まれ、気がつけばどこかへ放り出されていた。
「いてて──あれ? ここは……」
ハッと辺りを見渡せばそこはダザンの家の中だった。外の世界は聞いた通り確かに夕暮れ時で、ブランクの髪と同じ赤枯れ色に焼かれた雲が、忙しく藍染めへと向かっていた。そこへパタパタと、急ぎの足音が駆けつけてきた。
「ダザンさん、今大きな音が──」「あっ」
そこには、ジャンの想い人であるサリナがいた。
「ブル……?」
「サリナ、さん……」
ブランクは、何と言い知れない気まずさに顔を背けた。ジャンを見捨てた自分がサリナと話していれば、なんだか彼の想いを踏みにじっているような気がして、居た堪れなくなった。ツカツカと無遠慮に歩み寄る足音が、ひどく怖かった。しかし、もしここでサリナが自分を叱ってくれれば、どんなに胸の内が救われるだろうと思った。やがて、サリナはブランクの前で立ち止まり、ゆっくりと腰を下ろした。
「ブル──」
きた、と思ったブランクは、肩を飛び跳ねさせた。罰を受ける覚悟などとっくにしていたはずなのに、今更怖れに震える。その肩を、サリナの手がしっかりガッシリと掴んだ。
「ブル、聞いて。──隠れないと死んじゃう」「えっ?」
聞こえた言葉に耳を疑ったブランク。言葉の意味を反芻する時間すら与えぬ忙しない足音がドタドタと響いた。それはブランクの中に熊退治をした後のトラウマを呼び覚ました。
「この足音は──」
ブランクが顔を青ざめさせた次の瞬間、サリナが部屋の隅へ退避した。
「ねーちゃここ!?」
羊髪の少女の瑠璃色と、ブランクの琥珀色が「あ」と言葉を交わしてしっかりと交わった。
「メ」「にーちゃああぁ!!」「ルぅううう!?」
ブランクの腹に、白い弾丸が突き刺さった。
「やれやれ……開くなと言ったのに」
魂を噴きこぼしそうになったブランクの視線の先、ダザンが本から飛び出した。
「ダザン! これは一体──」
「これがこの書物の発動条件さ。開けば中と外を自由に行き来できる。開く際に魔力を必要とするが、今のお前ならば問題はないだろうな」
「魔力を、必要とする──」
そうは言われても、ブランクは、魔力を吸われたような気がほとんどしていない。ダザンから話を聞かなければ、疑いもしていなかったほどだ。
「まあ、お前の中にある魔力総量を考えれば、雀の涙程度のものさ」
「僕の、魔力──」
底知れぬ力がただ静かに眠っていることだけ感じる。しかしブランクがいつも使っている魔術を考えれば、これを一日で使い切ることなどないのだろうと思わせた。
「まあ、魔力に適性があったのは、素直に喜んでいいことだろうな。それほどの膨大な魔力、常人ならば廃人になっていてもおかしくはない」
「えっ!」
突然気が狂れるかどうかという話を持ち出されて、ブランクの心の平穏は、にわかに脅かされる。しかしメルが腹の中でぶんぶんと頭を振ると、それどころではなかった。
「ダザンさん、食事にしますか?」
「……ああ。本の中へ頼む」
はいはい、と返事をするに、もはや慣れっこであるようだった。
(サリナさんとダザン、仲いいんだ……)
『賢者の書』について驚きもしなければ、得体の知れないものに対するためらいすらない。もはや見慣れた、と言ったやり取りに、サリナが『賢者の書』の存在を知見しているのだと、ブランクはなんとなく察した。
(サリナさんはダザンが西の賢者だってこと、知ってたのかな……)
自分が憧れた西の賢者の正体。その真実を知るのは自分だけだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。もしかしてダザンは、隠しているつもりなどなかったのだろうか。それとも大人たちだけ知っていたのだろうか。
考えても分からないまま時間だけが過ぎていき、ブランクは、そのまま夕食に呼ばれた。
「それじゃあブルの快復を祝って──かんぱーい!!」
「あーい!」
サリナの音頭に合わせて、メルがジュースを持ち上げる。ダザンとサリナがそれぞれお酒を煽り、メルはジュースでごくごくと喉を鳴らす。ブランクは、決まりの悪そうな顔で、卓に並ぶ食事を見た。温かな食事はブランクの腹の底にいる虫の機嫌を刺激して、今にも鳴きだしそうだ。けれど今この瞬間にもつらい思いをしているであろうウィルやジャンのことを思うと、食事を摂ることだけでも悪いことをしているような、そんな気になってしまうのだ。
「食べないのか?」
「なんか、僕なんかにはもったいなくて──」
ブランクがそう言うと、サリナは面白くなさそうに口を尖らせた。
「ふーん。ブルが喜んでくれる顔を思い浮かべて、一生懸命作って、メルも手伝ってくれたのになぁ。そっかそっかー、残念だねー、メルー?」
「めー!」
「うっ……」
どう見ても言葉の意味も分からず同調しているだけなのに、ブランクの良心はそれだけで焼き払われた。それを見たダザンが「諦めろ」と小さく窘める。
「己を卑下するのは容易いが、それが人の好意も軽んじてしまうこともあるのだと言うことを忘れるな」
「ダザン……」
「どちらにでも使えるなら、言い訳は前向きなことに使え」
そうまで言われると、食べることに抵抗を抱えているのも、単なる自分の意地なのではと思えてくる。ブランクは、目の前のスープとダザンの言葉とを飲み込んだ。
(そうだ。僕はウィルとジャンを助けに行くんだ。そのために強くなるって決めたじゃないか。それなら──食べないと何も始まらない)
スープにパンを浸して、削った干し肉と一緒に食べる。干し肉の塩気がスープの中に溶け込んだ野菜の旨味と合わさり、それらが小麦の風味と口の中でひた踊る。
「あぁ〜……ずるいよ、こんなの」
ほんのりと──。塩の味が増した気がした。
「めちゃくちゃおいしいよ……!」
思わず涙が出るほど温かい。男世帯に暮らしていたブランクが今まで味わったことのない、それはまさに史上の味であった。ブランクの感想を聞くや否や、サリナは得意げに「そりゃそうでしょ!」と大きな胸を張る。
「なんたってわたしたちの愛が詰まってるから、ねー!」「めー!」
きゃっきゃと明るく振る舞う姉妹愛は、自分たちとも違う温かさがあった。けれどその姿に、ウィルとジャンの姿が重なる。それはこんな家族の姿を取り戻さなきゃ、とブランクに、そう思わせた。
夜も更けるとブランクは日課の素振りを終わらせ、書斎へ向かう。軋むドアの向こうでは、蝋燭の火を頼りに、ダザンが日記にペンを走らせていた。
「こんな遅くになんだ?」
「改めて、言っておこうと思って」
言葉通り改まった姿勢で背筋を正すブランクに、ダザンも威儀を正してペン立てに筆先を差し込んだ。それを見計らったように、ブランクは、折り目正しいお辞儀をした。
「明日から、よろしくお願いします」
「……ワシは厳しいぞ」
願ってもいない。そう思ったブランクは「はい!」と明朗な声で返事をすると、
「おやすみ!」そうやって、いつもの調子で書斎を後にした。
「ああ、おやすみ」
小さな声でそう呟いたダザンは、在りし日を思うように目を細めた。
「あやつなら──男が簡単に頭を下げるな、と言うたであろうな」
そう言いながら、ダザンはペンを見た。
「あの日、あやつにワシがルーンを使わせなければ──」
そう言いかけて、数回目を瞬かせ、首を振る。
「いや……過ぎたことだな。そうだろう? マルタ」
そうこぼしたダザンは、引き出しにペンダントをしまった。日記を仕上げ、それから蝋燭の灯りを吹き消すと。書斎は静けさに染まった。




