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The Alter Story《ジ・アルター・ストーリー》  作者: 水落護
第五章『旅のはじまり』

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第十八話『優しくしないでよ』

『──我が威光は全ての者を平伏させる』


 鋭い鈍色(にびいろ)の雫が落ちた気がした。ブランクは、細い道を走っている。人一人しか通れない、一歩(たが)えれば、奈落の底にひっくり返るような──深淵に横たわる、一本の道を。


『人よ、木々よ。ありとあらゆる(せいめい)よ』


 声はどこからともなく聞こえる。上から聞こえるようで、下から聞こえているような気もする。前や後ろ、右、左、斜め、全ての空間からささやいているような気もする。ブランクの中にある、焦慮(しょうりょ)の念が落ちる砂時計の穴を無理矢理こじ開けるかのように、それは続いた。


『其が(こうべ)を垂れぬ(おろ)かなる()れ者なれば、我が忌まわしき力の一端を()ちて、大天(たいてん)仇為(あだな)(すべ)ての君臨者どもを(くら)き地の底へ(いざなお)うぞ』


 いくら走ってもその声が耳から離れない。耳元に纏わりついているような、恐怖。不快感などではない。恐怖だ。その声は、無遠慮に詠う。


『リジア・ロド・メ・ジーナ』


 なんとなく。ブランクには、その言葉の意味が理解できた気がした。そして、それと同時に「あ。終わった」と思った。


 ──羽虫のごとく、潰れなさい。


 その言霊の名を冠する魔の手が。冥き闇の解き放たれる音が。ついに切って落とされた。


『身の程を知れ──メディブリア・ラ・ズン』


 直後、ブランクは、自身の背後から、凄まじい圧を感じた。追いつかれればたちまち死を約束するような、恐ろしい圧だった。大気が悲鳴や絶叫のように高鳴りし、奈落の底一面に敷かれてある、ぬばたまの闇すら飲み込んでいった。


 そして、とうとうブランクの背後に、奈落にあるはずの、漆黒の闇が差し迫った。それは一筋の光も許さなくて、ブランクの通ってきた道を飲み込んで、距離に応じて二乗の速さで加速して、全てを飲み込まんと巨大に膨れ上がっていった。


『来るなぁッ!』


 迫り来る深淵を、見すぼらしくちっぽけな手で振り払う。開いた口には呼吸を許す水でも入ったような気持ち悪さが纏わりついてきた。しかし次の瞬間。ブランクは、そんな程度の低い不快感など二の次に置き去りにして、自分の行った行動の愚かさをひどく呪い、確然と後悔する痛みを知った。


『あ』


 深淵に身を投げ出せばどれほど楽だったろうと思った。爪の先がそれに触れた瞬間。時間は凍り出したかのように停滞へと向かっていき、その間にブランクの爪や皮膚、肉などの、骨を包む全てがめくれ上がり、骨はねじれ、折れ、ひしゃげ、潰れ、骨髄までもが蒸発し、霧散しては闇の彼方へ飲み込まれていく。その全てに痛みが伴った。終わりのない痛みが。意識を手放せない痛みが。

 命の(つい)えることを切に願い、ブランクが心のあることを手放そうとした次の瞬間──、


「────あ……?」


 ブランクは、目を覚ました。全ての毛穴をこじ開けられたような肌寒さに全身が総毛立ち、噴き出た汗のせいで、喉がカラカラだ。目は乾燥してゴロゴロとしていて、今にも目蓋からこぼれ落ちそうな気がする。しかし生きている。真っ先に確かめたのは闇を振り払った右の手だ。


(右手──ある。左手も……)


 骨の周りには肉から爪から、全てあつらえたように揃っていた。しかしその全ての繊維が一本一本剥離して、細胞の一つ一つが潰れて、弾けて消えていくような傷みを、ブランクはまだしっかり覚えている。忘れられるはずもない。左右の手がしっかりあることを確認するように、指先の震えを手の中に握りしめて、確かな生があることを感じて安堵の息を漏らす。


「あ──手」


 ここでブランクは、初めて右の腕に痛々しい古傷のあることを確認した。しかし爪も髪も伸び散らかしていないなら、それほど時間も経っているはずもない。


「どこだろ、ここ」


 このやり口がダザンのものだろうと分かれば気になるのはこの場所だ。見るからにここはダザンの住んでる家ではない。鍛冶屋でもない。


「どういうことだ……?」


 そして外に出て驚いたのは、ここからはヴァインスター山脈すら見えないことだ。よもや見慣れない土地であることを見て察するに、隣の国まで運んだなんていうこともあるまいと、ブランクは家の中に戻ってダザンを探す。


「ダザンー、いるんでしょー?」


 返事はない。むしろこの部屋に生活感などというものもなければ、外からは鳥のさえずりすら聞こえなくて。ブランクはとうとう不気味さが勝って、元の部屋へと戻った。知らない場所なのだからどこも同じであるが、眠れる担保があったのなら幾分か気持ちがマシだった。


(冗談じゃないぞ、早くジャンとウィルを探しに行きたいのに……!)


 ブランクは、迅る気持ちに責め立てられ、また寝台から飛び出した、新しい寝巻きを着たまま裸足で外の草を踏みしめて、そのまま闇雲に林を通り抜けようとした。


「わっ!」


 しかし見えない何かにぶつかった。鼻っ柱が赤くなるのを察するに、これはどうやら透明の壁らしかった。らしかったというのは、見えないからである。もしかすると別の何かかもしれない。とはいえ、現状ブランクの行く手を阻むものであることだけは確かなようだった。それはぐるりと家の周りを囲っていて、ブランクをしっかりこの箱庭の中に閉じ込めていた。


「なんだよ、ここ……」


 よく見ると、木も草も。風すら吹かず、遠い空の雲はじぃっとブランクを見つめるように止まっていた。それが空恐ろしくなり、外にいるのが怖くてブランクは家の中へ逃げ帰った。


 そうなるとブランクにはやれることなどなく、家の中を探索するしかやることがない。(あるじ)が不在の中、くまなく探したが、中にあるのはブランクが寝ていた寝室と、机や椅子のある居間と、書斎と簡易的な鍛冶場だけである。書斎にある本も読んだが、やはりというべきか、どうやらダザンの日記らしく、内容は鍛冶に関することばかりだった。


「ウィル……ジャン……」


 ブランクは寝室に戻ってシーツにくるまった。せっかく生き延びることができたというのに、二人に会えないんじゃ心細い。


(大丈夫、だよね? 生きてる、よね……?)


 脳裏を掠めた不安に、誰にともなく心中で疑問を投げかけた。これまでずっと同じ屋根の下で暮らしてきた二人が死んでいるところなど想像できなくて、ブランクはなんとなく根拠のない自信で、生きているはずだと思い込んだ。


「──ダザン?」


 すると突然、入り口付近からカタン、と物音がした。居ても立っても居られなくて寝室を勢いよく飛び出したブランクが目にしたのは、やはりダザンだった。心なしかブランクには、恰幅の良いその大柄な男が、いつもよりひと回り小さく見えた。


「……なんだ、起きていたのか」

「うん」

「そうか……」「……」


 ブランクは短い返事だけして、本当に聞きたかったことを聞こうとした。それなのに唇が結ばれたまま動かない。今の今まで意識しなくても勝手に動いていたのに、突然別の生き物になったみたいに口だけ動かない。代わりに目蓋がピクピクと痙攣して、今にも涙がこぼれそうになった。


 ジャンは? ウィルは? 聞きたいことはたくさんあったはずなのに。もしそれを聞いてしまったら、取り返しのつかないことになるような気がして。ブランクは、一言も喋れない。そのまま黙って俯けば、ただただ無為に、時間だけが過ぎていきそうだった。


「……寝室に戻りなさい」

「……」


 いつになく穏やかで優しい声だった。いつもと違うその態度が嫌になるくらい心地よくて。ブランクは少しの反発心も抱けずに、促されるまま寝室へと向かった。


(あ。ダザンにも、謝らないと……)


 でも。直後に思うのはウィルがいない──。心に残る虚しさが、ぽっかりと胸に穴を穿ち、その穴から込み上げてきたやるせなさに、ブランクは立つ気力すら奪われて、ストンと布団に腰を落とした。


 ただぼうっと虚ろに天井にある木目を眺めていると、ダザンはカバンから何かを取り出す。それはハプルという名前の果物で、黄金色の皮に包まれたその実は歯ごたえ十分に瑞々しく、ブランクの好物であり、祝いごとがあると、ジャンがよく買ってきてくれたものだ。ダザンはそれを、椅子に腰掛けて綺麗に皮を剥いていく。


「食べなさい」


 皿の上に並べられたハプルを促されるままブランクがかじると、それはカリッと小気味の良い音を立てて。噛めば噛むほどに果汁が溢れ出し、乾いた喉の奥を潤していく。大好きなはずの実からは、味がしない。


「あれ──」


 そして、ブランクは気づいた。胸の内に穿たれた心の穴から、食べたぶんだけ水気が溢れ出し、それが目から湧いて止まらないことに。かじればかじるほどに満たされてゆくお腹と打って変わって、心の隙間の広がっていくことに。


「ねえ──」


 ブランクは震える声で尋ねた。怖い。この先を聞いてしまったら、もう後戻りができない。ダザンはぶっきらぼうだから、きっとあっけからんと答えるに違いない。それでもその現実を知らなくては、ブランクは前に進めない。だから──。しかし、


「ウィル、と、ジャ、ンは……」


 うまく口が回らない。震えている。すらすら話せれば「生きてるぞ」と言ってくれそうな気がするのに、そこまで口を開くのがやっとで、ブランクはその先を尋ねることができない。


「ウィル、と、ジャンは──」


 もう一度最初から言い直そう。そう思って、ブランクが嗚咽(おえつ)に乗せた声でそう言いかけると、


「……ぁ」


 孤独に震える体にじんわりと優しい温もりが伝わる。震える体を支えるように包むそれが、ダザンの大きな腕だと、ブランクはようやく理解した。


 ダザンは──何も言わなかった。いつものような憎まれ口や、皮肉めいた言い回しも何も言わず、ただ静かに赤枯れ色した髪の少年を抱きしめていた。ダザンのその温かさに触れているはずなのに、ブランクの体は一層震えた。寒さにではない。あえて言えば──寂しさに。もっと言えば、そんな生易しいものではない。


「ぅ──」ブランクは、理解した。


 普段はぶっきらぼうで、人の機微など気にもかけやしないように見えるこの職人が、自分に優しくしてくれる理由(わけ)を。


「ぁ……ああッ……!」


 見上げていた天井の木目は、すぐに見えなくなった。


 ああ──。目が溺れている──。


 この酷薄な世界で、たゆたう(すべ)も知らずに。ただ(たわむ)れに(おこ)されたもろみのように。失意に(ふち)取られた現実に焦がされて、ブランクは、ただゆっくりと溺れて、沈んでいく。

 思わず、口から漏れる吐息に、冷たい言葉を乗せたくなった。


 ──優しくしないでよ。


 たったそれだけの言葉なのに、もう声が出ない。口がうまく回らない。何よりも──この温もりを、ブランクは手放すことができない。


「ウィル、ジャン……」


 突き放して、問い詰めて、二人をすぐにでも探しにいきたいのに、本能では理解していた。直感がその答えに、すぐに辿り着いてしまった。もう戻れない。世界が滲んでいく。


「うぁあぁああッ!!」


 ブランクは、叫んだ。抗いがたい運命を呪って。声帯の擦り切れることも厭わず。


 ──二人はもういない。


 ブランクは今日、三人から『一人』になったのだ。

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