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第十六話『壊された日常・下』

 促された警戒心に生存本能の赴くまま、ブランクはその塊を避けた。しかし。ブランクは、自分のその行いをすぐに後悔した。


「ジャンッ!?」


 ブランクが咄嗟に避けたそれは、金髪の青年ジャンであった。体に走る痛みに抗いながら起きあがろうとするジャンに、ブランクは「大丈夫!?」と駆け寄ろうとする。


 だが。


「うるせぇッ!」「ぅあッ……!?」


「ウィル連れて──とっとと逃げろッ!」


 獣のように獰猛な低い声。その目は見たこともないほど野生的で、よく見れば、黄金色の体毛が薄く全身を覆っている。しかし、ブランクにとって、そんなことはどうでもよかった。


 弾かれた手の痛みに。ブランクの心には、隠しようがないほどの戸惑いと揺れがあった。


 だが。それを反芻する隙を許さないのが、ジャンの血走った(まなこ)と本気の顔だ。口元から顎にかけて一線引かれるそれは、口内を噛んだなどでは説明のつかない重症である。外の脅威が何であるかは分からない。ただ──ジャンが逃げろと言うのだから、ブランクには逃げるしか手立てがなかった。


「……いい子だ」


 慌ててウィルの部屋へ向かったブランクの背中から、そんな優しい声が聞こえた気がした。しかし振り返ることなどできない。したとて、今の滲む視界で、ジャンを直視できようはずもなかった。


「ウィル、起きてッ!」


「う〜ん……メルぅ、それはオレのスカーフだよぉ」


 能天気に寝ているウィルであったが、ブランクは身の毛も弥立(よだ)つような、低い音を聞いた。それは竜に飲み込まれたようなほど低く恐ろしい音で。唸り声にも似たような音で。しかしはっきりと熱意と破壊の色をした赤で家の外を囲っているのが、窓の外に見て取れた。


 炎である。


「いいから早く起きろッ!!」


 寝ぼける少年に苛立ち、ブランクは一気にシーツを引き絞る。すると銀髪の少年はその上を転がされて、寝台から無理矢理引き落とされた。


「いてて──なんだぁ?」


「こっちにッ、早く!!」


 何が何だか分からないまま、外の様子に驚くウィルの手を引いて。二人は寝巻きのまま外へ出た。立ち込める煙が死をこまねいて、せせらぎを運ぶ優しい夜風の吹いていた家の前は、破壊の臭いで満たされている。──そこへ。


「ああ──実に愉快」


 死を予兆させる声が、ブランクの背筋をなぞった。


「何故、私が奴らをおびき出せたか分かるか? ハンク」


 現れた男が暗闇にそう尋ねると、そこから黒光りする何かが現れた。


『いいえ、何故でしょう?』


 闇夜からヌッと現れた、黒い甲殻に身を包む蜘蛛男。それは、残響のようにくぐもった声で問い返した。すると最初に現れた男は、不遜に笑って、答えた。


理由(りゆう)などない──私だからだ」


 肉すら裂けそうなほど、鋭く冷たい声だった。白金色(しろかねいろ)の長い髪に、赤黒い角と月色の瞳が二つ。燃え盛る紅蓮を宿すその長身の男は、視線だけで断てそうなほど鋭い眼光を光らせて、悠然たりと二人の少年の前に立ちはだかった。


「なんだ、オマエ──」


 さすがのウィルも言いかけて、言葉が止まった。その男は、見た目通りの傲慢で、まるで自分以外の全てが平伏しなければ許さないとでも言いたげな視線を振り撒き、言葉にはない説得力を殺気として放ち、ブランクは悟りと諦観の涙を流し、それから畏怖の念に促されて、膝の折れることを、もはや自然の摂理と信じて疑わなかった。


「ふむ、心意気や良し。弱者の作法のなんたるかを心得ているな」


 その男の背後から、何かが放たれた。細長く蛇のように地面スレスレをひた走るそれには、よく見ればゴツゴツと浮き出た、それでいて整然と並ぶ鱗が、びっしりと生え揃っている。


 あ。竜人族(メギア)──。


 それは、破壊の神の使いとされる竜の、その子孫と謳われるヴリテンヘルク最強種。その証とされる巨大な角に、強靭な竜の尾が、ブランクたちの前へと立ちはだかった。致命的なことに、これは勝ちの目のない出来レースである。ブランクは、それを本能で分からされた。


(あっ──)


 脳裏に浮かんだのは、ダザンの綺麗な瞳。


 謝らないといけないのに。ブランクは、目の前にある災害が、(くう)を切り裂き、自分の明日を摘み取らんとする音に、ただ耳を傾けるしかなかった。


「………………おい」


 ハッとした。ブランクは、肌に戻った炎の熱や、むせそうなほど濃い黒煙の臭いに、現実に戻されたことに気がついた。確かにあった現実が恐怖の色一色で支配されていて、先ほどまでまるで金縛りにでもあったようだった。


「さっさと、逃げろ……!」


「…………ジャン?」


 うそだ。これは夢か、現実か。遠くで揺らめく火先(ほさき)のように、頭がくらくらする。


 赤い雫が垂れた。目の前の竜尾の先より、命の色がただ静かに落ちていく。ジャンは腹に刺さった尻尾を肘と膝とで叩きつけ、それを竜の男は「不愉快だ」と言って尾を引っさげる。


「ジャン!」「にーちゃ──」


 ずるりと倒れそうになったジャンに駆け寄るウィルの腹に、ジャンの拳が突き刺さった。


「……ジャン?」


 気絶したウィルの姿に、ブランクが困惑の色濃く尋ねると、その金色の獣人は──いつもと変わらぬ優しい声色で、言った。


「ゴアドと、ハオディだ。西の、ヴリテンヘルクに行け。そう、だな……そこで、エレノアってやつを、訪ねろ。アイツはオレに、貸しがある」


 ゴアドでウィルを担ぎ、ハオディで逃げろ。そういう意味だろうと思う。しかしブランクは、歯の根をカチカチ鳴らすことしかできない。溢れる涙で目玉が潰れそうだった。


 自分を庇って腹に風穴を開けた男が、西の国の擁する最強種族に勝てる道理などあるわけがない。逃げられる自信すらない。それでも、ジャンは引かない。


「拭け、虫ケラ」

『御意に、アルトリウス様』


 アルトリウスと呼ばれた男。その男よりもさらに大きな背丈の細身の男が、六つの細長い腕を巧みに扱い、外套のような大きな布で、血に塗れた竜の尾を綺麗に拭き取っていく。


「ふむ、拭き方が汚いな。見ろ、まるでお前のツラのようだ」


『勿体無きお言葉……すぐにワタクシめの顔を潰しましょうか?』


 軽い応酬に命が懸かる。それを竜人アルトリウスは「ははっ」と一笑に付す。


「汁が飛ぶ、汚くて敵わん。不問とするぞ、良きに計らえ」


『格別なる慈悲に、この上なき感謝を』


 ブランクは、思った。目の前にいるアルトリウスは、もちろん言うまでもない。ブランクが望むだけ時間を巻き戻せて。思いつく限りの方法で奇襲をかけたとて。一つも敵う情景が浮かばない。それ自体はこの世の摂理とすら言える。


 問題は媚びへつらうようにへり下る、蜘蛛の虫人。ヴリテンヘルクでは甲鎧族(グラム)甲虫種(リロス)と呼ばれるそれは、人海戦術を得意とする種族であるが──ブランクは、そんな蜘蛛男にすら敵わないと思っている。むしろ、このジャンですら、自分という足手まといがいれば苦戦を強いられるだろうと思った。


 そんな奴らを相手に、ジャン一人で? 無理だ。


 ブランクは呼吸を行い、吐くたびに命のこぼれそうな思いに、吸ってと吐いてのサイクルを交互に加速させていく。


「ああ……魔力が、ねーのか……? 仕方ねー、弟分だぜ……」


 そう言ってジャンが血まみれの手を伸ばすものだから、ブランクはぶんぶん首を振る。


「ハオディ、ゴアド」


 初めて連続で使った。無詠唱だからなのか、慣れないギクシャクとした感覚に、さすがのブランクも、今度ばかりは不完全な発動だと自覚した。


 しかしウィルを担ぐくらいはなんてことない。


「ジャ、ンは……?」


 声が震えて、上手く喋れない。(ども)ったようでかなり聞き取りづらい喋り方だが、ジャンは深く息を吸い、そして──笑った。


「おーう、後で行くわ!」


 日常を切り取ったかのような笑みに、酷薄な背景が重なっている。


「約束、だからねッ……!」


 ブランクは走り出した。果たされることのない契りだと知りつつも、走るしかなかった。


 無力だ。自分は無力だ。どうしようもないほど。弱い。あまりにも弱すぎる。銀髪の少年を担ぎ、家を捨て去り、偉大な英雄を置いて。


 小さな英雄は──ただ泣きながら無様に逃げ去った。

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