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第一話『森の魔物』

 家を出てからしばらくすると、ブランクは、豊かな緑を鮮やかに照らす陽光と、吹き抜ける風の爽やかな森の中で、早くも一つ目の問題に直面していた。


「うーん、幸先悪いなあ」


 ブランクの目の前にいるのは、巷でガルフと呼ばれている、小柄な人狼だ。背格好は、子どもより少し大きいくらいで、しかし筋肉質なため、大人とも渡りあえる力を持っている。牙や爪が鋭いのはもちろんなのだが、何より面倒なのは、徒党を組む習性があることだ。連携で狩りを成功させることで、種の存続を果たし続けてきたこの人狼たちは、最低限二頭での行動をするため、数的不利を招きやすい。そんなガルフは、一人でなくとも極力接触を避けたい相手なのだ。


(生態として……先祖が洞窟で暮らしていたから、目と鼻が、あんまり良くないんだっけ)


 ブランクは物陰で鳴りをひそめながら、本で得た知識を記憶の奥から引っ張り出す。


(他に特徴はあったっけ。鼻は良くないって見たけど、あんまり風上には立ちたくないなあ。とりあえず、まだ見つかってないみたいだし、ここはなんとか迂回して──)


 そう考えながら足を運んだ先。靴の先端が何かに触れて、ブランクはギョッとした。枝だ。それは地面を引っかきながら大袈裟に吹き飛ぶと、近くの石と接触して、いやに乾いた音を響かせたかと思えば、カラカラと間抜けな音を立てて、遠く弾け飛んだ。


「あっ」


 そうして二頭の獣と視線がぶつかると、ブランクは、忘れていたガルフのもう一つの特徴を思い出した。そういえばガルフって──。


(耳が良かったなあ……)


 ブランクの頬から流れた冷ややかな汗が、地面を叩いた瞬間。それを皮切りに二頭のガルフは駆け出して、それと同時に、ブランクも駆け出していた。だがしかし、ここに来てブランクは、もう一つの問題と直面することになる。


(待てよ? 向こうは野生動物で、僕は最近ちょっともやしっ子だったから──)


 ああっ、ダメだ! ブランクは、自分の見通しの甘さを呪った。懸命に走りながら冷静に思考を巡らせた結果、持久力による勝負では勝ちの目がないということに、ブランクは、今更ながら気がついた。そうなると、残されている手立ては一つしかない。


「いいよ、相手になってやるっ!」


 多少の消耗は認められたものの、まだまだ余力はある。ブランクが、腰元に納められてた剣を抜き身に立ち返れば、四足で駆けていた人狼たちは、たちまちその足を止めた。野生動物なら嫌う鉄の匂い。それを放つ鈍色の光が、敵意を以って放たれれば。警戒心が増すのも、また道理と言えた。


(良かった。そのまま同時に来られたらかなり焦ったかも)


 ブランクも、何も勝算がないわけではない。


「守りたまえ、固めたまえ──」


 来ないなら、そのための準備を進めるだけだった。


「パスク・ア・ビット・ハリアスク──」


 口上がほぼ終わりに近づいた時。二頭のガルフたちは、互いに示し合わせたように駆け出した。


「遅いよ!」


 しかし、ブランクの準備は既に整っていた。


(しりぞ)けろ、プロテマッ!」


 ブランクは、そう言って鋭い牙の並ぶガルフの口の中へ向け、恐れも抱かず自分の剣の切っ先を、勢いに任せて突っ込んだ。


「うっ──」


 生ぬるい返り血が、ブランクの顔にかかる。野生的で、刺激臭が凄まじい。それが、ブランクの顔を一等しかめさせた。けれど、口蓋ごと脳髄を貫いたからか、慣性以降の衝撃は一切こない。こうして、一頭のガルフが声の一つも上げられずに絶命した。そして──、


「おいしいかい?」


 ブランクの差し出した左腕に食らいつくもう一頭の人狼は、突き刺さらない牙に、焦りを覚えて鼻息荒くしている。恐らく(つがい)がやられたことにより、死に物狂いとなったのであろう。首を振り回したり、体を上下させたり、工夫を凝らしてなんとか致命傷を与えようとしているのだが、その全てが決定打たりえない。


 そう。不思議なことに、ブランクの皮膚は、ガルフの牙を受け入れながらも、それはゴム板のようにわずかに沈むばかりで、それ以上体に牙の入ることを、ことごとく拒んでいたのだ。


 肉を切らせて骨を断つ。実際には肉も切らせていないわけだが、これが、ブランクの戦い方だった。技術がないぶん、他の能力でカバーする。準備さえ整えてしまえば、あとは楽勝だ。


「さすがに振り回されると痛いかな!」


 ブランクは貫いた剣を滑らせて、横にいたもう一頭のガルフを、そのまま一閃切り裂いた。


 普通、骨ごと断つことなど容易ではない。ましてやそれが片手で、子どもの力であるならなおさらだ。しかしそれは、常識を越える硬度を剣が持てば、話はまた変わってくる。


 先ほどブランクが用いたのは、魔術だ。口上を述べることで、この世界に蔓延る『精霊』と呼ばれる存在と、言霊による契約を交わし合い、彼らの生命維持に欠かせない『魔力』と呼ばれる、二次生命力を彼らに分け与えることで、その奇跡の力を貸し与えてもらうのだ。


 発現する奇跡は言霊や人によって様々で、それらは、人々の生活に欠かせないものばかりだ。


 その中でも、今回ブランクが使った魔術は『プロテマ』と呼ばれるものだ。物質の硬度を上げる魔術で、けれど不思議なことに、本来の性質は残すことを可能とする。つまり、従来の柔軟性はそのままに、その硬さだけをぐんと上げることができるのだ。


 当然、そうでなくては動くこともままならなくなるのであるが、使っているブランク自身も、その理屈を一から十まで理解しているわけではない。その利便性のある魔術を遺してくれた、偉大な先人たちに。ブランクは、ただただ敬服するばかりであった。


(ほんと、魔術って便利だなあ)


 魔術がなければ、自分など初撃で死んでいるはずだ。それを思えば、剣の腕は半人前でも、それを補って一人前に仕上げてくれる魔術という存在は、ありがたい存在であった。


 剣についた血を振り払ったブランクは、剣身を鞘に納めて佩剣(はいけん)すると、ここで初めて自分の体を省みて、服の隙間にまで染み込む、ぬたぬたとした赤黒い血脂に気付いた。このまま動いては、気持ち悪さが勝ることは必至だ。


「払いたまえ、清めたまえ──クリニア」


 クリニアは、体の汚れや匂いを払ってくれる魔術だ。ブランクの体にへばりついていた血や唾液が浮き出して、やがて、少し離れたところで停滞すると、重力の流れに従って、そのままどしゃりと地面へ落下した。


「ひとまずはこんなところかな」


 一息ついてから、辺りを確認する。他に、何かが動く気配はない。本来であればガルフの死骸を処理するのだが、今は先行くウィルと合流することが優先された。


「ごめんね」


 小さな祈りだけを捧げて。ブランクは、その場を後にした。


 ブランクにしてみれば自衛のためであるが、ガルフたちにとっては、冬を越すための大事な食糧集めの時期である。お互いが生きるために足掻いた結果とはいえ、ブランクは、もしも彼らと話ができたなら、と思わざるを得ないのだ。生きるためにした行動の結果であったとしても、気が引けてしまう。それが、ブランク・ヴァインスターという少年なのである。


「こんなところで時間を食っちゃうなんて──」


 ウィルに追いつけるかな。もう麓についている頃かも──。迅る気持ちに足が早くなると、呼吸の幅も短くなる。


「ウィル?」


 そこへ駆けつけるのは──いつも仲間でないのが世の常である。高鳴りした茂みから飛び出したのは、緑色の小鬼だ。


「ウィル──ちょっと見ない間に、顔色が悪くなったね」


 どう見ても人に見えないそれを、ブランクは〝ウィル〟と呼ぶ。そうして腰元の剣を抜き放てば、それがタチの悪い冗談であることは、明白だ。


 木陰からのっそりと現れたそれは、潰れた嚢胞から湧き出す膿のように醜い。ぷっくりとした歯茎から、剥き出しの犬歯をギラギラと輝かせて。下ぶくれした腹を左右に揺らし、細い手足をブラブラとだらしなく振って歩いてる。ポコっとイボのように突き出た角が特徴的なその異形の小鬼は、大の大人の半分ほどしかない体を、これでもかと幅を利かせてふんぞり返っていた。


 しかし、威勢の良さが直接強さに結びつくわけではない。童子とほぼ同じような背丈で細腕ともなれば、(くわ)や鎌などしか持たぬ農民ですら、蹴散らすことの容易い相手である。ただし、人々が何よりも頭を抱えるその小鬼のタチの悪いところは、数の多さにある。


 ヤラヤラと高笑いし、グッグッと引き笑いをする。そう聞こえることから、その小鬼たちは『ヤラグ族』と呼ばれていた。しかし──今回ブランクが出会ったその小鬼は、いわゆる『はぐれ』と呼ばれる個体である。群れの中で最も力を持たず、最も要領が悪く──けれど、生きるために群れを脱ける覚悟を持つ。様々な暴力や横暴に耐え忍んできたそのはぐれ個体は、特徴的な角の皮がめくれ、その下にあったはずの骨も、むごたらしく削り取られている。


「……見逃してあげるから、さっさとお逃げ」


 ブランクがあまりの痛ましさに逃走を促すが、はぐれ個体は、人の言葉など理解し得ない。ましてや、群れを追われて、生態としては、小動物のように飢えやすいのに、食べる物すらまともにありつけない日々を重ねてきたのだ。そのヤラグ族は、喉奥からとめどなく溢れる垂涎を、止める術を知りはしない。手にした棍棒を握る力は一層強まった。赤枯れ色の髪したその少年を、飢えた小鬼は、捕食すべき獲物として見定めた。


(プロテマの有効時間は──あと十秒)


 年寄りのようにしわがれた声。己を鼓舞するように雄叫びを上げて走り出したその小鬼は、子どものような勢い任せに、無骨な棍棒を振りかぶった。


 そして──その棍棒は、ブランクの胴体を的確に捉えた。


 走る痛みに顔が歪み、耐えがたい苦痛に、どっと汗が吹き出す。それから叫び声を上げてのたうち回り、折れた右腕を必死に抑えて、わずかでもと痛みを和らげる。それを見下ろしながら──ブランクは、振り上げた剣をそっと下ろした。それから(つるぎ)の先を鞘の中に納めると、その場に背を向けた。


『ヤラァ……!』


 その背後で──悔しさに歯を鳴らし、小鬼は震えた。




「ジャンには甘いって言われるんだろうな……」


 目端に映ったこちらを睨む、ヤラグ族。その恨めしそうな顔が、脳裏に焼き付いて離れず、それがブランクの後ろ髪を引っ張っていた。


(でも──僕だって、殺しが趣味なわけじゃない。ガルフみたいに、死んでも離さないってわけでもないなら、むやみやたらな殺生は避けるべきだ)


 それは、生態系への悪影響も及ぼす。人の手による殺生は、あくまで自衛と捕食に基づくものであれ。それは、西の賢者の冒険譚による教えである。


 ただそれとはまた別に──どれだけ言い訳がましく取り繕ったって、ブランクには、あのヤラグ族に、隠しようのない、特別な思惑があった。


(生まれが違えば──アレは、僕だったかもしれない……)


 往々にして、個体の特性とは、環境に左右されるものである。


 自分は、たまたま人の良いジャンに拾われただけだ。そして同居人のウィルにいびられることもなく、運良く今の立場を享受している。けれど、一つボタンをかけ違えれば、あるいは彼らの性格がろくでもない人でなしであったなら、果たして、今のように自立を促されるようなほど、過保護に育てられてきただろうか。


 仲間が増えれば、食い扶持も増えるのが世の常だ。その口減らしに仲間はずれにされるのも、自然界における道理である。ともすれば、自分のこれまでの人生は、風の吹かない綱渡りを成功させてきただけに過ぎないということになる。


 ウィルやジャンの実力が、自分とは違いすぎているということを、ブランクは知っている。もし自分たちがヤラグ族であったなら、あのはぐれ個体のように追い出されていたのだろう。そんな綱渡りを、自分はただ人に生まれ、ただ人の良いジャンに拾われただけで成功させている。それを思えば、あのヤラグ族の境遇を到底他人事とは思えず、気がつけば、ブランクはあのはぐれ個体に手心を加えていた。


(なんだろ……やだな。なんだか、胸騒ぎがする──)


 これで良かったのだろうか、という思いが(よぎ)る。けれど、それも過ぎたことだ。今戻ったところで、あのはぐれ個体はもういないだろう。


 それに。あの手傷を受けて、人に逆らおうとは思わないかもしれない。もしかすると、自然界の厳しさに揉まれて、食にありつけずにそのまま果てるかもしれない。いや、その可能性の方がずっと高い。きっとそうだろう。


 そんな言い訳じみた言葉ばかりが頭を覆い、その全ての肯定的な言葉が、ブランクの不安の堰止めに頼りなく蓋をする。そうして初めて安堵を得たブランクは、その不安を振り切るように、あるいは捨て去るように。ただひたすらに、がむしゃらに走った。

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