第三章幕間『団欒』
ブランクは思った。
「なあ、ブランク、もう焼けた?」「まだ」
パチパチと枝の爆ぜる音を聞きながら。ブランクは、焚き火の底の灰を木の棒でほじくり出す。こんもり山になった灰が抜け出すと、風通しの良さに薪木が喜びに燃え盛り、ゴウッと鳴る。勢いよく感謝を告げられたものの、ブランクは知らん顔で串に刺さった魚の焼き面をひっくり返した。
「なーなー、焼けたか?」「まだだってば」
遠赤外線で焼かれた魚は片面こそこんがりしているものの、今火の手に回した側は水分が蒸発しただけの半生で、食べればゴムのような固い皮に不快感を煽られることだけは、必至である。
(いーい、天気だ)
「何か片面だけ食べる方法とかないのか?」
時間の経つことを待つべく、ブランクは天を仰ぐ。本も自宅にあれば、時間を潰すことのなんと難しいことか。午前中は快晴だったにも関わらず、いつの間にか紛れ込んだメルの髪のような雲が一つ、丸まり、静寂に漂っている。まさに雲居の空である。それを追いかけるように鳥が遠く彼方で羽ばたいていて、わずかに空の白む紺碧と、雲の白と、差し色に黒の大鳥のコントラストが非常に美しく。
「もうすでにうまそうだぞ!」
心洗われる光景に、ブランクは感嘆の思いを胸にして、今日一日のことを振り返っていた。
(色々あったなあ。さっき渓流で体を洗うまでは、あんまりにも体が臭すぎて何か食べようなんて思わなかったけど)
「なーなー、まだ焼けないのかあ?」
しんみりと洞窟での死闘を振り返りながら。なめくじの体液の乾いた、その不快な生乾き臭を思い出して、ブランクはひとり思う。
(結局、安心するとお腹って減ってきちゃうよね。釣れるまでは僕もすごく神経質になってたし。いや、さすがにあの仕掛けはいただけないけど)
「もう食べれるんじゃないか!?」
思い起こされるのは、先ほど魚を釣り上げた仕掛けだ。枯れ枝を拾って巻き込んだ無骨なギプスは、ブランクの折れた腕を締め上げ、大物のかかったことを知らせた。悶絶して涙目になりながら友を呼ぶも、ウィルは「ちょっと待って、こっちも来た!」と言って、時間と竿とを引っ張った。その間、ブランクはウィルに対する怒りと不信感とを募らせた。そんなこと知る由もないウィルは、嬉々として魚との駆け引きを楽しんでいた。
(あれは──ひどかったなあ)
「お! ほら見てくれこいつ、泡吹いてるぞ!」
それもこれも、釣れたことで帳消しとなったように感じるが、その後の下拵えをしたのもブランクだ。塩を振って、ぬめりを取り、余計な水分と共に臭みも取り、それを洗い流して、仕上げの塩を振る。そうして少しの手間暇をかけることで、同じ魚を食べるでも、美味しいものへと仕上げていく。
命を食する行為とはまさに神聖な行為であり、毎日行われる特別なことの積み重ねなのだと、ブランクは本にあった西の賢者の教えを振り返り、しみじみとする。
(結局人間って、お腹すいたーって何か食べる時が、一番幸せなのかも)
そんな旅の感傷に浸る暇など、この少年の前では存在しない。
「尻尾大っきい方と頭大っきい方、どっちにする!?」
「もーう、ウィルうるさいっ!」
はしゃぐウィルを窘める声が響き渡り、雲居の空にいただく大鳥は、笑いをこぼしたように。遥か彼方で、一声鳴いた。
「──熱っひー!」
ウィルがはひはひと口内の熱を吐きながら魚に食らいついた。ブランクはそれを視界の端に捉えながら、むぐむぐと口を動かす。
「ほんひへはふはんぷ」
「もう。食べながら喋らないでよ」
ブランクがそう窘めると、ウィルはもぐもぐと口内にあった魚の身を飲み込む。
「そういえばブランク。オレ尻尾大きい方でよかったの?」
「どっちでもいいよもう!」
どんな一大事かと思えばブランクは別に身の大小など気にしないし、そもそも後の祭りである。
「なーなー、ブランク」
「もーう、ウィルうるさい! 食べてる時に喋ってるとジャンになるよ!」
ブランクがそう言うと、ウィルは「げっ」と顔をしかめた。
「それは……やだな。にーちゃん強いけど、ガサツだしなあ」
「なら黙って食べる!」
「ほーい」
そうして二人で魚を食べ終えると、ウィルがおもむろに背筋を伸ばすために立ち上がった。
「はー! 美味かったなー!」
「ウィル、食べ方汚い。骨にいっぱい身が残ってるよ」
ブランクとウィルは、同じ育ちでこうも違うかというほど魚の扱いに差が出ていた。片や貴族の食卓で、そのまま骨格標本にできそうなほど美しい食べ跡であり、片や山賊の芥場かと言わんばかりの骨身の山である。
もはや、食された魚がどちらに感謝するかは明白であり、ブランクが、命に対する敬意や感謝をウィルに教えようとすると──ウィルは自分の食べかすを顧みて「あっ、ほんとだ」と言って。それから、
「あーッ!」「えっ!」
葉皿にあった魚の残骸を蹴り飛ばし、焚き火の中へと突っ込んだ。それを見たブランクの剣幕に、ウィルはギョッとする。
「何すんのさ!」
「ゴミあるよってことじゃないのか!?」
「あーあ……」
もはや手遅れだった。ブランクの腕の痛みを犠牲に釣り上げたその魚は、この数分後には炭と灰の仲間入りを果たすだろう。その時、それは食べ物からゴミになる。
別にそれ自体は構わないが、ブランクにしてみれば、自分の腕を痛めて釣った魚をウィルが食べたいと言ったので、親友だしなと割り切って譲れば、身もそぞろに食べ散らかされて、挙句の果てには足蹴にされて。果ては長居もしない火の元に、燃料として放り込まれる始末である。
これではあまりにあんまりで、ブランクはひどく落胆して、がっくりと肩を落とした。
「ブランク……」
神妙な顔をして、気落ちした肩に手を添えたウィル。ブランクはそこに反省の色を感じた。
「おまえ────そんなにオイラの食べさしが欲しかったのか?!」
「んなわけないでしょッ!!」
「えっ!?」
しかしそれは勘違いだった。ブランクの渾身のツッコミに、ウィルは「違うのか!?」と困惑の色濃く動揺し、もはやこんなことに目くじらを立てているのがバカらしくなってきて。
「ぷっ、ふふ……」
テンパるウィルが心底おかしくて。ブランクは、思わず笑っていた。
「ばかじゃんっ!」
「ほへ? へへっ、褒めるなよ!」
褒めてないし、という様式美を済ませて。
それから灰と土で火の始末をすると、二人は今後のことについて話し合った。
「ダザンってば僕らを置いて帰っちゃったっぽいし、僕らも帰ろっか」
「帰り道わかるのか!?」
尊敬の眼差しを向けられたブランクは、ふふんと得意げに鼻を鳴らしてから「もち!」と元気よく犬歯を白く光らせ、地図を見せつけた。
「ふむふむ!」
「まだ何も言ってないから!!」
滑舌の良い相槌へ、ブランクは鋭いツッコミを入れた。
「地図を北に見たときに、西に見えるのがヴァインスター山脈で、僕らがいる北がブロスト山脈でしょ。南と東には山がないから──僕らが向かうべきは南で、前を見た時に、後ろと右に山脈が見えるように進めば、村に帰れるはずだよ」
ブランクがありつき顔でそう言うと、ウィルは「なるほど!」と、勢いよく立ち上がった。それからブロスト山脈を背にして、右手にヴァインスター山脈を視界に並べて。全ての条件が整い、さあ出発だ! と、ブランクが意気揚々と声をかけようとした時。
ウィルが「大変だ!」と声を荒げて慌てふためいた。
「どうしたのウィル」
どうせ大したことないだろうとブランクがたかを括っていると、ウィルは言った。
「後ろの山が見えない!」
「……後ろは僕が見とくからいいよ」
ブランクは嘘をついた。というよりめんどくさくなった。言葉のあやであったが、改めて説明し直すのは恥ずかしいし、何よりウィルに説明したとてちゃんと理解するかという疑問の方が大きい。
ありがとな! と曇りのない笑顔で先ゆくウィルに、彼の将来性を不安に思ったが、その時は自分や──あるいは契りを交わす女性がなんとかしてくれるだろうと願う。
(僕は──どんな人と結ばれるんだろう)
いつかは自分も家庭を持つのかもしれない。その時、相手の女性はどんな人なのだろうか。かわいいのだろうか。綺麗なのだろうか。食べ方は──ウィルみたいに汚くなければいいなと、そう切に願う。
(もしかわいい子なら──)
かわいい女性といえば、ブランクは人との交流があまりないために、思いつくのはメルになる。大人になっているメルが想像もつかなくて、ブランクの中にいるメルは、小さい身のままとてとてとブランクの後を追ってきて、振り返るとキスまでしてこようとする。
ブランクは、慌てて妄想をやめた。
(なんか──めちゃくちゃ犯罪っぽくない!?)
するとたちまち罪悪感が募り、言い知れぬ自己嫌悪の念が、静かにブランクを苛んだ。
(ダメダメダメ! じゃあ綺麗な人なら──)
すると思い起こされるのは、先ほど自分が救った亜麻色の髪の少女だ。一刻を争う状況にダザンが先に連れ帰ったが、思春期の少年が忘れ去るには、あまりに衝撃的過ぎる膨らみと柔らかさとが、ブランクの背中の記憶にまだ新しい。思い返せば先ほどの焚き火などぬるく感じるほどのぼせあがり、そんな自分の煩悩を振り切るように。ブランクは、ぶんぶん顔を振り回すと、汗と妄想とをしっかり振り払った。
(他に綺麗な人って──)
次に浮かんでくるのはサリナだ。サリナの歳は、ブランクより一回り近く上で、ジャンに近い。するとブランクはサリナの姿を姉さん女房で想像するものの、次第に手玉に取られる自分の様子が連想されて。将来の自分の結婚生活という想像劇は、額面通りの役不足により、とうとうその幕を下ろした。
(僕って結婚向いてないのかも)
脳裏に浮かぶ女性たちとどう過ごしているか。その想像もつかないのだから、自分に結婚は向いていないのではないだろうか。そうやって浮かない顔でとぼとぼ歩いていると、
「ブランク、敵だ!」
「ん? うん」
気分の盛り下がっている中、敵が現れる。全身の毛はわたあめのようにふわふわで、一見すると骨格が分からないが、実際は見た目以上に細い。蹄が特徴的なその猿型の魔物の名前はウルス。人を見つけると荷物を奪い取ろうとする、厄介者だ。
「ウィル、あいつらすばしっこいから足止めできる魔術でお願いね」
「やらいでか!」
両者戦闘準備が整うと、まず先制を取るのは攻撃魔術を使えるウィルだ。
「バーンってしてズドン! 界穴!」
手で銃のような形を取り、撃つモーションをすると、その直線上の地面に、真っ黒い穴が開く。それは飲み込むほどとまではいかないが、ウルスの影の形そのままの落とし穴となり、足を取られたウルスは得体の知れない魔術にひどく困惑していた。
「今だ!」
そんなウルフの前に駆けつけ、ブランクは鞘に入ったままの剣を振り上げた。
「うっ──!」
ブランクは剣を振り下ろすのをためらった。ふわふわの毛に、瑠璃色の瞳は、まるでメルそのものだ。ましてやイタズラ盛りな魔物とは言え、ブランクは、殺意のないウルスにそこまで恨みはない。刹那の迷いに勝機を見出したのはウルスであった。
「あっ!」
ウルスは隙を見せた少年の体を巧みによじ登ると、そのまま影穴を脱出し、あっという間にブランクの背中を蹴り飛ばして逃げて去った。
「何してんだよブランク!」
「だって──」
「シュッとしてカシーン! 飃枷!」
ウィルの周囲から、四つの風の輪が放たれる。しかしそれらは、既に遠く離れたウルスに当たることはない。茂みに当たればガサガサと、そよ風になって消えていった。
「あちゃー、逃しちゃったな!」
「うん、まあ」
特に荷物を奪われたわけでもないので、ブランクは別段気にしていない。
(それにしても──)
ブランクが舌を巻くのはウィルの詠唱だ。一見するとしっちゃかめっちゃかな詠唱をしていて、昔ながらの厳格な魔術師が聞けば、本来の詠唱などとは程遠く。泡を吹いて倒れるのではというほど原型を留めていないが、それでも本来の性能から劣らずその威力を発揮しているのだから、その才能に末恐ろしくなる。
(界穴は足止めの魔術、飃枷は拘束魔術。ウィルがしっかり言うこと聞いてくれて良かった。魔弾だったら致命傷になるし、頭か首を鞘なりに叩きつけて気絶させてようかなと思ってたけど、うまく逃げてくれて良かったな)
甘いとは知りつつも、やはり殺生は最低限に。相手が命を狙わないのならば、なおさらだ。ましてや、メルにも似た訴えかけるような眼差しを向けられては、殴るだけでも夢見が悪い。
「異常なーし! よーし、行くぞぉー!」
ウィルの後を追おうとして、ブランクは気付いた。茂みの中から小さなウルスの子どもが二頭、顔を覗かせていることを。そしてそれは親猿の手が伸びて抱えられると、すぐに茂みの奥へと引っ込んだ。
「……」
ブランクは、ポーチからリコの実と呼ばれる非常食の木の実を取り出すと、近くの平石の上に置いた。乾燥していても香りが高く、ぼうっと暗闇に青い目が光っているから、すぐに取りにくるだろう。
(ふふっ、暗闇から覗いてきてるところもそっくりだ)
思わず笑いそうになってしまうブランクに、ウィルが「おーい!」と声をかける。
「ごめん、今行くよー!」
銀髪の少年を追って、赤枯れ色の髪した少年は走り去る。
三匹の家族は、木の実を分け合って団欒しただろうか。その後、迎えに来ていたダザンと合流したブランクは、無事にウィルと帰宅した。
夕飯は、村で分けてもらった野菜を使ったスープにした。仕込みが終わり、後は主食用のスープに溶かす、パンを暖炉の近くで温めるだけだ。
夜はとっぷりと更けていて、二人はもう腹ペコだった。
「おう、帰ったぞ!」
バンっと扉が嬉々とした音を豪快に立てると、ブランクとウィルはあっと顔を見合わせた。そうして作業をほったらかしにすると、我先にとその人物を迎えに出た。
「おかえり、にーちゃん!」「おかえり、ジャン!」
家長にして頼れる兄貴。その人物を迎え入れて、三人は団欒のひと時を楽しんだのだった。