第三章幕間『あたたかなせなか』
少女は思った。これは、己の欲望を優先し、民を裏切った罰なのだと。数えきれないほどの罪を重ねてきた、自分には似合いの報いだと。ただ──。
「はあ、はあ……」
それでも死ぬわけにはいかなかった。恐ろしく高鳴りする鎖鎌が自分をめがけて放たれても、少女は生存本能に従い、亜麻色の髪を踊らせながら、なんとかすんでのところでそれを回避する。
「くっ……!」
しかしそれが十本もある上に、それぞれがまるで独立した生き物のように動くというのだから、ただ躱すだけでも至難の業である。そうなると、少女にはある程度の攻撃は受けては、致命傷を避けるのが最善であると。捨て身の策を講じることを余儀なくされてしまった。
生い茂る緑の葉擦れを鮮やかに掻き分けて。月の下、森の木々から飛び出したその黒き尾を従えた猫人は「へえ〜」と愛らしい感嘆の声を上げた。
「面白いね、キミ。後ろに目でもついてるの?」
「クロエ……!」
少女は、緑青色の瞳で褐色の少女を睨みつけた。その名を呼ばれた黒髪で青眼の愛らしい少女──クロエは「にゃにゃ?」と不思議そうに首を傾げた。
「ボクたち、どこかで会ったことあったかにゃ?」
「ふざけてる……あなた、やっぱり最初からお父様目当てでわたしに近づいて……!」
怒りに歯を鳴らす亜麻色の髪の少女に、クロエはにゃあ〜と耳を丸めて鳴いた。
「どっかで見たことあるような胸だけど……まあ、どうでもいいことだにゃあ」
愛らしい声は、一転して光る鈍色と同じくらい鋭くなった。
「死んだら覚えなくていいにゃ。簡単なことだにゃ」
導き出された結論の、なんといい加減なことか。エレノアはバカにされたような気がして、悔しさに拳を泣かせた。
「……にゃはっ。お前、面白い体してるにゃ」
クロエは目を丸くして驚いた。それはそうだろう。自分が切り裂いた傷が、みるみるうちに塞がっていくのだから。
「何がおかしいのよ!」
「えー、だって面白いじゃん」
尋ねられれば、ワクワクした顔で答えた。まるで──新しいオモチャでも買ってもらった、子どものように。
「──何回でも切り刻めるんだから」
そして。愉悦に狂った赤き三日月が、褐色の肌を切り裂き現れた。その酷薄な笑みを見て。恐怖に背筋をなぞられて。少女は、ぞくりとたじろぎ退いた。
「あ、いいね、その顔。ゾクゾクしちゃう……!」
「狂ってる……あなた、おかしいわよ!」
緑青色の瞳を釣り上げて少女がそう言うと、澄んだ青月並べる少女が、それを支える首を傾げて口にする。
「当たり前のことだにゃ?」
はて、と、常識を説くように、クロエは言う。その価値観の大きな違いに、少女は目眩を覚えた。
──このクロエは、救いようがない。
そんな考えが頭を過って。そうであれば、己の背負った罪の大きさを、また一つ実感して。
「にゃ?」
ならば、ここで死ぬわけにはいかない。戦いの最中、少女は敵に背を向け駆け出していた。
自分にはやるべきことがある。絶対にこんな奴らをのさばらせてはいけない。そのために、今ここで死ぬわけにはいかない。
生きろ──生きろ、生きろ!
これまで幾度も考えてきた言葉とは、反対の言葉。希望ではない。絶望から生まれた言葉。そしてそんな腐った世界を生み出したのは自分だ。必ず贖ってみせる。死んでたまるものか。決して。
少女の胸の内に宿った使命感は、迫り来る鎖鎌にどれほど傷つけられようとも、怯むことなく足を運ばせた。
(もうすぐ国境だ、そこを抜ければ──)
森を抜ければ、なんとかなる。何の保証もないのに、漠然とした、そんな希望があった。
「え?」
しかし、その希望は途端に絶えちぎれた。目の前に広がるのは絶望の色濃い黒一閃。谷である。足先で踏み抜きそうになった崖の欠片が落ちた先では、白飛沫が音も立てずにこちらを手招いている。見るに激流なのに、ほとんど音がしない。その深さに──落ちれば自分が生きていられるかも分からない状況に、少女の喉が、ヒュッと鳴る。
「あ」
その音に混じって。高鳴りする鎖が少女の左腕に巻き付いた。咄嗟に右腕でそれを外そうとしたものの、その右腕すら絡め取られる始末である。そうして次は右足、左足と。
やがて──少女は、四肢の自由の全てを奪われた。
「つれない鬼ごっこは終わりにゃ?」
「卑怯よ! 魔力さえあれば、わたし、あなたなんかに──」
言いかけて、少女は俯く。それがただの強がりにしか過ぎないことを、少女は知っている。猫人のクロエは「魔力──」と思い巡らせ、それから「ああ」と一人、腑に落ちる。
「これのせいにゃ?」
そう言って、クロエは柿色の鎖鎌を見せつける。
「それ、は──」
少女の瞳孔が動揺に揺れた。己の原罪を突きつけられて。呪い振りまく、父の命を奪った凶刃を見て、震えた。
「にゃー、そんな怯えなくてもいいにゃ」
クロエは──果たして言う。
「いま楽にしてやるにゃ」
この世界からの解放。罪深い自分が生きるには──あまりにも息苦しい世界からの解放。
一瞬、それもいいかもしれないと少女は思った。しかし、
「にゃ!?」
鎖鎌が少女の首を掠めると、その鎖が少女の手に収まった。少女は額の角を大きく肥大化させ、自身を縛りつけていた鎖を、引っ張るように巻き込んだ。
「せめて、この刃だけはッ!!」
無い魔力に代わって命を削って代用する。そんなに長くは保たないが、目的を果たすには十分だ。
ペキペキと軽い音が鳴り、鎖はパチンと弾けた。反動にたわんだ鎖は、宙にあった少女の体をするりと落としていく。絶望の谷底へ。
その姿を見て、クロエは「あ──」とこぼした。
「──エレノア?」
その言葉を聞き、少女は涙した。
信じてたのに──信じてたのに、信じてたのに! 絶対に許さない。許せない!
ポロポロとこぼれる涙がエレノアを置き去りにして、月夜で煌めいている。その訴えではまだ足りなくて、エレノアは無念を叫んだ。
「クロエぇええーッ!!!」
それは声と共に激流に呑まれてしまい、それからエレノアはどれほど体を打ち付けたかがわからない。これまでの罪を清算するかのように、流れにある岩肌が自分を責め立てた。
それでも──自分は死ねない。死ぬわけにはいかない。消せない罪のある限り。
「うっ……」
流れ着いた先。ようやく脅威が去ったというのに、自分の体はもう一つのいうことも聞きやしない。首筋には凍るような冷たさを感じているのに、それ以外の全てが生ぬるく感じる。
もはや生きているのか死んでいるのかも分からない。視界はぼやけて滲み、意識は朦朧とする。そんな中、少女は思った。緑青色を滲ませて。
誰か──わたしをたすけて──。
そう願った。切に願った。涙すらも川の流れに飲まれたその次の瞬間──少女は、思った。
ああ──ここはきっと天国だと。冷え切った暗い洞窟の中、自分は誰かに背負われている。こんなにも都合の良いことがあるものかと。
(固くて、たくましいお背中……これは、おとうさま……?)
亡き父を思えば霞む世界は徐々に白みを帯びていき、少女が意識を手放すのは時間の問題であった。
(ああ──あたたかい)
こわばる体と世界との境界がひどく曖昧になった時。少女の顔はわずかに綻んで、意識は静かにまどろみ溶け込んでいった。