第十三話『白百合は、傍目に愛でるもの』
尾根に吹き抜ける風の寒さにも負けず。熱く名乗りを上げた亜麻色の髪の少女エレノアは、麗しい唇を尖らせて、その闘志を露わにした。
「魔力……溜まったのか?」
「おかげさまで」
額に目立つ赤い角は、燃え盛る炎のように膨れ上がっていた。それはエレノアの花の顔をいびつに押しのけて、しかし持って生まれた麗しさが、その美しさを危うく成立させている。命の芽吹きを思わせた緑青色の瞳は、神秘的な印象とは打って変わり。闇より深いぬばたま色に染まると、少女の揺らいでいた決意を矯めて。ついには希望の光を見出して、輝いた。
「クロエ。わたしは、あなたのことを、友達だと思っていた。けれど……あなたはわたしを裏切って──お父様まで手にかけた。許せなかった。自分の浅はかさを、何度呪ってきたか分からないわ」
でも──と続けてエレノアは、力任せに鎖を強く引き込んだ。そうして拮抗した互いの力に耐えかねた鎖は、バチンと短い断末魔を上げて、ジャラジャラと力なく息絶えた。
「何より許せないのは──あなたに手を汚させて、私腹を肥やしている人たちだわ。お父様が目指した領の統制なら、きっとそんなことはなかった!」
そう言いながら──エレノアは、眼前に差し迫った鎖鎌を、拳で地面に叩きつけた。鎖鎌は割れて砕け散り、その破片すらひしゃげていた。
ジャンは驚いた。そして自分を恥じた。正義を黒瞳に宿すその少女は、ただ父を亡くしたことを嘆いているのではない。自分の痛みや苦しみはもちろんであるが、それを背負うことは通過点であり。彼女は、偉大な為政者としての父を失ったこと、それを悼んでいるのだ。
(スケールがデケーな。コイツは──もう立派なレディだぜ)
自分が救ったことは誤りではない。改めて、ジャンは彼女の大きさを知った。そしてそれは、黒髪の少女も同様に捉えたらしい。
「あはは! ……だったら何さ。ボクは、ボクの常識に従って生きてる。人を殺すことだけが求められてきた」
今までで一番痛々しい声でそう吐露するクロエは、諦観したように空を仰いだ。
「他には何もいらないって。お前には必要ないって。人の顔を覚えるくらいなら人の急所を覚えろ。心臓までの距離を常に計算しろ。お前に友など必要ない。常に暗器を研ぎ澄ませろ。道具に感情は必要ないって」
はあ、とこぼれるため息は、少し震えていた。
「ボクという刃はね、それだけを求められて研がれてきたんだ。たとえキミのおとーさまとやらが生きてたって、闇に住んでる人間が淘汰されるだけさ。そしてもっと人の、誰の目も届かないところで、また新しいボクたちが生まれる」
その繰り返し、と淡々と括ったクロエは、愁色を帯びた顔で「あはっ」と笑いをこぼした。
「どうにかできるならさ────誰か、たすけてよ……」
今にも消え入りそうな、つまずいた子どもが泣き出しそうになっている、そのような声が、かすかに大気を震わせた。頭上にある猫耳など、雷に怯える子どものように座り込んでいた。
(なんだ、コイツ──)
ジャンが違和感を覚えた時、黒髪の少女はハッと我に帰った。
「にゃーんてにゃ!」
その顔は、ジャンにも、エレノアにも、誰の目にも明らかな、空元気だった。
「どのみちもう手遅れにゃ。この手は血に染まってる。人の心なんて……もう必要ない!」
そう言って──クロエは、鎖を捨てた。指先に結ばれていた鎖たちはチャリっと悲しげに、クロエへもたれかかる。しかし。クロエはそれを踏みにじった。そのクロエの足はといえば、ザワザワと黒い毛が伸び盛り、太腿がメキメキと膨れ上がる。二つの尾が脊椎の先から伸び盛り、それはもう、人ではなく、人の服を着た黒猫型の魔獣であった。
「チッ、獣変身かよ! 嬢ちゃん!」「エレノア!」
咄嗟に呼べば、エレノアは不貞腐れたようにそう返す。ジャンは「エレノア!」と時間を惜しむように即座に訂正する。
「自分の身は自分で守れ!」
「わかったわ!」
(あとは、オレの予感が正しければ──)
ジャンがそう思うよりも早く、クロエは跳んだ。
(くそっ! さすがに半獣化のオレ様じゃ、ハオディ使ったって追いつけねぇ!)
クロエはすっと闇夜に溶け込んだ。否。実際には、そのような速さで縦横無尽に駆け回る。行きずりに添えられた鋭利な爪が深く肉を裂き、抉っていく。常人ならば、まともに立っていられないほどの痛みを伴うそれを。ジャンは気合いで堪え抜いて、エレノアは、持ち前の再生力でカバーした。
しかし速さで圧倒されては、その反撃も全て肩透かしである。捉えた影に振りかぶれども、振り抜くときには既にそれが過ぎ去っているのだ。ジャンでそうなのだから、エレノアなど雲を掴むようである。
そんな中、エレノアが何かに気づいた。
「この歌──」
闇夜に、小さな歌声が聞こえる。それは涙色をした青月を宿す、悲しき魔獣の──震える口先から聞こえていた。確信はないが、ジャンはそう感じた。
(歌姫の歌、ね……)
歌姫フィーナ・テトストリア。ジャンが思い出した名だ。ルヴェルディア法王庁の聖歌隊出身で、彼女は歌一つで戦争を終わらせるために、人々の心を癒す旅に出たという。
そんな彼女の歌を聞いたことのあったジャンにとって、この魔獣の歌はたどたどしい上に、誰かに感動を届けるほど、上手ではなかった。だがそれは祈るように。あるいは縋るように。人でいることを求むる想いだけは、ジャンにはしっかりと伝わった。
「もっともらしいこと言って──根っこはやっぱり人間だよ、お前は!」
歌の途切れた代わりに、黙れ、とでも言いたげな唸り声が響いて。黒い塊が、ジャンへと向かって襲いかかる。それを見たエレノアが、うろたえ顔で、急ぎ駆け寄った。
「ちょっと──あなた、大丈夫!?」
「おーう。なんとか、な」
バキッと嫌な音を立てながら、それはジャンの鎖骨に牙を立てる。ジャンは旋棍を手放し、クロエの両手を鷲掴みにしていた。ミシミシと骨が泣き、鋭く光る爪が食い込んでいくのを肌で感じながら、ジャンはエレノアに訴える。
「早く、引き剥がしてくれ。それで、終わる」
「……ええ」
決意を新たに胸に矯めたエレノアは、鬼人の力をもって、人型の猫魔獣を羽交締めにする。飢えた獣のように、あるいは駄々っ子のように暴れ狂うその黒猫に、ジャンは「さあて」と一息ついて、それからその指先に全神経を集中すると、目を眇めて、針穴に糸でも通すような思いで、少女の額へと差し向けた。
「ぶち壊してやるぜ──テメーの〝常識〟を」
繊維のように細い血色の雷がチリッと溢れると、大気を舐めて、それから吠える黒猫の額に繋がり、たしかに突き刺さった。
「破壊の左腕!!」
唸り声をあげ、牙を剥き、爪を立て、まるで獣のように暴れ狂っていたその巨大な猫人は、鎮静剤でも打たれたように「ぁ……」と短い声をあげて、うなだれた。それと同時に、体中に生え揃っていた艶やかな毛は全て抜け去り、はちきれんばかりに伸びていた服以外、少女は全てが元の姿に戻っていた。
「ふう……落ち着いたか。いや、落ち着けねーな?」
その様子を凝視するジャンに、エレノアは覆いかぶさって隠すと、軽蔑の眼差しを送った。
「……えっち!」
はだけそうになっていた服を必死に寄せて。ジャンの下劣な瞳から、黒髪の少女の尊厳を、エレノアは守って見せた。ひとまずはと横に寝かせた少女の体に、エレノアは自分の上着をかける。そして不安そうにジャンに歩み寄ると「死んだの?」と小さく尋ねた。
「いや、生きてる。言ったろ? 戦場で女を死なせる男はクソだって」
そう言いながら背筋をぐっと伸ばした青年は、やれやれと一つため息をつく。それを横目に。エレノアは旧友の前へ立つと、そのまま黒髪の少女を見下ろし、角と目を戻した。
「クロエとわたしは、友達だったわ。短い間だけど確かに交わした約束は、彼女とわたしの絆を固く結んでくれた」
でも──と続く横顔は、雲に隠れた朧月より儚げで、愁然としていた。
「きっと、運命だったのね。彼女はわたしの父を手にかけたし、それを許すことなんて……わたしには、到底できなかった。友達だと思っていたのなんて、きっとわたしだけだったのだわ。滑稽ね」
まなじりに溜まったそれを、エレノアはそっと指の背に乗せた。それを見ていたジャンは、居心地悪そうに後ろ頭を掻きむしると──薄目を開いて覚醒した黒髪の少女へ、その視線を戻す。
「ぅ、あっ……ボク、は──」
そんなうめき声を聞いて、エレノアは慌てて臨戦体制を取る。そんな彼女を諌めるように、ジャンはエレノアの肩に手を置いて、その首をゆるやかに振った。
「あれ、エレノア……? ボクは──あれ、ボクは、何をしなきゃ、いけなかったんだっけ。ボクは、何をして──」
そうして記憶をたぐり寄せる少女は「あっ」と一声漏らしてから、まなじりから涙を一つ、滑らせた。
「あっ、あぁ……ごめん、ごめんなさい。ごめんなさい、エレノア。ボク、ボクは。ごめん、ごめんよぅ。あ、う……約束、守れなくて、ごめん。ごめんなさい……」
一つ謝るたびに一つまた一つと大粒の涙がこぼれた。それは留まることを知らず、まるで別人でも見ているかのような状況に。エレノアは視線でジャンへ向かって疑問を投げかける。するとジャンは、肩をすくめて応えた。
「言ったはずだぜ。オレはこの娘の〝常識〟をぶち〝壊して〟やったのさ。人を殺すことが当たり前なんざ、そんな血なまぐせぇこと、オンナがする必要はねー」
血だらけに傷だらけになりながら、カッコつけに旋棍を回してホルダーに差したジャンは、そうやって辺りを確認する。
「そんなことが、可能なの?」
エレノアが尋ねると、ジャンは威風堂々と言ってのける。
「オレ様だからな。まあ──なんだ」
そうしてまた周囲を見回ると、他に動くものが雪だけなので、ジャンはまた向き直る。
「魔法は、そんな突拍子もないことを可能にする。お前の力も、いつかきっと何かの役に立つはずさ」
ジャンの言葉にエレノアは俯く。眼下で煌めく白雪に勇気をもらって。亜麻色の髪の少女は、子どものように泣きじゃくるクロエのそばに寄ると、腰を下ろして、静かに抱き寄せた。
「もう、大丈夫よ。ごめんなさい。あなたも、苦しかったわよね」
「ぁ……ぅ……エレ、ノア……」
そうして泣き疲れた黒髪の少女に、エレノアは複雑な眼差しでその頭を撫でた。その様子を傍目に見ていたジャンは「いいな」と下品な声で小さくこぼした。
「クロエのこと……どうすればいいのかしら」
「使用人を雇いたがってなかったか? ちょうどいいじゃねーか」
「そんなことできるわけ──!」
昂ぶる気持ちに声の大きくなったエレノアを、ジャンは人差し指一つで静まらせる。
「オレ様が連れて帰ったら……どうなる?」
「……サイテー」
途端に慍色一色で見下げるエレノアに、ジャンは「ちなみに──」と続ける。
「さっきは嘘をついた」
「……ふえ?」
ジャンの言葉に、エレノアは間抜けな声を上げる。ジャンは気にせず続けた。
「まあ当たらずとも遠からずなんだが──隷属っつー、どうしようもねークズの掃き溜めが使うような呪いがあってだな。オレ様は、その力を破壊したのさ」
ぽかんと話半分に聞いているエレノアに、ジャンは続ける。
「なんつーか、その黒髪の嬢ちゃんは、殺しを強制されてたのさ。呪いによってな」
「なっ……!」
核心を詳らかにすれば、エレノアの表情は怒り一辺倒になった。憤懣やるかたない思いを、唇で潰した。
「隷属は人の常識をねじ曲げる力を持ってる。恐らく、ずっと小さい頃から、何の疑問すら抱かなくなるまで使われてたに違いねー」
「なんてことを……!」
我が事のように歯を軋ませるエレノアに、ジャンは続ける。
「そのお嬢ちゃんにとって、殺しはもう生きがいみたいになっちまってたはずさ。オレ様は、それを奪った。悪いことをしたとは思わねー。ただ、今回の件、オレ様に恩ができたと思うなら、その嬢ちゃんの面倒を見てやってくれ」
「……ずるいわね」
「どっかの賢者様に似ちまったか?」
ジャンの言葉に、エレノアは首を横に振った。
「分かったわ。クロエのことは──わたしが、侍女としてしっかり育てるわよ」
「これで気軽に遺跡に行くこともねーな?」
「……そうね。そう」
ジャンの言葉に、エレノアは肩を落とした。
「わたし、遺跡のルーンが欲しかったの。〝王〟の力を持つ、なんでも願いを叶えてくれるルーンが。おかしいわよね。持って生まれたものなんて、変えようがないのに」
クロエの髪をさらりと撫でるエレノアに、ジャンは明け透けに言う。
「人生なんて得てしてそんなもんさ。無い物ねだりにみんな必死こいて生きてる」
「そういう、ものなのかもしれないわね」
儚げに、どこか諦観した表情が雪景色によく映えた。ジャンはそれを見て、自分も偉そうなこと言えないが、と思っていると、突然背中に焼けるような視線を感じ、周囲に最大限の警戒心を飛ばした。
(……気のせい、か?)
久々に死合いをしたから昂っているのだろうか。ジャンは、吹雪く視界の中を睨み続けたが、そこから様子を窺ってきたのは、手のひらサイズの雪兎だけだった。すると途端に肩の力は抜け、唖然としているエレノアと視線が合うと、ジャンもどこか気恥ずかしさに押され、途端に居た堪れなくなった。




