第十一話『過去に蓋をして』
「で、なんでこうなった?」
ジャンは首を捻った。二人はヴァインスター山脈の中腹に来ていた。先にある峠を眺めていた少女は、ご挨拶にも「呆れた」とため息をつく。
「あなた、何も聞いてなかったのね。国境まで送り届けてくれるという約束だったでしょう。賢者様の知り合いにしては、どうも愚鈍というか……」
「あー、うるせーうるせー。ジジイにしても、お前にしても、西の奴らって、どうしてこうもかわいげがないのかね」
ジャンのその言葉に反応した少女は、クスッと笑って、それから数回鼻を鳴らす。
「あら。わたし、牙獣族ではないから鼻は効かないのだけれど、さすがに魂を見れば分かるわよ」
そう言われて、ジャンはピクリと反応した。
「あなた──亜人でしょ?」
ともすれば全てを見透かさんとする澄み切った瞳。そこに割れた海溝のように暗い瞳孔が、ジャンの思考と視線を、鮮烈に手引きする。
(コイツ……!)
これ以上この目を見れば後戻りができない。直感的にそう判断したジャンは、素早く視線を外した。他人の体のように重たくなった肉体に引きずられてうずくまると、全ての自由が効かないこの状況で、唯一意識に従う視線と言葉とに、怒りを乗せてぶっつける。
「テメェ……ただの鬼人族じゃねーな?」
自身の中程の背の少女に、一瞥だけで膝を折られ、ジャンは余裕なく睨めつけた。それを見下ろす少女は、くすくすと妖艶に笑ってみせる。
「あら、失礼しちゃうわね。わたしはか弱い小鬼よ。ちょっと幻想族の血を引いてるだけの、ね」
背の低い見た目の幼さと、振る舞いのあだあだしさとがチグハグで、しかしそこに絶妙な親和性があり、理性が落ちるのは、時間の問題だ。そこでジャンは、村で一番の技量良しである、サリナの姿を思い浮かべることにした。
(ふう……クールになってきたぜ。しかしデカいな。いや違う)
視線を胸元から逸らし、ジャンは首を振る。
(コイツ……幻想族ってことは、先天的に誘惑持ちかよ)
頭に血の通わないような、あるいは、血に振り回されてるような、なんとも言えない心地悪さが頭に残り、ジャンは気分が悪くなる。ジャンは歪んだ自我を、中心に据えるように首を振った。
「ふふふ、慌てちゃってかわいいわね。ねえ、これはちょっとした挨拶みたいなものだから、本気にしないでね?」
あだっぽく魔性の色気を振り撒く少女に、ジャンは「ふう……」と落ち着き払ってみせた。
「もう効かねーぞ。オレ様には、心に決めてるオンナがいるからな」
「んなっ……!?」
分かりやすく動揺を見せる少女に、ジャンは失った威厳を取り戻すかのように余裕を見せつけた。
「鬼人族なんて、腕っ節だけの奴隷一族みてぇなもんだったろ。王家の血に取り成すなんて、ずいぶんテメーの親も成り上がったもんだな」
脳裏に過るのはダザンの声色。言葉を間借りしているようで癪であったが、ジャンがそうやって焚きつけると、少女は突然急所を突かれたように顔を崩した。それは怒りの色一色だ。
「あなた……お父様のことを侮辱しているの?」
「はははっ、昔の価値観を持ち出しだだけさ。そうムキになるなよ」
ジロっと今度は真っ正面から迎え撃つ。気を強く持てば、その美しい緑青色はただそこに宝石のあるように煌めいているだけだった。
「テメー、ジジイとの言いつけ、破るつもりだったろ」
「なっ……!」
心の内を言い当てられ、驚きに揺れる眼差し。今度は少女がジャンから視線を逸らした。
「お前が遺跡の力目当てに来たことくらい、この辺彷徨いてるの見てりゃ分かるぜ。ジジイの家出た時も、キョロキョロと地形を確認して、地理のことばっか気にしてたもんな」
全てが白日の元に晒されると、取り繕う余裕すら捨てて。少女は、一転して強気に出た。
「だったら何? わたしを憲兵にでも突き出すわけ?」
企みを丸裸にされた少女は、腕を組んで開き直り、まるで追い詰められた小動物のように威嚇する。そんな少女に対して、ジャンは「まさか」と手を広げておどけてみせた。
「オレ様がジジイに頼まれたのは、テメーを国境の向こうまで送り届けることだけだ。誰がそんなしちめんどくせーことするかよ。憲兵に引き渡したら、事情聴取とかダリーだろうが。テメーのことはしっかりと送り届けてやる。遺跡には連れてけねーけどな」
「え?」
ぽかんと毒気の抜かれた顔をする少女に、ジャンは「なんだ?」と問いかける。
「いや、だって……下品なあなたなら、黙っててやる代わりにと体の要求くらいするかと」
「あのなあ……」
一言余計だ、と思いつつも、今朝方色目を使ったのは確かなことであり、ジャンは未だに警戒を解かない少女に、後頭部をガシガシと掻いて、それから指を差す。
「オレ様が好きなのは、あくまで大人のレディだ。テメーみたいな、まだションベンくせーガキは、あと五年も寝かせりゃ立派になるかなって思ったくらいだぜ」
「なんっ──!」
どストレートに失礼な発言に、少女は顔を赤らめた。当然怒りで、である。
「あなたねぇ、失礼にも程があるわよ! 一体どういう教養を受けてきたら、そんな下品な言葉が使えるワケ!?」
「おーおー、それを知ってるお嬢サマも大層素敵な教養なコトで」
ジャンが調子を良くして焚きつけると、少女は「なんですってぇ……!?」と逆上した。
「わたしのは──魔法の力によるものだから! わたしはっ、下品じゃないッ!!」
手に拳を使っての必死な弁明に、ジャンは「へー、なるほどねー」と感心した。
「魔法の力か。どうりで訛りがないわけだ」
ジャンがほくそ笑むと、少女はしまったという顔をした。それから言い繕うように、日の傾きだした森の中で言葉を探したが、瞬間諦めたようにうずくまり、顔を伏せた。
「そうよ。わたしのルーンは言織者。どんな国の、どんな言葉でも、わたしは訳することができる。でも──それだけ。本当は、もっと強い力が欲しかった。もしそうなら、どれだけ良かったか」
何かを思い出しているのか、先ほどの強気な態度から打って変わって、少女の声は弱気に滲んだ。
「どうせ──あなたには分からないわよ。笑いたければ笑えばいいわ」
突然しんみりと物憂げにうなだれた少女の姿に、今度はジャンがしまったと思った。貴族らしく自信家で跳ねっ返りな性格をしているものだから、打てば応えると思っていなかったジャンにしてみれば、こうして不安定な、子どもらしい一面を見せられるのは大きな誤算だ。
先日落ち込ませたブランクの姿も重なって。ジャンは自分のひねくれた性格を見つめ直し、その落ち度と自分の子どもっぽさを認め、屈託のない思いをため息に乗せて、言った。
「……別に笑わねーよ」
「え?」
ぶっきらぼうに言い放てば、入相の空より湿っぽい顔が露わになる。その泣きっ面を予想していたはずのジャンであったが、いざ自分が泣かしたのだと思えば、どうにも気まずさが勝ってしまい、気づけば無意識に視線を背けていた。
「……まあ、その、なんだ。正直──羨ましいくらいさ」
本心だった。ジャンにとってみれば、その身に秘めた『破壊』の力は利便性が高い一方で、大きなリスクが常に付きまとう。そしてそれを人に対して使うのならば、なおさらだ。
(扱いきれない力なんて──ただの災害だ)
瞳を閉じれば、網膜に焼き付いた己の罪が暴かれる。捨て去りたいはずの記憶は瞼の裏というスクリーンにしっかり映し出され、優しかった母を『壊した』愚かな自分の手の震えているのが、昨日のことのように呼び起こされる。
(そうだ。オレはもう、二度と違えねえ)
言葉の真意を探ろうと不思議そうにジャンの顔を窺う少女に、ジャンは「なんでもねー」と一言添えて、立ち上がった。
「ま、どのみち無駄なこった。神紋は一人一つと決まってる」
「そう、なの……?」
エレノアが面を食らって尋ねると、ジャンは「何も知らねーのな」と呆れ果てる。
「さ、行くぞ。休憩は終わりだ。これ以上お互いの詮索はなしっつーことで」
ジジイとの約束だしな、と続けるジャンの後ろ姿を、少女はじっと見つめていた。
それから二人は会話もなく山中を歩いた。道中ヤラグ族の群れやガルフが顔を覗かせたが、実力差が分からぬほど野生の魔物たちも愚かではない。少女の匂いに誘われて集まった腹をすかせた魔物たちは、ごちそうの存在に目を歪ませたものの、すぐに先ゆくジャンに視線で釘を刺され、散り散りになって逃げ去った。
「へえ。あなた、顔が利くのね。お山の大将みたい」
言葉の意味を知ってか知らずか。いや、扇状的な表情を見るに、おそらく前者なのだろう。ジャンが端目にじっと見つめると、少女は顔を赤らめる。ジャンは、それに気づかないフリして先を急いだ。
(このぐらいの年頃のやつって、好きなやつに意地悪したがるよなぁ)
心化粧におべっかをへつらわれるより好感は持てるが、少女の熱っぽい視線に気づかないほど、ジャンも鈍感ではない。
(本命のオンナには好かれねーっつーのに。こーいうとこあるよな、男の人生ってーのは)
やれやれと人生のままならなさに首をすくめるジャンは、次の瞬間には降って沸いたように邪な思考を宿す。
(いっそのこと、こいつをオレ様好みにしちまうとか!?)
そんな思考も過るが、次の瞬間にはそれも改められる。
(いやいや。今でこそ魔力がなくてか弱い女だが、鬼人族の力を取り戻したら尻に敷かれるのは間違いねー。しかも貴族の女っつーことは、もし仮に、間違ってでも結婚なんてしたら、固っ苦しいことこの上ねーな?)
結論に至れば冷静さが上回った。ジャンがもう一度少女を見ると、亜麻色の髪をいじくる年頃のうら若き乙女が、途端に恐ろしい怪物に見えてきた。
(おー、こわっ。すまんな、お嬢サマ。初恋は実らねーもんなんだわ)
内心片手間に謝りながら、ジャンは手を差し伸べる。
「ほらお嬢ちゃん、足元気ぃつけろ」
「……ありがと」
不安定な足場が続き、ジャンの手を借りた少女は、分かりやすく頬を赤らめて、思春期を見せつける。その若さや眩しさに目を当てられそうになりながらも、ジャンは野暮ったく頭を掻きむしる。
「どうにも調子が狂っちまうね。早く帰りたいもんだ」
「あら、何か言った?」
「別に。なんでもねーさ」
折り返すべき尾根は眼前近く、数刻もしないうちに峠を越えそうだった。ゴツゴツとした岩肌に白雪がおしろいのように貼り付くのが目立ち、肌寒さよりも刺すような痛みが際立つ。息を吐けばそれがすぐに霧の仲間入りをして、山頂だけはまるで冬のようだった。