エピローグ『瑠璃色の記憶』
それは呆気なく、吸い込まれるように突き刺さった。繊維を断つ感覚だけが、妙に手の内に残った。刃先が刺さると同時に。なめくじの膨れた額は一際大きく明滅し、まるで涙でも流すように目の先から発光バクテリアを噴き出すと、しおれて力が抜けていく。
周りにいたガルフを模した液体たちも、器でも割れたように形を崩して溶けていき、発光バクテリアは、寄る辺を失うと、ただ静かに翡翠色の海を広げていった。
(終わった……やっと)
息も絶え絶えに膝をつけば、左腕に稲妻の通るよう痛みが走り、ブランクは悶絶する。
(そういえば──折れてたんだった)
ブランクは、ズキズキと大げさに脈を打って血の巡りを知らせる折れた左手に、ようやく戦いの終わりを実感した。
(僕っていっつも怪我してるな……しかも左手ばっか)
ひんやりとした洞窟内に広がる静けさ。空から差し込んだ光が発光バクテリアを打ち払い、窟内に温かさを届ける。
(たぶんコウモリたちが襲ってこなかったのは、この女王個体を恐れてたから、かな……)
今更気づいたが、もう過ぎたことであった。しかしそれでも済まないこともある。視線の先には発動と同時に破れた巻物があった。
(スクロール……結局使っちゃったなあ)
それも完全な無駄打ちで。ブランクの後悔は先に立たず。今はただ、己の未熟さを恥じるばかりであった。
(でも──)
その心の内に秘めた思いには、温かいものがあった。あの空の温かさを詰め込んだような銀のペンダントが、それを確かに感じさせた。ブランクは胸の内に収めたペンダントを握りしめると、命よりも大事なものを守ったと噛みしめ、そう信じた。
「──どうやって戻ろう」
剣を回収し終えたブランクに、現実的な問題が立ちはだかる。転がり込んできた道は斜めの坂で、折れた腕で上がることは到底難しく、天井に空いた穴は地上まで一直線ではあるが、そもそも登ることが現実的でない。縄梯子でもあればまだ可能性も見えてくるが、ブランクもこの腕では昇ることが困難である。
探せば他に道があるかも知れないが、すぐには大人しく救助を待つしかできない歯痒さに、ブランクが手持ち無沙汰でいると、
「ブランク!」
「あっ……ウィル」
紫紺の瞳を濡らした少年が、銀の髪揺らしてどこからともなく駆け寄ってきた。
「その──大丈夫だったか?」
「あ……うん」
顔を合わせているのに、視線が合えば一秒も満たずに逸らされる。そんな何とも言えない気まずさが立ち込めて、用意しておいたはずの謝罪の言葉が、喉の奥へと引っ込んだ。
「上……戻ろっか」
「……そうだな」
あるいは沈黙の方が長かったのでは、と思えるほど短い言葉を交わして。
それから、ウィルの降りてきた道を使って元の場所へと戻ると、ブランクは間が持たずに、とうとうその口を開いた。
「そういえば、さ。ダザンが、帰るって。ウィルを呼んでこいって言ってた」
「そ、そうなんだ……」
再び訪れる沈黙に、二人の少年は静かに俯いた。まるでお互いに腫れ物をきわきわで触れ合っているような微妙な距離感に堪えかねて。ブランクがあのさ! と顔を上げた時だった。
「あのさ!」
ほぼ同時の切り口が、二人の気まずさに拍車をかけると、あっと言わせて俯かせる。
「ウィル、先に言って……」
「いや、ブランク、先……」
お見合いのようにぎこちなく探り合う二人だったが、やがて観念したかのようにブランクは眉を引き締めた。そうして懐から煤けた銀のペンダントを取り出すと、痛む手に鞭打ってウィルの手を取り上げる。開けた掌の真ん中に、それを置いた。
「これ──」
「もう、無くしちゃダメだよ」
ブランクが切なさを胸に溜めて微笑むと、ウィルは放心したように俯いた。
「ごめんね、ウィル」
「え?」
一歩踏み出してしまえば気が楽だった。ブランクの胸は、しまっていた言葉を呼び戻した。
「僕、ウィルのこと、何にも分かってなかった。ウィルの気持ちを確かめもしないで、勝手に決めつけて。それに、ウィルがなめくじを苦手だってことも、分かったなんて言っておきながら、バカにするようなこと言って。結局、分かった気になってただけなんだ。ウィルは家族なのに。僕って、ほんと嫌なやつだなって。そう思ったんだ」
語り出してしまえばつらつらと。頭の中に思い綴っていた言葉のそれが、次々と溢れ出てくる。言いたいことを言い切って、それから「だからごめん」と。どんな顔を合わせていいかもわからずに、ブランクは俯いた。すると。
「なんで──」
「え?」
ウィルの足元を、小さな雫が叩いた。
その出どころを辿ると、震えた声で、鼻をすすって、紫紺の瞳を滲ませて。銀髪の少年が、下唇を噛みながら、泣いていた。
「なんでブランクが謝るんだよぉ!」
「ええ!? えっと──ウィル? なんで、泣いてるの?」
もしかして、怪我してた? とその体を慮ると、ウィルはその気遣いに首を横へ振った。
「だって、だってさ──」
ウィルはぐいっと袖で目を拭う。そうして次の瞬間には、もう次の涙で濡れている。
「ブランクは何にも悪くない。悪いのは、オイラだ。ブランクは優しいから、それを自分のせいだと思ってるだけだ!」
「いや、ウィル、僕は──」
謝りたい気持ちに偽りはない。それを伝えようと俯くウィルの肩に手を置くと、ウィルはそれを振り解き、今度は逆に、しっかりブランクの肩を、情熱的に掴みあげた。
「ブランク、ごめん。ごめんな。ほんとは、オイラ、こわいんだ! なめくじのこともそうだけど、それ以上にオイラは、もしほんとの親に会えたら、捨てたのに戻ってきたんだって、いらないから捨てたのにって、そう言われるかもって、ただそれを考えただけで、こわくてこわくてたまらないんだ……!」
「ウィル……」
煌めく紫紺は大粒の涙を滝のように流し、落としていく。そうして鋭く走る痛みに続いて、ブランクは、ウィルに抱きしめられたのだと、ようやく気がついた。
「でも──でもな。今日なによりも、一番こわかったのは、ブランクが死んじゃうかもって、ブランクが、オイラのことを嫌っちゃうんじゃないかなって、それだけがこわくてこわくて、たまらなかったよぉ……!」
「ウィル────」
あまりに情熱的な抱擁を受けて。けれど自分との温度差があるあまりに少し気恥ずかしさが勝って。ブランクは、すぐに見つかる引き剥がしの言い訳を口にした。
「ごめん、今ちょっと痛い」
ブランクが真摯にそう言うと、ウィルは鼻ちょうちんを膨らませながら「あ、ごめんな」と申し訳なさそうに、すぐに離れた。
「僕がウィルのこと嫌いになるわけないじゃん。君は、僕の憧れなんだから。それに──」
言いかけて、少しの恥じらいに襲われる。しかし上目遣いに言葉を待たれると、ブランクは、とうとう観念したように言った。
「君が誰に何と思われようとも、僕らは家族なんだ。たとえちょっとくらいお互いを嫌ったって、また好きになれるし、いつだって受け入れられる。家族ってそういうものであるべきだと思うから。少なくとも──僕はそう信じてるよ」
「ブランク……」
少し顔を上気させながら、ブランクは言う。外で日差しが強くなると、差し込んだ光は柱を立てて、冷たい洞窟が、一層暖かくなった気がした。その光を背に、ウィルは目元を再び拭った。
「オマエ──恥ずかしいやつだな!」
「なっ──」
自分でも思っていた手前、ブランクは居た堪れなさに背中を押されて。気づけば友を置き去りにして、ずんずん歩き出していた。
「うるさいなっ、もう知らないから!」
涙に濡れたウィルの顔は、今や喜色一辺倒だ。ニカっと笑って「もう一回言ってくれ!」とせがむウィル。それをブランクは、ぷいと顔を背けて無視をする。
「頼む、もう一回だけ!」
「知らないったら知らない!」
温かな日差しの差し込む天窓からは、瑠璃色の空が二人を見届けていた。