エピソード1 灰の中から
※この一遍は単独の短編として公開していたものの再録です
喪失感だけが彼を吹き抜けていった。
生ける屍のようになって一ヶ月、周囲の者は食事を食べるよう促す以上の干渉はしてこなかった。
ただ、手頃な紐や刃物のようなものは目につくところから慎重に取りのけられていたし、軟禁されている建物も平屋で屋根に登るためのはしごもあしがかりもない。たぶんそれとなく監視もされているのであろう。
あの楽しかった学びの日は終わった、彼と語らい、導いてくれる者とはもう二度と会うことはできない。
おのれのうかつさをもう何度嘆いた事だろう。あのとき口をすべらせていなければ、尋問官がやってくることもなく「処置」されることもなかった。
しかしそろそろそれにも少し飽きてきたし、軟禁生活も退屈になってきた。彼は若かったし、さまざまな欲求の声はまだまだ強く、どこか田舎で書記でもして酒と色に溺れてくらすのもよいかも知れないと思い始めていた。
時間をかければ、失われたものを取り戻す手だても見つかるかも知れぬ。その時は下らぬ世俗を再び離れることもできよう。夢とも妄念とつかぬものもわいてきた。
「よいかな」
あったこともない老人が訪ねてきた。国王の図書館で司書の長を勤めているという人だった。
大変な地位である。国の記録のほとんどを掌握しているのだから。
「そのようなかたが、僕ごときに何の御用でしょう? 」
「まずはこれを返そう」
司書長が机上においたものを見て、彼は時の止まる思いをした。震える指でそれを開くが何も起きない。書き込みで黒ずんだ最初の二、三ページが見えるだけである。
「よい本にとりつかれておったな」
「いまとなってはただの本です」
「これはまだ、そうでなくなる可能性はある。おぬしが熱心に読み込んでいたころにはそうでなかったようにな」
指でとんとんと叩かれるのは彼自身の書き込み。
「だが、おぬしはもうだめだ。一度そうなって処置されたものは二度とそうならぬ」
「そんなことを言いにこられたのですか」
聞かされていたことだった。信じたくないことだった。
「そのような者がどうなるか、わしはよく知っておる。尋問官になる者もおるし、怪しげなもので身を滅ぼすものもおる。どれももう書より出てきたものたちとの語り合いをあきらめておる」
「しかし、もうできぬのでしょう? 」
「そうかな? 」
老人は開かれた本のページを指差した。
「これはなんじゃ?」
「文字です」
「書と対話するものが書を記述できるであろうか」
「わかりません」
「できんのだよ。そして書との対話はそこに書かれたこと、読み取れることより多くのものはないのだ」
「何がおっしゃりたいのでしょう? 」
彼の顔に洞察を読んだに違いない。老司書はにやりとした。
「読み込め。そこにおぬしの師はおる。考えろ、そこにおぬしの真の喜びがある」
「わかりません」
「わからぬふりをして自堕落にすごすのも、おぬしの自由じゃ」
老人は腰をあげた。怒ったのかと思ったがそうでもないようであった。
「少なくとも、わしは喜びに満ちていまの地位におる。おぬしが来るのは歓迎するぞ」
なんのためにきたのか、ここで彼は完全に理解した。
これからどうするか、彼は今や自分の悩みが形だけのものになりつつあるのを実感した。
返してもらった本がぱらぱらとめくれ、こんな言葉が目にはいった。
「灰のなかからこそ、再生はある」