相談事
2025年のゴールデンウィークが明けた5月6日。
連休の余韻を残しながら、学校が再開されると、吹奏楽部の活動もいよいよ本格的に始まった。
放課後、部室に集まった部員たちの前で、温也と郷子が並んで立つ。郷子は少し緊張した面持ちで、スマホを手に顧問の先生へ向き直った。
「先生、あの……ゴールデンウィーク中に、ちょっとご相談したいことがありまして」
「どうしたん?」
「実は、福岡市内の児童保護施設の方から、私のYouTubeのチャンネルにコメントが届いたんです。
その……心に悩みを抱えた子どもたちが多くて、笑うことができない子もいるって。そういう子たちを音楽で元気づけてほしい、っていうご依頼で……」
先生が少し眉を上げた。
「福岡から? どんな内容のお願いなん?」
「ええと……子どもたちに人気のある曲を、吹奏楽で演奏して聞かせてあげてほしいって。できれば直接、施設に来て演奏してもらえないか、ということでした」
先生は少し首を傾げる。
「……でも、なんでうちらに、そんな話が来たんかね?」
すると隣で聞いていた温也が、苦笑しながら口を挟んだ。
「たぶんやけど、この前レノファの試合、みんなで観に行ったときな。あのときうちら、レノファが失点したときとか負けたときに、“うにゃ〜あじゃぱー!”とか言うて大騒ぎしとったやろ? その動画が、なんかバズってもうてな。めっちゃオモロいって評判になったらしいわ」
郷子も思い出して、少しだけ笑う。
「その方も、それを見てくださって……それでコメントに、施設で暮らしてる子どもたちの現状を書いてくださったんです。
『笑顔を忘れてしまった子どもたちに、音楽で笑顔を届けてほしい』って」
そう言って、郷子はスマホを取り出し、画面を先生に見せた。
「ご連絡くださったのは、“NPO法人みらいのたね”のボランティアスタッフで、小倉優馬さんという方です。これが連絡先になります」
先生はしばらく無言でスマホの画面を見つめたあと、落ち着いた声で言った。
「ふぅん……なるほどねぇ。でも、まずはその小倉さんという人と、ちゃんと話をしてみんことには、なんとも言えんね」
郷子は、姿勢を正し、深く頭を下げた。
「はい。もしよろしければ、一度だけでも、お話を聞いていただけませんでしょうか。どうか、よろしくお願いいたします」
上山先生は、郷子と温也に準備を任せたあと、部室のパソコンから福岡のNPO法人「みらいのたね」の事務所とビデオ通話をつないだ。画面の向こうには、小倉優馬と名乗る若い男性スタッフの姿が映っていた。
「――あの、わたくし、山口第一中学校で吹奏楽部の顧問をしております上山と申します。このたびは、うちの部長のYouTubeチャンネルにご連絡いただき、ありがとうございました。
今日は、具体的なお話をお伺いできればと思いまして、通話のお時間をいただきました」
すると、小倉は少し申し訳なさそうな顔をしながら、深く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ突然のご連絡、失礼いたしました。
私は福岡市内にあるNPO法人『みらいのたね』で、休日限定ではありますが、ボランティアスタッフとして活動しております。
活動の内容としましては、心に深い傷を負った子どもたちの“笑顔”を、少しでも取り戻すことを目的とした支援を行っております」
画面越しでも、その声には真剣さと切実さがにじんでいた。
「ある日、偶然、そちらの生徒さんがアップされていた動画を拝見したんです。レノファの試合で、皆さんが大きな声で応援している様子がとても楽しそうで、なんというか――とても“素直な笑い”があって。
それを施設の子どもたちに見せたところ……ほんの少しだけなんですが、笑顔を見せてくれたんです」
上山先生は、画面の向こうの小倉の目を静かに見つめながら、耳を傾けていた。
「この施設にいる子どもたちは、親からの虐待や暴言、ネグレクト、あるいは親が薬物に手を出したり……中には目の前で親が亡くなった子もいます、殺されてしまった子もいます。
彼らはもう、“笑う”ということ自体を、ほとんど忘れてしまっていて。感情を表に出すことが怖くなってしまっているんです。
だから、どうしても一度、皆さんの音楽の力で――無理のない範囲で構いませんので、子どもたちの心を少しでも動かしてもらえないかと思い、ご連絡差し上げた次第です」
上山先生は、深く息をついてから、静かに口を開いた。
「……そうでしたか。小倉さんの真剣なお気持ち、よく伝わりました。
まずは、生徒たちに今回のことをきちんと説明して、意見を聞いてみたいと思います。そのうえで、あらためてこちらからご連絡いたします」
小倉は、深々と頭を下げた。
「本当に、お忙しいところお時間いただきまして、ありがとうございます。
どんな形でも構いません。お返事、心よりお待ちしております」
そのころ、郷子と温也は、部室内を回りながら、一人ひとりに声をかけていった。
「みんな、どう思う? やってみる価値、あると思わん?」
郷子が、部員たちに問いかける。
最初に口を開いたのは、トロンボーンのたかやんだった。
「俺は、ええと思いますよ。
ちっちゃい子らの笑顔を取り戻すっちゅうか……心を固う閉ざしとる子を感動させられんかったら、コンクールで金賞とか全国行きとか、そんな夢、語っても意味ない気がします」
それに続いて、同じくトロンボーンのながちゃんが口を開いた。
「うちも賛成。
私ら、これまで音楽からたくさんの元気もろうたやん? 今度はその“お返し”ができたら、嬉しいなぁって思うんよ」
一方で、不安を口にしたのは、サックスパートの恋だった。
「でもさ、コンクールまであと3か月くらいしかないですよね? その準備、大丈夫なんですか?」
郷子がうなずきながら答える。
「うん。練習の工夫次第じゃ思うよ。
それにね、人の前で演奏を披露するって、うちらにとってもすごく勉強になるし、素敵なことじゃと思うんよ」
温也も、穏やかに続ける。
「俺もそう思うわ。
今の俺らにできることなんか、まだまだ小さいかもしれんけどな。
でもこれまで音楽を通してもろた感動とか、“音を楽しむ”っていう気持ちを、誰かにも伝えられるんやったら、それってめっちゃええことちゃう?」
部室内に、少しずつ前向きな空気が流れ始めた。
その空気を静かに見つめていた夏海が、ふと口を開いた。
「いいじゃん。やろうよ。
私ら、今こうして毎日、いろんな人からいっぱい幸せもろうちょるけど――
今度は自分たちが、誰かを幸せにする番って思わん?」
そのひと言が、部員たちの心にすっと染み込んだ。
やがて「やろう」「うちらにできることをしよう」といった声が、ぽつぽつと上がり始め、部内の空気は自然と一つにまとまりつつあった。
そこへ、ビデオ通話を終えた上山先生が部室に戻ってきた。
「みんな、今、小倉さんとお話をさせてもらいました。
小倉さんの方では――“ぜひ子どもたちに、音を楽しむということを教えてあげてほしい”と、心からお願いされました。
なので、改めて皆さんの意見を、きちんと聞かせてもらいたいと思います」
すると、たかやんが真っ直ぐに手を挙げて答えた。
「先生、僕ら、ぜひやってみたいです。
これから練習もがんばります。どうか、やらせてください」
ながちゃんも、強い眼差しで続けた。
「私も。うちらと同じくらいの年の子が、そんなに苦しい思いをしちょるなんて……知ったのに、知らん顔なんて、できません」
そして、視線が自然と郷子と温也に集まった。
部長と副部長の意見を、皆が待っていた。
郷子は一呼吸おいて、静かに、けれど力強くうなずいた。
部員たちの視線が、部長の郷子と副部長の温也に向けられる。
郷子は一度、静かに目を閉じ、胸の奥にある気持ちを確かめるようにゆっくりと言葉を選んだ。
「……うちはね、最初この話を聞いたとき、正直ちょっと迷うたんよ。
コンクールも近づいちょるし、やらにゃいけんこともようけあるし。
でも……さっき、みんなの声を聞いて思うた。
音楽で誰かを笑顔にできるんなら、それは私たちにとっても、きっとすごく大切な経験になるじゃろうって。
――そねぇな演奏ができたら、きっとコンクールの舞台でも、心に届く音を響かせられるって、思うたんよ」
郷子は、まっすぐ上山先生の目を見て、はっきりと口にした。
「先生、やらせてください。私たち、子どもたちに音楽を届けたいです。
そして、笑顔を取り戻すお手伝いを、させてください」
その言葉に、部員たちが一斉にうなずいた。
続いて、温也が、部員たちを見渡しながら言葉を紡ぐ。
「正直な、俺ら、まだまだ半人前やし……音楽の力言うても、何ができるかなんて、わからんとこもある。
せやけど、音楽ってそもそも“音を楽しむ”って書くやん。
その楽しさを、どんなかたちでもええから伝えられるんやったら、俺はそれ、めっちゃ意味あると思う。
それに、俺と郷子のことを動画で見て、笑ってくれた子がおるって――それ、すごいことやで。
その笑顔、もっと増やしたいって、ほんまに思うわ」
温也は、静かに手を握りしめて言った。
「やろう。俺らにできること、全部出してさ、音で、想いを届けよ」
その瞬間、部室内に静かな熱が灯った。
部員たちは互いに顔を見合わせ、自然と頷き合った。
ひとつの決断が、確かにそこにあった。
そして演奏する曲目と、日時の選定に入った。曲は4曲。子供たちに人気があるアニメを中心に、明るく前向きな感じのする曲を選んだ。
まずは今コンクールに向けて練習中のルパン三世ジャズバージョン・そして、魔女の宅急便より、荒井由実さんの優しさに包まれたなら、朝ドラでも知られるようになった、アンパンマンのマーチ・最後は皆で明るく踊れるように、躍るぽんぽこりん。ボーカルは上山先生に決まった。
「えぇ、私がボーカル?このところ私、あまり人前で歌ったことないんじゃけど…」
「でも、僕らは楽器の演奏がありますからねぇ」
「まぁ、じゃあ、私は発声練習しとかないと。で、日時はいつにする?」
「そいうですねぇ。一か月半くらいあれば、何とか形になるんじゃないでしょうか」
「じゃあ、今日が5月6日じゃから、6月21日の土曜日なんかいいかなってい想うけど、皆なんか用事ある?」
「大丈夫でーす」
「じゃあ、先方に連絡してみるね」
■上山先生からの正式返信
5月7日、上山先生は職員室の片隅で、改めてパソコンに向かい、小倉優馬に返信を打ち込んだ。
件名:演奏会についてのご連絡
小倉優馬様
このたびは、貴重なご連絡と温かいお言葉をありがとうございました。
当校吹奏楽部として、**6月21日(土)**に福岡へお伺いし、子どもたちへ演奏を届ける準備を進めております。
当日は、子どもたちに喜んでいただけるような選曲とともに、部員一同心をこめて演奏いたします。
また、僭越ながら私自身もボーカルとして一部参加させていただきます。
当日に向けての詳細等、今後もご相談させていただくかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします。
山口第一中学校 吹奏楽部顧問 上山菜穂子
送信後、先生はホッと息をついた。
「……ふぅ。あとは、膝が持てば完璧なんだけどね……」
その独り言に、横を通りかかった校長が首をかしげたが、何も言わず去っていった。
■上田郷子と温也からのメッセージ
数日後。郷子と温也も、ふたりでスマホを並べながら、それぞれの想いを綴った。
上田郷子(部長)から:
小倉様
このたびは、私のYouTube動画をご覧くださって、本当にありがとうございました。
私自身、音楽があったから、何度も元気をもらってきました。
今度は、私たちの音で、誰かを笑顔にできる機会をいただけること、本当にうれしく思っています。
一生懸命、心をこめて準備します。よろしくお願いいたします。
山口第一中学校 吹奏楽部 部長 上田郷子
湯田温也(副部長)から:
小倉優馬様
こんにちは山口第一中学吹奏楽部副部長の、湯田温也です。
今回、こうして福岡まで演奏に行かせてもらえること、めちゃくちゃ光栄です。
正直、俺らまだまだやけど、音を楽しむって気持ちは負けへんつもりです。
子どもたちに、少しでも笑ってもらえたら最高です。
よろしくお願いします!
山口第一中 吹奏楽部 副部長 湯田温也
5月中旬の部室は、演奏会に向けての熱気で満ちていた。
「よっしゃ、みんな!今日から本格的に練習始めるけぇ、気合い入れていくよ!」
郷子の声に部員たちも背筋を伸ばし、気合を入れる。
「せやな!俺らの音で、子どもたちに笑顔を届けられる思うたら、胸が熱なるわ!」
湯田も力強く声を張る。
管楽器の明るく澄んだ響きが部室いっぱいに広がり、リズムも刻まれる。
「ルパンのテーマはもっと軽快に、ノリ良く行こうや!」
温也の指示に、みんながリズムを合わせて息を合わせていく。
「わたしらが楽しんで演奏せんと、聴いちょる人の心には届かんもんね」
郷子も笑顔でうなずいた。
一方、上山先生は部室の片隅で発声練習に励んでいる。
「……だめじゃ、まだまだやなあ」
先生は苦笑いしながら、何度も声を出す。
それを見ていた温也が声をかける。
「先生、大丈夫ですわ!その気持ちが一番大事やと思います!」
部員たちも応援の声を送る。
音楽と熱意が一体となって、部室の空気が日に日に熱くなっていった。
部室の片隅で、上山先生が一生懸命ボーカルと振り付けの練習をしていた。
「よし、今日は『おどるポンポコリン』の振り付けに挑戦してみましょうかねぇ♪」
軽やかなステップを踏みながら歌い始めるものの、どうもリズムがずれてしまう。
「踊るぽんぽこりん……激むず。あら、膝がちょっと心配かも……」
ちょっとおどけて膝をさすりながらつぶやく先生に、部員たちは思わず笑いがこぼれる。
「先生、膝、大丈夫ですか?無理しないでくださいよ〜」
「そうですよ〜、無理すると先生まで壊れちゃいますよ(笑)」
「でも先生のその一生懸命な姿、私たちも元気もらってます!」
「そうそう!先生の“ぽんぽこりん魂”は最高です!」
先生は照れくさそうに笑いながらも、
「ありがとうねぇ、みんな。これからも頑張るから応援してね♪」
部員たちのあたたかい声援に包まれて、今日も先生の練習は続くのだった。
6月21日の朝。
夏の陽射しが少しずつ強くなりはじめたころ、山口第一中学校の駐車場では、白い学校のトラックが静かにエンジン音を鳴らしていた。
運転席には上山先生。ハンドルを握る手には、ほんの少しだけ緊張がにじむ。
「ふぅ……さて、しっかり行かにゃいけんねぇ。今日は大切な日じゃけぇ」
先生は軽く深呼吸してシートベルトを締めた。
助手席には部長の郷子が、譜面ファイルと水筒を抱えてちょこんと座っている。
「先生、無理せんでええですけぇね。高速長いし、途中で休憩も入れちゃりましょうね」
「ありがとね、郷子。……でも、楽器積んでるけぇ、なおさら慎重に行かんとねぇ。無事に届けんにゃ、みんなの演奏が始まらんけぇ」
楽器ケースでぎっしりの後部をミラー越しに確認しながら、先生は静かにアクセルを踏み込んだ。
二人は朝焼けの中、ゆっくりと福岡へ向けて走り出した。
――一方その頃、他の部員たちは新山口駅に集合し、新幹線で一路博多へ。
「せやけど、修学旅行か言うくらいテンション上がってもうてるな、これ」
温也がリュックを抱えながらニヤリと笑うと、
「ほら、温也先輩、浮かれすぎたら荷物忘れるけぇね」
ながちゃんが笑ってたしなめる。
その後、地下鉄に乗り換え、慣れない都市の駅に戸惑いながらも全員無事に福岡市内の施設近くで集合。
少しして、山口ナンバーのトラックが施設の前に到着した。
助手席の窓を開けて郷子が手を振る。
「みんな、着いたよー!」
「うぉー!先生たち、安全運転ありがとうございました!」
上山先生も窓から顔を出して、笑みを浮かべた。
「みんな、お待たせねぇ。楽器も無事に運べたけぇ、ひと安心じゃわぁ」
そして施設の玄関からは、小倉優馬さんと奥さんの美鈴さんが、満面の笑みで出迎えてくれる。
「よう来んしゃったねぇ〜!うちん子たちも、ずっと楽しみにしとったとよ!」
優馬さんの博多弁が心地よく響く。
「遠いとこ、ほんとにありがとう。今日はどうぞ、よろしくね」
美鈴さんもにこやかに頭を下げる。
そして――よちよちと歩いて出てきたのは、まだ2歳の双子の姉妹・光子と優子。
「ねーねーっ!きたーっ!」
光子がぴょんと跳ねながら叫ぶと、
「がっき、あると!?がっき!!」
優子がトラックを指さして瞳をきらきらさせる。
「元気いっぱいじゃねぇ。ふたりとも、よう喋るねぇ〜」
上山先生が目を細めて笑う。
「うちのツッコミ大魔王ジュニアたちですばい!」
優馬さんが肩をすくめて笑うと、
「だれがツッコミやねん!」
美鈴さんが間髪入れずに突っ込んで、全員大笑い。
こうして、音楽と笑顔を届ける演奏の日が、にぎやかに幕を開けたのだった。




