「バスタオル王子と姉妹ごっこ」
「ねぇ、あっくん。うちの両親ね、次の土日、一泊二日で別府に行くっちゃ」
「へぇ、そうなんや」
「それでね……うち、ひとりで家におるの、なんかちょっとこわくて……泊めてもらえん?」
「俺はええけど……郷子のほうから、うちの親に相談してみたら?」
「うん。今日、帰りに寄ってみよっかな。お母さん、今日おって?」
「今日はたぶん、おかん家おると思うで」
「じゃあ、帰りにちょこっと寄らせてもらうね」
「わかった」
(あ〜、言うてしもうた……! もう、ドキドキが止まらん……
断られたらどうしよう思うたけど、あっくん、普通に受けとめてくれてよかったぁ……
……けど、ほんとに泊まるんやね……うち、あっくんの家に……)
そして二人で温也の家へ向かった。
「ただいまぁ」
「おかえり〜。あれ? 郷子さんも一緒なん?」
「お邪魔します。あのね……ちょっと相談があって……。
うちの両親が、次の土日に別府に行くんですけど…。それで……うちひとりで家におるのが、ちょっと心細くて……
もしよかったら、泊めてもらえたら助かるんですが……」
「そうなん? うちはええよ〜。気ぃ遣わんと、ゆっくりしてってな」
「ありがとうございます。ほんなら、土曜と日曜、お世話になります〜」
(ああぁ……よかった。お母さん、やさしい……。
なんか、家の中の空気もあったかくて、ほっとする……
ほんまに泊まってええんやね……)
そこへ泉が顔を出した。
「えっ!? 郷子さん泊まりに来るん!? やった〜! 土曜の夜、郷子さんとウチで女子会しよ〜っ!」
「いいよ〜。あっくんはちょっと我慢しときぃな〜」
「ええの、いつもお兄ちゃんばっかり郷子さん独り占めしとるんやから〜」
「えぇ〜、俺は混ぜてもらわれへんの?」
「女子会なんやから、ダメ〜!」
そして、土曜日――。
吹奏楽部の活動が終わって、制服からお気に入りの私服に着替えて、リュックを背負って温也の家へ。
「お邪魔しま〜す……」
(ふぅ……やっぱ緊張する……
こんなふうに、男子の家に泊まりに行くのって、うち初めてじゃし……
しかもあっくんの家。あっくんのお母さんも泉ちゃんも、ほんとやさしくしてくれるけど――
なんか、うち、変に思われんかちょっと心配じゃし、
でもそれ以上に……なんか、ちょっぴりうれしくて……
あ〜もう、胸がバクバクしとる……!)
リュックにはパジャマと着替え、それから泉ちゃんと一緒に読むつもりの雑誌や、
ちょこっとだけ持ってきたお菓子も忍ばせてある。
(まるで修学旅行みたい。……でも、これはきっと、うちにとって、もっと特別な一日になる気がする)
玄関のドアの向こうに広がる、少しだけ背伸びした週末。
その扉を、郷子はそっと開けた――。そして、波乱の?二日間が始まったのである。
夕方、家の中は湯気とカレーの香りに包まれていた。
温也は風呂を先に済ませて、今まさに湯船から上がろうとしていた。
一方リビングでは、泉が郷子の手を引いてはしゃいでいた。
「ねえ郷子さん、一緒にお風呂入ろっちゃ! うちのシャンプー、桜の匂いするやつなんよ!」
「ほんとに? じゃあ、お邪魔して入らしてもろうかね」
二人は連れ立って脱衣所へ向かっていく。ちょうどそのとき──
「ふう、あったまった……って、うわっ!」
脱衣所の扉が開いた瞬間、湯気の中からバスタオル一枚の温也が現れた。
「きゃあっ!? ちょ、ちょっと!?」
「わっ、見てないけぇっ、見てないけぇねっ!!」
郷子が顔を真っ赤にしながら後ずさりし、泉は大爆笑していた。
「お兄ちゃん、バスタオル、ずれちょる〜っ! ひゃはははっ!」
「見んなや泉!! 郷子も、すまん、すまんて!!」
温也はあわててタオルを押さえながら、風のように自室へ駆けていった。扉がバタンと閉まる音が家中に響き渡る。
「……う、うち、ちゃんと目、そらしちょったけぇ」
郷子が必死に言い訳する横で、泉はまだ笑いが止まらない。
「だめじゃ、お腹痛い……郷子さん、あれ絶対“まっぱ”じゃった!」
「まっぱじゃない! バスタオルしっかり巻いちょった!」
「お兄ちゃんのくせに、ドジなんよほんま〜」
そのあとふたりは、脱衣所でこっそり「お兄ちゃん、あんな顔するんじゃねぇ」とか、「意外と細マッチョじゃった」とか、ひそひそ話しながら、笑い合ってお風呂に入っていった。
そして夜──
「お兄ちゃん、さっきのこと、うち明日まで覚えちょるけぇね」
泉がにやにやしながら言うと、温也は顔を真っ赤にして
「忘れろぉ!!!」と、枕を投げつけた。
夜。風呂事件の興奮も冷めやらぬまま、リビングには笑い声が響いていた。
湯上がりの三人は、ジュース片手にテーブルを囲みがら、なんとも騒がしい夜を過ごしていた。
「なあ郷子、さっきのほんまに見てないんよな……?」
温也がふと心配そうに聞くと、郷子は真顔で言った。
「え? 見たけど?」
「見たんかい!!?」
「冗談冗談っ! 見とらん、見とらんて〜。見たのは泉ちゃんじゃろ」
「うち、あれ一生忘れられん気がする……いや、今日の日記のタイトル“兄、全裸疾走事件”にするけぇ」
「おまえ、日記に書くなや!!」
「いやでもあれは感動した。人間、あんな速さで廊下走れるんじゃって!」
郷子が急に体育会系のノリで拍手を始める。
「フォームもえかったし、バスタオルの躍動感!あれ、もう芸術やった!」
「やめぇぇえっ!」
「よーし、明日から“バスタオル王子”って呼ぼう!」
「なんでヒーローっぽく仕上げよるん!? やめてくれほんま……!」
温也はタオルケットをかぶって丸くなった。
「兄がふて寝で冬眠しちょる〜」
泉が小町を抱きながら指差して爆笑。猫の小町もつられて「にゃー」と鳴く。
「ほら、小町も『見たにゃ』って言いよる!」
「うちんちの猫まで裏切るんかーっ!」
「てかお兄ちゃん、風呂上がりに“自信ありげな顔”しちょったのがいけんかったんよ。自業自得じゃ」
「えっ、俺、そんな顔しちょった……?」
郷子と泉、顔を見合わせて大爆笑。
「してたしてた! あれ絶対、“見られてもええ”って思てた顔!」
「おい、やめい!!俺はそんなナルシストじゃないっ!」
「そやけど、あのタオルの角度……計算されとったかも」
「誰がタオルアーティストじゃぁぁ!!」
テーブルの上では、泉の描いた「バスタオル王子」の落書きが堂々と披露されていた。しかも、ちゃんとマント付きで。
「なにこれ!? タオルが風になびいちょるやん!」
「“必殺!バスタオルスピン!”とか技名つけとこ」
「もうそれ、特撮の敵役じゃ……」
温也は、枕を抱えて立ち上がると、
「もうええ! 俺は自室にこもる!! おまえらとは違う世界の人間やから!」
「さようなら、バスタオル王子〜!」
「人類のためにありがとう〜!」
郷子と泉はぴしっと敬礼ポーズ。温也はがっくりとうなだれて、トボトボと部屋に戻っていった。
そのあとの泉の部屋。
布団を並べて横になると、泉がぽつりとつぶやいた。
「郷子さん、今日、ほんまに楽しかった。……笑いすぎて、顔痛い」
「うちも。あー、なんか笑って疲れたけぇ、よぉ寝れそうじゃ」
「夢にお兄ちゃん、出てきそうなんよ……。しかもバスタオルで飛んできそう……」
「それ、完全に呪いやね」
二人はくくくっと笑いながら、あたたかい布団にくるまり、やがて静かに眠りについた。
リビングで丸くなっていた小町も、のそのそと立ち上がって、二人の布団のあいだに入り込む。
夜は、いつのまにかしんと静まり返っていた。
***
布団に入った郷子と泉。電気は消えたはずなのに、部屋の中からはいつまでも笑い声が止まらない。
「なあ、郷子さん……お兄ちゃん、今日で何回死んだ?」
「たぶん……心が5回ぐらい昇天しちょるね」
「レベルで言うたら、“恥死Lv.5”やね!」
「MPゼロなっとるわ……もう明後日、登校したら“伝説のバスタオル事件”で校内回るね」
「ちょっと待って! 伝説になるん!?」
温也が隣の部屋から壁越しに叫んだ。
「聞いちょったん!? 寝とるか思たのに!」
「寝れるかぁぁぁあああ!」
「お兄ちゃん、もう名札に“バス王”って書いとき」
「バス王って! 公営交通の偉い人みたいやんけ!」
「“お兄ちゃん in 風呂”で写真集作ろうかね〜。“浴室の貴公子”ってタイトルで」
「やめてくれー! 風呂場の貴族って誰が買うんじゃ!」
「泉ちゃん、表紙どうする? あの走り去る瞬間の一枚がいいよね、タオルひらめくやつ!」
「うち、背表紙に“タオルが語る青春”って書く!」
「どこの感動系!? 風呂上がりで感動すなや!!」
郷子がふと、真面目な声で言った。
「でも、温也くん、今日ほんまは優しくしてくれたんよね。泊めてくれて、ありがと」
「……あ、う、うん。まぁ、別にええよ」
「バスタオルはアレやけど、男子の家泊まるの、ちょっとドキドキしたけぇ」
「え、えぇ……そうなん……?」
「……って思ったけど、バスタオルで全部ぶっ飛んだ!」
「全部ぶっ飛ばすなーー!! 青春の空気、返して!!」
泉は横で「キャハハッ!」と笑い転げていたが、ふと布団をかぶってぼそっと言った。
「うち、明日、朝ごはんに“温タオル定食”作るけぇね……」
「どんな料理!? 何が出てくるん!? 食卓にバスタオル乗せんなや!!」
「あとデザートは“湯上がりプリン”」
「なんかぬるそうやなぁそれぇぇ!」
「てか、今日のタイトル決めた。
“お兄ちゃん、バスタオルとともに去りぬ。”」
「ハリウッド映画やないか!! 誰がタオル持って夕陽に消えるんや!!」
「エンドロールには“Special Thanks:風呂場”って出すけぇ」
「誰がロケ地協力したぁぁあ!!」
三人は笑いすぎて、涙を流して、そしてようやく、ひとしきり落ち着いて。
「……あー、お腹痛い」
「うち、明日、声枯れちょるかもしれん」
「なんで寝る前に漫才やってんやろな……」
しん、と静かになった夜。最後に泉がつぶやいた。
「郷子さん……お兄ちゃん、ほんまアホやなぁ……」
「ほんまやねぇ……でも、なんか安心するね」
そして、三人はようやくまぶたを閉じた。
タオル事件の夜は、こうして幕を閉じたのだった──。
***
──夜11時すぎ。
玄関の扉が、カチャリと静かに開いた。
遅い帰宅だったが、家の中はまだほんのりと明かりが灯っていた。
「ただいま……って、あら?」
瑞穂が帰ってきて、目を覚ました郷子が、瑞穂を出迎えにリビングに行く
「あ、お母さん……おかえりなさい。遅くまで、お仕事お疲れさまです」
「郷子ちゃん、ありがとうね。うちの泉がお世話になって……って、あなたが泉の面倒見てくれてる構図なのよね、今日って」
「いえいえ! むしろ、うちが癒されちょるっちゅうか……」
「ふふっ。もうお風呂は?」
「温也くん、さっき……えっと、えーっと……ものすごい勢いで上がってました」
「……なんかあったの?」
「ちょっと“湯の事件”が……いや、また明日、お話しますね」
瑞穂はくすっと笑って、郷子の肩に軽く手を置いた。
「ほんとにありがとうね。泊まってくれて安心したよ。
泉もきっと、郷子さんみたいなお姉ちゃんがいてくれたら、嬉しいと思うわ」
「……そう言ってもらえて、うちも嬉しいです」
瑞穂は優しい目でふたりを見つめ、ポットにお湯を足しながら言った。
「じゃあ、私はちょっとだけ晩ごはんつまんで、すぐ寝るね。
明日の朝はゆっくりしてていいからね?」
「ううん、うち、泉ちゃんと朝ごはん作ろう思うてます!」
「ええ子やねぇ……ほんとに、もう……。うちの息子よりしっかりしとる!」
「それ、声を大にして言うてもらって大丈夫です」
「明日、お兄ちゃん、パンの耳だけの刑よね?」
「バスタオルの刑とダブルで」
「やめたげてーーっ!」
二人の笑い声が、静かな夜の家にふんわりと響いた。
***
翌朝。
まだ少し眠たげな窓辺から、やわらかな朝の光が射し込む台所。
湯気が立ちのぼるポットの音に混じって、卵を割る音と、小さな笑い声が響いていた。
「泉ちゃん、ベーコン焦がさんようにね」
「うん! 任せて、郷子さん! うちは“焼きの職人”じゃけぇ!」
「いや、昨日“湯の職人”やったやろ。温也くん湯気まみれで出てきたし」
「そ、そうやった……バスタオル王子事件……ぷぷっ」
「笑いすぎてひっくり返さんのよ! ひっくり返すのはベーコンのほう!」
泉は真顔になって、慌ててベーコンに菜箸を向ける。
その横で、郷子は卵を器用に片手で割りながら、スクランブルエッグの下ごしらえ。
ふたりの背中は、なんだかよく似ていた。
エプロンの紐をぎゅっと結んだ姿、時折肩を寄せ合って笑う姿。
まるで昔から一緒に育ってきた姉妹のように、自然だった。
「郷子さん、卵はとろとろ派? しっかり焼く派?」
「うちは“半熟、心はあったか派”やね」
「なにその標語! 給食当番のスローガンみたいや!」
「あっくんはきっと“とろける派”じゃろね。タオルも心も……」
二人で声を揃えて笑った。
トースターから、カチンと音がして、パンが焼き上がる。
泉が素早くバターを塗り、郷子は手際よくスクランブルエッグをのせた。
「はい、ベーコン卵トースト完成! お兄ちゃんの目、覚ます味よ!」
「てか、これ食べたら……きっと今日もタオルの夢、見るね」
「それ悪夢やんか!」
手を取り合って笑い転げるふたり。
そんな朝の光景に、廊下の奥から寝ぐせのままの温也がふらりと現れた。
「おはよう……なんか、キッチンがめっちゃ楽しそうやな……」
「ほら、お兄ちゃん、お口あーんして?」
「えっ、なにその扱い!? 俺、3歳児枠なん!?」
「今日だけはな、“バス王子”枠やけぇ」
「どんなポジションやそれぇぇ!」
それでも、温也はにやけた顔を隠すように、そっぽを向いてトーストを一口。
「……うまい。マジでうまい」
その一言に、郷子と泉は顔を見合わせて、ちいさくガッツポーズ。
朝のキッチンには、トーストの香ばしい香りと、
どこか“家族”のような、ぬくもりがふわりと漂っていた。
日曜の夕暮れ──
ほんのりと茜に染まる空。
一日の終わりを告げる風が、窓辺のレースカーテンをやさしく揺らしていた。
「ピンポーン」
チャイムが鳴ると、ソファから跳ね起きた郷子が玄関に駆け寄る。
「おかえり! 早かったねぇ、お父さん!」
「ただいま~。はい、お土産。別府の温泉まんじゅうと、地獄蒸しプリンじゃ」
「いやぁ、温泉入って、おいしいもん食べて……極楽じゃったわ~」
その「温泉」の一言で、郷子はふと立ち止まり、ぽかんと天井を見つめた。
「……湯けむり……」
その瞬間、頭の中にふわりと蘇る昨夜の記憶。
ふざけあいながら夜更かししたキッチンの光景──
“3歳児枠”の温也、ベーコン焦がしかけた泉、そして「お口あーん」劇場……。
「ぷっ……だめじゃ……思い出した……ぷははっ!」
「な、なに!? どうしたん、郷子!?」
郷子はお土産の袋も手につかぬまま、廊下にしゃがみ込んで笑い出した。
「今朝ね、泉ちゃんと一緒に朝食作っとったんよ。そしたら温也くんがもう“3歳児モード”になってしもて、トースト持って“あーん”言いながら迫ってくるし……もう、腹よじれるか思うた!!」
「ちょ、郷子さん! やめてやめて、それ言わんとって!!」
キッチンから泉の声が響く。
「“3歳児枠のバス王子”、言うたの、忘れてへんよ!? あれ、瑞穂さんに聞かれたらヤバいけぇ!」
「うふふ、聞いたわよ、泉」
瑞穂が湯呑を持ったまま、にっこりと現れた。
「もー! お母さんまで乗ってくるしー!!」
そのやりとりに、リビングからも笑い声がどっと湧き上がる。
新聞をたたみながら光が笑い、温也は照れ笑いしつつもどこか誇らしげ。
足元では、猫の小町が「にゃぁ」と短く鳴いて、みんなの笑いに参加しているようだった。
「小町まで笑う気かいね……!」
望と桜もその様子を見て、目尻を下げながら笑った。
「郷子、あんたほんまに楽しそうじゃなぁ。……なんかええわぁ、こういうの」
「うん……うちの家より、こっちがほんとの実家みたいやわ……」
そう言いかけて、郷子はまた思い出したように笑い出す。
「……だって、晩ごはん終わったあとに“劇場の第二幕始まるで!”言うんよ? 泉ちゃんが!!」
「やめぇーっ!」
「ほんまに腹痛いんよ、今も……! 昨日から笑いすぎて、筋肉痛なるわ!!」
それを見ていた光と瑞穂も、温也も泉も、小町も、そして望と桜も──
誰ひとりとして、笑いを我慢できなかった。
湯けむりのように、笑いはゆっくりと広がっていく。
窓の外は、やわらかな茜色。
夕暮れの空の下、にぎやかで、どこかほっとする、家族のような笑い声がいつまでも響いていた。




