郷子の悩み
郷子の密かな悩み――それは、自分の身長のことだった。
中学3年の春。もうすぐ15歳になるというのに、背はまだ150センチ。まわりの友達がすらりと伸びていくのを見ながら、郷子はこっそり鏡の前で背筋をぴんと伸ばしてみる。
「160センチ……せめて、それくらいにはなりたいんじゃけどなあ」
そうつぶやいては、制服のスカートの裾を気にしてみたり、階段を一段飛ばしで駆け上がってみたりする。なんの根拠もないけれど、なにか小さな努力で少しでも伸びるような気がして。
成長期はまだ終わっとらんはず――そう信じてはみるけど、ふとした拍子に胸がちくりとする。
「このままじゃ、あたしだけちっちゃいままかもしれん……」
そんな不安が、心の奥のほうで静かにざわめいている。
けれど、それを誰かに打ち明けることはない。笑われるのがいやなんじゃなくて、きっと笑ってほしくないから。郷子の小さな願いは、春の風に乗せてそっと空に届けられる。
それでも――
春の身体測定の日。体育館の片隅に設けられた測定コーナーで、郷子はちょっとだけ緊張しながら、身長計の前に立った。
「はい、まっすぐ立ってー」
保健の先生の声に、背筋をぴんと伸ばす。いつもより、ほんの少しだけかかとを意識して、でもバレんように。
カシャン、と器具が下ろされる音。そのあと、先生がつぶやいた数字に、郷子の心が止まった。
「……153センチ、ね」
えっ。
え、ええっ!?
たった3センチ。されど3センチ。150の壁を越えた、その一歩が、郷子には大きな奇跡のように思えた。
「やった……伸びとる……!」
思わず口元に笑みがこぼれた。恥ずかしくて、すぐに顔を伏せたけど、頬はゆるんだままだった。
たぶん誰にも気づかれてなかったじゃろうけど、その日の郷子は、帰り道ずっとスキップしたい気分じゃった。
春風が、なんだかやさしく背中を押してくれるように感じた。
「うん……きっと、まだ伸びる」
心のなかでそっとそうつぶやいて、郷子は空を見上げた。
夕方、春の光が川沿いの道を柔らかく照らしていた。
制服の袖をつまみながら、郷子はぽつりと口を開いた。
「ねぇ、あっくん」
「ん? どしたん、郷子」
「うちらさ……身長、けっこう差あるよねぇ。30センチはあるっちゃろ」
「まぁなぁ。郷子、今150ちょいやろ? 俺180あるしな」
郷子は少し俯いて、小石を軽く蹴るように前を歩いた。
(ほんの少しのことのようで、私にはとても大きな差に思える。
……もし、あの人とキスをすることになったら、私はちゃんと届くだろうか)
「……もしさ、うちらがキスするとしてよ。わたし、届かんのんじゃないかって思うんよ」
温也が驚いたようにこちらを見た。
「そんなこと気にしてたん?」
「うん……。それにね、なんか最近、自分でも思うんよ。背も足りんし、もうちょい女の子っぽくなりたいっていうか……。バストとかも、もうちょっと欲しかったなぁ、て」
(ほんとは、こんなこと、言いたくなかった。でも、あっくんには言いたかった)
温也は立ち止まり、郷子の前にしゃがみこんで、目を合わせた。
「郷子、そんなこと気にせんでええよ。届かへんかったら、俺がしゃがんだる。キスのときやったら真正面向いて正座でもすんで?」
「なにそれ、アホみたいじゃ」
でも、ふっと笑ってしまった自分に気づく。
その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「ほんまやって。身長とか、胸のこととか、そんなもん、俺からしたらどーでもええねん」
「でも、わたしは気になるんよ。なんか、女として自信ないときあるんよ」
「そんなんあってもなくてもええやん。でもな、俺は――郷子が郷子であること、それだけでええんよ」
(私は私でいい。そう言ってくれる人がいる。それだけで、こんなに救われるんだ)
「……ほんまに?」
「ほんまほんま。俺、今の郷子が好きや。ちっちゃくても、細うても、しっかり前見て歩いとる郷子が好きや。自分のこと、もっと大事にしてええよ」
郷子は思わず、息をついて、小さく笑った。
「なんか、ちょっと楽になったわ……。ありがと、あっくん」
「どいたしまして、郷子ちゃん」
「……もぅ、その呼び方、ずるい」
(どんなに自信をなくしても、あっくんの言葉一つで、私はちゃんと、わたしに戻れる。
それって、すごく幸せなことなんだと思う)
温也の手が、そっと郷子の頭を撫でた。
そのぬくもりに、胸のざわつきがすっと溶けていった。
夕方、春風が制服の裾をふわりと揺らす。
あっくんの大きな背中を見上げながら、私はふと、立ち止まった。
(わたしの体って、やっぱりちっちゃいよなあ……
温也と並ぶと、なんだか自分が子どもみたいに思えてしまう)
前にもそんなふうに悩んで、ぽろっとこぼしたとき、温也は笑いながら言ってくれた。
『そんなん、ぜんぜん気にせんでええ。郷子は郷子やろ? 俺は、それがええんや』
あの言葉は、まるで春の日差しみたいに、じんわりと胸の奥に届いていた。
(あのとき、すぐに「ありがとう」って言えたけど、ほんとのところ……自分の体を好きにはなれとらんかった気がする)
でも――あれから、ちょっとだけ意識が変わった。
朝、鏡の前で髪を結ぶとき。制服を着て、スカートのプリーツを整えるとき。
前は「どうせ背が低いけぇ、似合わんのやろうな」って思ってたのに。
今は少しだけ、「似合うように着こなしてやろう」って思えるようになった。
(なんか、ようわからんけど。
“足りない”ところを誰かに埋めてもらうんじゃなくて、
そのままの自分を誰かがええって言ってくれることが、
こんなにも力になるんやね)
授業中、背筋を伸ばしてノートにペンを走らせながら、ふと気づく。
(あっくんは、わたしの“変わろうとすること”より、
“変わらんでもええ”って、言うてくれたんや)
――その言葉に甘えて、ちょっとだけ強くなろう。
まだ、好きになれないところもある。
鏡を見るたびに、溜息が出る日も、たぶんこれからもある。
けど、それでも。
(わたしは、わたしのままで、生きていこうって思える。
それが、温也と出会って、わたしが得た、一番の宝物なんよ)
次の体育の時間、身体測定がある。
「あと何センチ伸びたかな」なんて、去年までは気にしてた。
でも今は、ちょっとだけ胸を張って、その数字を受け止められそうな気がしてる。
たとえ、1ミリも変わってなかったとしても――。
春の昼休み。中庭のベンチに腰かけて、三人分の手作り弁当が並んでいる。
由理恵が唐揚げをつまみながら、何気なく言った。
「郷子って、肌ほんまにきれいよね。うち、マジで羨ましいんやけど」
「え、そ、そう? うちは……なんか子どもっぽいっち言われること多いけぇ……」
郷子はちょっと照れながらおにぎりを見つめた。
「そりゃ、郷子は可愛い系じゃもんね。でも、それが郷子の持ち味よ」
厚子が、さらっと言った。
「でもさ、なんちゅうか、うちはもっと“女らしさ”っちゅうか、ちぃとは大人っぽうなりたいなって思うんよ。バストとか、身長とかも……」
「あー、わかる! わかるけどさぁ、それってけっきょく他人と比べちゃうからよ」
由理恵が口にあんパンを放り込みながら言った。
「うち、中一んときは、背が伸びすぎてイヤじゃったもん。男の子よりデカいし、肩幅あるし。けど今は“強そう”っちゅうのもアリかなって思えてきたんよ」
「……へぇ」
「逆に郷子はちっちゃくて細いけぇ、どんな服でも可愛いく着れるやん。うちらが着たら“パツパツ”でも、郷子なら“ふわっ”てなるし」
「そうそう。あとさ、温也くんに“郷子はそのままでええ”って言われたんでしょ?」
「う、うん……そうね……言うてくれた」
「じゃけぇ、ええんよ。そのままで。男子の言葉、ほんま響くときあるもんね」
厚子がにっこり笑った。
(なんやろう……こうやって話しながら、少しずつ、わたしの中の「嫌いなところ」が、「別に悪くないかも」って思えてきよる)
「……ありがとう、ふたりとも。うち、ちょっとだけやけど、自分のこと、ええかもしれんて思えてきた」
「うん、それでええんよ。ちょっとずつでええんよ」
「あと、温也くんとキスするとき困らんように、台に乗ったらええんよ」
「ちょ、厚子! なんでそこ突っ込むん!」
「ええじゃん、ロマンチックじゃし。漫画とかでも、あれめっちゃあるやん!」
三人で笑い合ったその時間が、郷子の心のどこかに、小さな灯を灯した。
(わたしのままで、ええんじゃ。誰かと違うってことは、ちゃんと「わたしらしさ」なんよ。
少しずつでええ。時間かけて、自分を好きになっていこう)
春の風が、三人の声を優しくさらっていった。
その夜。リビングの明かりが落ち、家の中が静まり返ったころ。
郷子はお風呂上がりのパジャマ姿で、ふらりとキッチンに立つ母・桜のもとへ向かった。
「……お母さん」
「ん? なぁに、郷子」
洗い物をしていた手を止めて、桜が振り返る。
郷子は、少し口ごもってから言った。
「うち、……ちょっとだけ、悩んどること、あって……」
「うん、なんでも話してみんさい」
母の声は、思ってたよりもずっと穏やかで、優しかった。
「……なんか、みんな成長しとる中で、うちはあんまり変わらんような気がして……。
背も小さいし、バストとかも、全然で……
あっくんの隣に立ったときに、なんか、子どもっぽいなって思うんよ」
桜は黙って聞いていた。うなずきながら、最後まで遮らずに。
「あと……友達に言われて、ちょっと気が楽になったんじゃけど……。
それでも、自分の体に自信が持てんっていうか……
こんな自分でええんかって、不安になるときがあるんよ」
郷子の声が、少しだけ震えていた。
それでも、目はまっすぐ、母を見つめていた。
桜はふわりと笑って、ふきんで手を拭きながら、娘の前に椅子を引いた。
「郷子、うちもね、あんたぐらいの頃、同じこと思うとったよ」
「……ほんとに?」
「ほんと。鏡見るたびに、自分の体が好きになれんくてね。
友達がどんどん綺麗になって、大人っぽくなっていくのを見て、
自分だけ置いてかれとるような気がしよった」
「……お母さんでも、そんな時あったん?」
「あるよ。今こうして“お母さん”やっとるけど、
昔は郷子と同じように、不安になって泣いた夜もあったんよ」
桜は、郷子の肩にそっと手を置いた。
「でもね、人ってみんな、それぞれ違うペースで咲いていくけぇ。
桜も早く咲く花もあれば、遅咲きで、誰よりもきれいに咲く花もあるじゃろ?」
郷子は、ふっと小さく笑った。
「……うち、遅咲きなんかなあ」
「かもしれんね。でも、その分、大事に大事に育ってるんよ。
それって、すごいことなんよ。
自分のこと、大事にしとるってことじゃけぇ」
「……うち、あっくんに“そのままでええ”って言われたとき、うれしかったんよ。
でも、自分のこと好きになれてなかったら、素直に信じきれんような気がして……」
「うん、わかる。
でもね、好きになれんとこがあるってことは、
ちゃんと“なりたい自分”を持っとるってことじゃけぇ。
それって、すごいことなんよ。誇りに思いんさい」
(……そうなんかもしれん。うちは、なりたい自分に、ちゃんと向き合っとるんじゃ)
桜の言葉は、どこまでも静かで、強かった。
まるで、揺るぎない灯台の明かりみたいに。
「ありがとう、お母さん……なんか、ちょっとスッとした」
「んふふ。よう言うたね、郷子。偉いよ、ちゃんと自分の気持ち、話せて」
「……うん。少しずつでも、うちはうちのこと、好きになっていきたいって思う」
「それでええよ。それが一番たいせつなことよ」
ふと、桜が立ち上がって、娘の髪をくしゃりと撫でた。
「じゃけぇ、あんまり気にしすぎんで。ゆっくりで、ええけぇね」
土曜日の午後。
陽が傾き始めた公園のベンチで、郷子と温也は並んで座っていた。
手にはコンビニで買ったホットミルクティー。
少し風が肌寒いけど、心は不思議とあったかい。
郷子は、ふと温也の横顔を見上げた。
「……あのさ、あっくん」
「ん?」
「うち……ちょっとずつじゃけど、ようやく自分の体のこと、
嫌いじゃなくなってきたかもしれん」
温也は、あったかい目で郷子を見た。
「そっか。よかったなぁ、郷子」
「うん……。いろんな人に話聞いてもらって、
……お母さんとも話して、なんか気持ちが軽くなって」
郷子は、ふっと笑ってから、小さく呟いた。
「……前はね、自分だけ取り残されたような気がしとったんよ。
大人になれんような気がして……
あっくんのとなりに立つんが、ちょっと恥ずかしかった」
温也は少し眉を上げて、そして優しく笑った。
「アホやなぁ、郷子は。
オレは郷子がどんな姿でも好きやのに、
そんなことで距離感じとったんか」
郷子は、照れくさそうに笑った。
「……でも、いまは違うよ。
うち、自分のペースで変わっていってええんよね。
あっくんのそばにおっても、胸張ってええって思えるようになった」
「うん、それでええねん。
オレはな、背ぇ高い郷子でも、ちっちゃい郷子でも、
おっぱいあってもなくても、どっちでもええねん。
“郷子”であることが、いちばん大事やから」
「……ほんま、優しすぎじゃろ、あっくん」
郷子はそう言って、はにかみながら温也の肩にそっともたれた。
(うち、もう大丈夫。温也の言葉が、ちゃんと胸に届いたけぇ。
このままのうちでいい、って思えるようになった。
それは、きっと――自分のこと、ちゃんと大事にしようって思えたけぇ)
風が少し強く吹いたけど、温也の体温がすぐそばにあることで、
郷子の心はしっかりとあたたかかった。
公園のベンチでの何気ない会話のあと、
ふと、胸の奥から込み上げてくるものを、郷子は抑えきれなかった。
温也の隣で、ぽろり、と涙がこぼれた。
「……うち、なんか……なんかもう、涙が止まらんくなってしもうた……」
「郷子……?」
温也がやさしく声をかける。
郷子は首を横に振って、声を震わせながら言った。
「……うれしくて……なんよ。
あっくんの言葉とか、……厚子や由理恵のこととか、
お母さんのこととか、……みんな、優しくしてくれて……
うち、……うちは……」
言葉が詰まって、もう何も言えなかった。
そのとき、温也は何も言わずに、そっと郷子の肩を引き寄せた。
そして、郷子の頭を自分の胸にそっと抱き寄せる。
「……泣いてええよ、郷子。
ムリせんでええ。泣きたいときは、ちゃんと泣いてええねん」
温也の胸はあたたかくて、郷子はその中でしゃくりあげながら、目をぎゅっと閉じた。
「オレな……郷子のこと、大事にしたいって、ずっと思うてた。
笑う郷子も、泣く郷子も、ぜんぶオレにとってはたいせつやねん。
誰がなんて言おうと、郷子は郷子で、誰よりもかけがえのない存在や。
それだけは、どうしても伝えたかったんや」
その言葉は、郷子の心のいちばん奥深くに届いた。
胸の奥で、何かがほどけていくような気がした。
(……うち、ずっと自分のことを、どこかで責めとったんかもしれん。
足りんとこばっか見て、誰かと比べてばっかで……。
でも、こんなふうに“そのままでええ”って言うてくれる人が、
そばにいてくれる――それだけで、うちは救われたんよ)
郷子は、温也の胸に顔をうずめたまま、小さく笑った。
「……ありがとう、あっくん。うちはほんまに、幸せもんじゃ……」
温也は何も言わず、ただぎゅっと郷子を抱きしめていた。
風がやさしく、ふたりの肩をなでて通り過ぎていく。
そのぬくもりは、きっと――この瞬間を忘れないという約束のようだった。
涙が落ち着くと、郷子はそっと顔を上げた。
温也の胸にすがったまま、目元をぬぐい、ちいさく笑う。
「……もう、大丈夫。泣きすぎて、目ぇパンパンなりそうやけど……
うち、ちゃんと前見れるようになった気ぃする」
「うん、ええ顔してるで、郷子」
温也はにっこり笑って、郷子の頭をぽんぽんと軽く撫でた。
(泣いたあとの風は、ちょっとだけ冷たいけど、心はふわっとあったかい。
もう“どうせ自分なんて”って、そんなふうに思う必要はないんよ。
だって、今ここに――うちを丸ごと受け止めてくれる人がおるけぇ)
郷子は立ち上がると、深く息を吸い込んで、肩をひとつすくめて笑った。
「……帰ろっか、あっくん」
「おぉ、そろそろ晩ごはんの時間やなぁ。
今日な、うちのおかん、たぶんカレー作ってるわ。ようけ作るクセあるから、食べにくる?」
郷子はクスッと笑った。
「んー……うちの母さんもカレーかもしれん。カレー被りじゃね?」
「じゃ、食後に合流しよか。どっちのカレーが美味いか対決や」
「負けんけぇね、うちのお母さんのカレー!」
ふたりは並んで歩き出した。
ときどき肩が触れ合って、そのたびに笑い声がこぼれる。
夕陽が、ふたりの影を長く伸ばしていく。
その影は、どこかもう大人びていて、だけどどこまでもやさしかった。
(――これが、うちの今の一歩なんよ。
迷って、悩んで、涙流して、でも……
それでも自分を大切にしたいって思えた、はじめの一歩)
郷子は温也のほうをちらりと見て、すっと肩を寄せた。
温也も自然と肩を寄せ返してくれる。
言葉はいらなかった。
あたたかい風と、並んだ足音が、それだけで十分だった。




