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新学期始動

春休みが明けて、校門の前に並んだ桜は、もう半分ほど花びらを落としていた。

上田郷子は制服の襟を直しながら、隣を歩く温也のカバンに目をやった。


――揺れてる。あの猫のストラップ。


白くてふわふわの猫が、トロンボーンケースの脇でちょこんと揺れている。

それを見つけた瞬間、郷子の胸の奥が、じんわりとあったかくなった。


あの日――博多への日帰り旅行の帰り道だった。

夕焼けに染まる駅前通り、別れ際の坂道の下で、郷子は手の中で小さく丸めた紙袋をぎゅっと握っていた。


「あっくん……あのね」


「ん?」


「これ……うちから。…なんも大したもんじゃないけど、あっくんに、渡したかったん」


「ええの? 開けてええ?」


「……うん」


温也が袋の中をのぞき、くすっと笑った。


「猫やな。郷子っぽい」


「ちがうよ、あっくんぽいから、猫なん」


「ふーん……じゃ、カバンにつけるわ。ありがとな、郷子」


(うれしかった――ほんとに)


そのストラップが、今日も温也のカバンで揺れている。

それを見ているだけで、郷子の心は春風みたいにふわりとした。



さて、3年生の1学期ということで、クラス替えがある。


「どうか、あっくんと同じクラスでありますように」


(春が来るたび、あたしの心はそわそわする。

 新しい教室、新しいクラスメート、そして――あっくんとまた一緒に過ごせるかどうか。

 そんなことばっかり考えて、朝から何回も深呼吸したんよ)


クラス替えで、郷子が掲示板を見ると、3年2組になっていた。そして、未来の旦那様である温也は…?


(お願い…お願い…あっくんも、どうか2組でありますように…)


郷子の祈りが通じたのか、温也も同じクラスであった。


(あっ…おった…!ほんまに、いっしょじゃ!

 嬉しさが一気にこみ上げて、胸があったこうなる。

 思わず、涙が出そうになった)


掲示板を見ていた温也も、


「おぉ?郷子と同じクラスじゃん。ラッキー」


(あっくんの声じゃ。

 この声を、また教室で聞けるんや。

 ほんまに、神さまありがとう)


そして、郷子と二人ハイタッチ。


「よかった~。違うクラスじゃったら、嫌じゃなぁって思ってた。また1年一緒のクラスじゃね」


「俺も。違うクラスになったらどうしようかって。いっそのこと、郷子のクラスに押しかけて授業受けようかって思うてたわ」


「ばか。そんなんしたら怒られるじゃろ」


(あたしも、あっくんと離れるなんて想像もしたくなかったんよ。

 こうやって、自然に笑い合える時間が続くとええなぁ――

 …ううん、続けてみせる。だって、あっくんは、あたしの未来の旦那様じゃけえ)



教室に入って、津留美も同じクラスになったので、さっそく声をかけてきた。


そして津留美が目ざとく気づいて声をあげた。


「ちょ、あれ猫じゃない? あっくん、それ郷子があげたやつやろ」


違うクラスになった歳也と藍がにやっと笑う。


「おーい、もう公認カップルやん」


「ちがうし!」

郷子は顔を赤らめて手を振ったけれど、藍が優しく笑って言った。


「いいじゃん、かわいいもん。うちら、見てて癒されるし」


(……なんか、こうして笑われるのも、うれしい。みんなが、あたしたちを見守ってくれてる感じがする)


そんなあったかい空気のまま、始業式は静かに進み、新しい時間割が配られた。

その日の午後、吹奏楽部の部室にて――


「はーい! みんな~! 新入部員の紹介、いくけぇね~!」


軽やかな声とともに前に出たのは、トロンボーンのながちゃん――長人峡子だった。

郷子たちの一学年下だけれど、明るさと人懐っこさで、部内のムードメーカーになっていた。


「まず! サックス担当の宮野恋ちゃん! れんちゃんは、音よりも先に笑顔がきらきらなんよね~」


「よろしくお願いします……」

小さく手を振る恋に拍手が起きる。


「次! フルートの柳生悠樹くん! 静かそうやけど、音はめちゃ繊細。癒し枠!」


「……よろしくお願いします」


(なんか、弟みたいな感じ。……あたし、一人っ子やけど、こんなふうに家族が増えてく気がするね)


郷子は、そんなふうに心のなかでそっと思った。


「トランペットの大畠夏海ちゃん! とにかく元気! 走ってる音がする感じ!」


「よろしくお願いしまーす!」


「最後、ユーフォの滝部遥香ちゃん! 見てよこの癒し系……ユーフォそのもの!」


「……よろしくお願いします」


「てなわけで! 以上四人! かわいい後輩たちと一緒に、音楽の春、はじめまっしょい!」


拍手が一段落した頃、部室のドアが開いた。


「元気な紹介ありがとう、長門さん。あなたの声が一番通ってたわ」


顧問の上山先生が入ってきた。きりっとした黒縁メガネに、爽やかな雰囲気を纏った女性の先生だ。


「さあ、今日から少しずつ合奏に入っていきましょう。春の定演の目玉曲――『糸』を練習します」


譜面が配られ、合奏が始まる。


――糸。


郷子の胸が、そっと締めつけられる。


(…この旋律に、うちの“好き”を込めたい)


静かに呼吸を合わせ、スライドを動かす。

音が溶け合うその瞬間、となりのあっくんの音がふわっと重なった。

(あっくんと、同じ音を、同じ空気で響かせられる――それが、どれだけ幸せなことか)


涙が出そうになるくらい、あたたかい気持ちが、胸に広がった。


放課後、夕暮れの中を二人で歩く帰り道。

さりげなく、温也が自分のカバンをちらっと見て言った。


「猫、まだつけとるよ」


「……知っとるよ。毎日見よるけぇ」


「そっか」

温也が少し照れたように笑った。


郷子も、ふっと笑って前を見た。


桜の花びらが、風に吹かれて舞い、足元にふわりと落ちた。


――この春は、きっと忘れられん春になる。

だって、あっくんと一緒に音を重ねた春じゃけぇ。


『糸』の練習と、郷子の想い

この日の合奏曲は――中島みゆきの『糸』。


「最初から合わせよか。感情込めて吹くんやで~」

あっくんの合図で、部員たちが呼吸を揃える。


郷子は静かにトロンボーンを構え、息を吸った。


(……この旋律、まるであっくんの声みたいじゃ。優しくて、ほっとして……)


あっくんの音が、まっすぐ心の奥に染みてくる。

それにそっと、自分の音を重ねた。


(うち、あっくんのこと、大好きなんよ……)


それは、まだ言葉にできん想い。

でも音なら――きっと届く。

今日のこの瞬間に、この旋律に、うちの気持ち、全部乗せて吹いてみよう。

そう、郷子はそっと自分に言い聞かせた。


上山先生が静かに頷いて、目を細める。


「……今の音、よかったぞ」


春の午後の陽射しの中、音楽室に『糸』の旋律が、やさしく流れていた。


それぞれの家に帰る道すがら

放課後。練習を終えて帰る道、郷子とあっくんはまたふたり、並んで歩いていた。

あの猫のストラップは、あっくんのカバンで小さく揺れている。


(……あっくん、ほんとに、つけてくれちょるんじゃね)


家の角まで来たところで、ふと、郷子の足が止まった。

あのときの記憶が、ふわりと蘇る。


――「……あっくん、ちょっと待って」

――「ん?」

――「これ、あっくんに……あげたくて。うち、あっくんのこと、すごい大事やけぇ……」

――「うれしいわぁ、郷子。ありがと。大事にするわ」


その言葉を思い出すだけで、また胸がいっぱいになる。

でも、あの時勇気を出してよかった。


いつか、もっとちゃんと想いを伝えられる日がくる。

そのときまで、うちは、音にのせて届けていきたい。


そして今夜も、きっと、あっくんのカバンの猫は、そっとその想いを知って、揺れている――。



「おーい、悠樹く〜ん!ちゃんと楽器ケース閉めた〜?」


校門を出たところで、郷子が後ろを振り返って大声をかける。


「うん、大丈夫です〜!先輩のより速かったですよ?」


「おっ、言うじゃん、1年のくせに〜!」


「や、やめてくださいよ〜、郷子先輩怖い……ってのは冗談です!」


「も〜、冗談でも傷つくわぁ!」


悠樹の言葉に、郷子がわざと肩を落としてみせると、横で温也がくすっと笑う。


「なぁ郷子、そういうの“先輩風”って言うんやから」


「あっくんも言うんかい!」


そんなやり取りを笑いながら、ながちゃんとたかやんが2人並んで歩いてくる。


「今日のトロンボーンパート、なかなか良かったですよね?」と、ながちゃんが得意げ。


「うんうん、俺の低音、ばっちり安定しとった気がするわ」


「何言いよる!うちの方がちゃんと支えたし!」


「いやいや、2年のうちらより先輩のスライドのキレがヤバかったやろ?」


「それです!郷子先輩、ラストの伸ばしめっちゃかっこよかったっす!」


「え〜〜!?そ、そんなこと言われたら、照れるやん!」


郷子が耳まで真っ赤にして笑うと、1年の夏海がちょこっと前に出てくる。


「でも、正直……うちら1年、まだまだやなって思いました。先輩たちの音、やっぱ全然ちがうもん」


「それがええんよ〜、そう思えるうちが伸びるときやから」


温也が柔らかくそう言うと、夏海も照れたように笑った。


「遥香はどう思った?」とたかやんが尋ねると、遥香はふんわりと答える。


「ん〜……先輩たちと一緒に吹いてると、音の中にちゃんと入れたときがすごく気持ちよかったです」


「おお〜、ええ感覚しとるなぁ、さすが!」


「なんか、学年バラバラなのに、同じ方向向いてる感じがして……わたし、吹奏楽部入ってよかったって思いました」


遥香の一言に、しばし静かな空気が流れた。

でもすぐに、ながちゃんが元気に言う。


「じゃけぇ、夏のコンクール、みんなでがんばろうや!」


「おー!!」と全員の声がそろう。


「よっしゃ、コンビニ寄ってジュース買って帰ろ!」


「賛成〜!てか、郷子先輩、今日おごってくれるって言ってたよね?」


「え!?……誰!?誰がそんなこと言ったん!?(汗)」


「聞いた〜!証人ここに6人おるよ〜!」


「うっわ〜、まさかの後輩パワー……!」


笑い声とともに、部活帰りの道に夕陽が差し込む。

世代は違っても、想いは一つ。

このメンバーで音を出す喜びが、胸の中でぽっとあったかく灯っていた。




「うわ〜、冷蔵庫の前が天国すぎる……」


コンビニの入り口をくぐると、夏海が真っ先に飲み物コーナーに駆け寄る。汗で少し額の髪が張りついたまま、冷たい扉のガラスにほっぺを寄せてうっとりしている。


「はよ決めんさい、列できよるよ〜」と郷子が言うと、


「え〜、だってどれにするか迷うんよ〜……炭酸もいいし、スポドリも捨てがたいし……!」


その横で悠樹はさっとレモンウォーターを手に取る。


「悠樹くん、早っ!」と遥香が目を丸くすると、彼は小さく笑って言った。


「家でもいつもこれなんよ。安心する味だから」


「ええなぁ、そういう“いつもの”って」


一人ひとりが飲み物を手にして、外のベンチに腰を下ろす。夕陽が少しオレンジを濃くしながら、街に落ちてきている。


「じゃあ、せ〜のでいこか!」


郷子がそう言って、みんながペットボトルや缶を掲げる。


「せ〜のっ!」


カシュッ、パキッ、ゴクリッ……!


それぞれの音が重なると、しばらくは誰もしゃべらない。ただ、喉を鳴らして、心ゆくまで冷たい飲み物を味わっていた。


「ぷっは〜〜っ!生き返るわ〜〜〜!!」


最初に声をあげたのはながちゃん。大げさに肩を回して、顔を上に向けて叫ぶように言った。


「ほんま、部活終わりの一杯って、なんでこんなにうまいんじゃろうな〜」


「このために練習しよるって言っても、過言じゃないかもな」

温也もクールに笑う。


「練習でかいた汗が、全部報われる気がする……」と、遥香がほんわりと笑った。


たかやんはジンジャーエールを飲みながら、「この炭酸の刺激が、今日の疲れをリセットしてくれるんよな」と呟く。


「ねぇ、来週の練習後もまたここ来ようよ!」


夏海が満面の笑みで言うと、悠樹が「うん、ここ、なんか落ち着くね」と小さくうなずいた。


「……毎年、こういうのが積み重なっていくんよ」


ふと、郷子がぽつりと呟くように言った。


「部活って、音だけじゃなくて……こういう時間が、思い出になるんよね」


その言葉に、誰も返事はしなかったけど、みんなの心にぽっと火が灯ったみたいな静かな空気が流れた。


コンビニの店先、夕暮れと冷たいジュースと、仲間の笑い声。

夏の始まりのにおいが、そっと風に運ばれていった。




「……あのぉ、郷子先輩」

歩道に並んで歩いていた夏海が、ぽつんと声を落とした。


「うん?」と郷子が歩調を緩めてそちらを見ると、夏海は空を見上げて小さく笑っていた。


「今日、トロンボーンの低音、めっちゃ響いてて……何ていうか、鳥肌立ちました」


「えっ、ほんま? ありがとうやわ〜」

ちょっと照れたように郷子が返す。


「わたし、まだ全然上手く吹けんけど……。あんなふうに、自分の音が誰かの中に届いたらいいなって思ったんよ」


その言葉に、悠樹が「うん、わかる」とすぐにうなずいた。


「僕、最初は音が薄くて、みんなに迷惑かけてる気がしてたんですけど……合奏で少しでも『そこにおる』って感じてもらえる瞬間があると、なんか、報われる気がするなぁ」


「悠樹くんの音、ちゃんと聴こえとるで。きらっと光るんよ、ふとしたときに」


温也がそう言うと、悠樹の顔が少しだけ赤くなった。


「……やっぱ、すごいなって思う。先輩たちって」


遥香がゆっくりと言葉を継いだ。


「わたしたち、まだ“音を出す”だけでいっぱいいっぱいなのに……。先輩たちは、“聴かせる音”を出してる。ちゃんと、誰かの心に届く音」


「……うちらも、最初は同じやったよ」


郷子が足を止め、ふと夜の空を見上げる。


「最初は、音程もリズムもバラバラで、“ほんまにこの部でやっていけるんか?”って、毎日泣きそうになりながらやっとった」


「でも、誰かの音が、ふっときれいに重なったとき……“あ、今、音楽してる”って思えて」


「それがうれしくて、悔しくて、もっと上手くなりたくなって――。そうやって、だんだん音が繋がっていったんよ」


夏海、悠樹、遥香はじっと耳を傾けていた。


「先輩の言葉……胸にしみます」と遥香がつぶやくように言う。


「でもな」と温也が穏やかに続けた。


「うちら3年は、もうあと数ヶ月で引退じゃ。ほんま、あっという間よ」


「せやけえ、今はこの一瞬一瞬が大事なんよ。音楽してる時間も、今日みたいにコンビニ寄ってジュース飲んで笑う時間も、ぜんぶな」


「その積み重ねが、ちゃんと音に出るから」


しばらく沈黙が流れた。


でも、それは気まずさでも、重苦しさでもなく――

ひとりひとりが、その言葉をじんわり胸に受け止めていたからだった。


「……なんか、泣きそう」と夏海が笑って言った。


「泣くな〜!」とたかやんが後ろからツッコんできて、ながちゃんも「部長の話、青春映画やん!」と笑った。


「よっしゃ、みんな!明日からも練習がんばろうや!」


郷子の声に、全員が「おーっ!」と声を合わせて拳を上げる。


夜の街に、その声がほんのりと響いた。

まるで、彼らの歩む道を、そっと照らすように。


家に帰ってひと息ついた頃、温也とLINE電話をつないだ。


「そう言えば、今日で私たち、出会ってちょうど一年じゃね。あっという間だったけど……すごく楽しくて、ほんと充実してたよ。あっくん、ありがとうね」


「いや、俺のほうこそ感謝しとるよ。大阪から引っ越してきたばっかで、何にもわからんかった俺を、郷子がいろいろ助けてくれて……。こうして交際までできて、本当にありがたく思ってる。これからも、よろしくな」


「……んもう、改まって言われると、照れるじゃんか〜」


郷子が苦笑まじりにそう言うと、温也の声が少しだけ低くなって、でも優しく響いた。


「これからも、ずっと一緒や。いっぱい楽しもうな」


ぽん、と胸の奥に小さな灯がともるような感覚。会話を終え、LINEを切ったあともしばらく、郷子は頬がほんのり熱いままだった。


〈郷子・モノローグ〉

……出会って、もう一年。最初は、クラス替えで隣の席になっただけだったのに。

あのとき、私が落とした教科書を、さりげなく拾ってくれたあっくん。

「お、おぉ、これ……お前のやろ?」

ちょっと照れくさそうに渡してくれた顔、今でも覚えとる。


そのあと、毎日のように一緒に帰って、くだらんことで笑って、時々ケンカして。

でも、なんでかあっくんとは、ずっと一緒にいたいって思えたんよね。

……ううん、今も、そう思っとる。

「ずっと一緒や」って言葉、すごく嬉しかった。


郷子は深く息を吐いて、ふと窓の外に目をやった。夜の風が、さっきまでの暑さを少しだけ冷ましてくれる。


「さてと、私もそろそろお風呂に入りますか」


そうつぶやき、パジャマとタオルを手に取りながら、心のなかでそっとつぶやいた。


〈郷子・モノローグ〉

――これからの一年も、あっくんと一緒に。

きっと、もっと楽しくて、もっと大切な時間になる。

……ううん、そうしてみせるけぇ。


そう決めた顔でバスルームへと向かう郷子の背中は、どこか少しだけ大人びて見えた。



脱衣所で髪をまとめ、湯気がふわりと立ちのぼる浴室の扉を開ける。

バスタブに張られたお湯は、ちょうどいい温度。そっと足を入れ、ゆっくりと肩まで浸かると、体の芯までじんわりと温まっていくのを感じた。


「……ふぅ〜」


小さくため息をついて、天井を見上げる。湯気にかすむ照明が、やわらかく瞬いていた。



こうして一人でお風呂に入る時間、けっこう好き。

誰にも気を使わんでええし、今日のこととか、いろんなことをゆっくり思い出せるけぇ。


あっくんの声、今日もやさしかったな。

「これからもずっと一緒や」って……ああいうこと、照れずに言えるとこ、ほんとずるいよ。

でも……嬉しかった。すごく。


静かな湯面に、小さな波紋がひろがる。郷子は膝を抱えるようにしながら、少し目を閉じた。



夏祭りで、手をつないで歩いたあの夜。

花火の音にびっくりして、思わずあっくんの腕にしがみついたら――

「大丈夫やで」って、何気なく頭を撫でてくれた。


その手の温もりが、今でも残っとる気がする。


……あれから季節がめぐって、また夏が来て。

今はもう、他人じゃない。あっくんは「私の大事な人」なんやって、ちゃんと思える。



これから先も、いろんなことがあるんだろうけど、

あっくんとなら乗り越えられるって、信じとる。

……だって、一年前の私より、今の私のほうが、ちょっとだけ強くなれとる気がするもん。


ふと、湯船の中で手を広げて見つめる。

しわしわになりかけた指先。でも、その手は確かに、日々を積み重ねてきた証だった。


「よし、明日もがんばろ」


そう小さくつぶやいて、郷子は静かに湯船から立ち上がった。


バスタオルで髪を包みながら、ふんわりとした安心感が、胸の奥をそっと撫でていく。

――明日も、きっといい一日になる。

そう信じられる夜だった。




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