温也と郷子の博多珍道中
温也と郷子の博多珍道中
――寝坊から始まる、在来線ぐらしの一日旅――
「あっくーん!! もう、はよ起きーやーっ!!」
朝6時30分。
郷子は玄関で靴を脱ぐが早いか、ドア開けっぱなしで温也の部屋へ突撃した。目覚ましは三重奏のように鳴っていたけど、当の本人は毛布にくるまって夢の中。
「……ん? え……郷子? 今日……何日やっけ?」
「土曜じゃろーがっ! 今日、博多行くんやないんっ!? あと1時間しかないけーっ!」
「えっっ!? 夢ちゃうかったん!? うっわー、やばいっ!」
温也は目を白黒させながら、寝ぐせのまま布団から飛び起きた。
靴下は左右バラバラ、トーストはくわえたまま、鞄は開いたまま。
「待って、ICOCAチャージしてなかったかも……てかズボン前後ろ逆じゃないん?」
「郷子っ、それ先に言うてぇやあああっ!!」
⸻
山口線から鹿児島本線へ 在来線の揺れと笑い
ICOCAに息を切らしてチャージ完了。7時29分発の山口線にギリギリで飛び乗る。
「ふぅ〜〜……あぶなかったわ。ほんま死ぬか思た」
「てか、あっくん、寝坊はギリ許すけど、起きてから走り出すまで長すぎじゃけ!」
「すまんすまん、朝の脳みそはスロースターターやねん……」
「うち、もうちょいであっくん置いて先に行くとこじゃったんやけーね?」
「置いて行ったら一生根にもつわ」
新山口で山陽本線に乗り換え。車窓の向こうを、緑と街と雲が流れていく。
「こうやって、電車乗って旅するの、なんか新鮮じゃねー?」
「せやなあ……在来線もええなあ。時間かかるぶん、風景も楽しめるし」
「あと、乗っとるだけで冒険してる感じせん?」
「わかる〜。てか郷子、旅向いてるタイプやわ」
想いを胸に歩く午後
水のショーを楽しんだふたりは、にぎやかなキャナルシティの中をあっちこっち歩き回りながら、あちこちの雑貨屋をのぞいた。
「見て見て、あっくん。これ猫の形のポーチじゃん! こまちゃんそっくりやない?」
「ほんまや。これ、郷子に似合うんちゃう?」
「え、うちが猫ってこと?」
「いやいや、そーいう意味ちゃうで!? ええ感じにおしゃれってことや!」
「ふふっ、ほんなら許したげよっかね」
ふたりの笑い声が、キャナルのざわめきの中に溶けていく。
⸻
筥崎宮にて――願いの奥にあるもの
午後の光がやわらかくなってきたころ、ふたりは、博多から鹿児島本線の列車で少し移動して、筥崎宮へと向かった。
参道の並木を歩きながら、郷子はふと、背中に差す光の温かさを感じた。鳥居をくぐると、静けさが街の喧騒を遠くに追いやる。
「ええとこやな……ここ。空気、きれいで落ち着くわ」
「うん……なんか、心がすぅーってする感じするねぇ」
ふたり並んでおみくじを引くと、温也は「末吉」、郷子は「中吉」だった。
「末吉か……まぁ、悪くはないけど」
「“じっくり焦らず行動せよ”って書いとるよ。まさにあっくん向けじゃんね」
「なんでやねん、それ朝の寝坊ディスってるやろ!」
郷子は思わず笑ったあと、小さな絵馬を手にしていた。
「……ちょっと、願い事書いてくるね。あっくんは、そっちの鳩見とって」
温也が頷いて境内の奥へ行ったのを見届けてから、郷子はそっと筆を取った。
《家族みんなが元気で、笑顔でいられますように》
そう書いたけれど、本当の願いは、それだけじゃなかった。
(あっくんと……ずっと、こうして笑っとれたらええな。
そばにおってくれて、ほんまに嬉しいんよ。
いつか……気持ち、ちゃんと届いたらええな)
郷子は静かに絵馬をかけると、胸の奥でほんのり火照るような温かさを感じながら、温也のもとへ戻っていった。
警固公園で、夕暮れの風に吹かれて
夕方、街のざわめきが落ち着き始めたころ、ふたりは天神の警固公園のベンチに腰かけた。
「うーん、歩きすぎて足ぱんぱんやわ……」
「けどさ、今日はあちこち巡れて楽しかったねぇ。こんなにいっぱい笑ったん、久しぶりかも」
「郷子が全部プラン立ててくれたおかげやわ。ありがとうな」
「うちも、あっくんと来れてよかったって思っとるよ」
風が髪をそっと撫でていく。
郷子は、ちょっとだけ顔を下に向けたまま、ちらりと温也の横顔を見た。
(……今は、言わんけどね。
でもいつか、ちゃんと伝えたいけ。
あっくんが笑っとる顔、ずっとそばで見ときたいけぇ)
お土産と、夜の帰り道
お土産屋では、郷子が迷いに迷って選んだ辛子高菜と明太マヨを手にして、
「お母さんはこれじゃろ? お父さんはこっちの方が好きかもしれんし……」
「郷子、よう覚えとるなぁ。気ぃきくやん」
「うち、家族の食の好みにはうるさいけぇね!」
温也には、こっそり選んだ猫のストラップをポケットにしのばせていた。
まだ渡すタイミングはなかったけど、それでいい。今日の気持ちを、こっそり込めた。
湯田温泉駅にて――ふたりの静かな夜
帰りの在来線でふたりは、車窓に映る夜の景色をぼんやりと眺めていた。
「明後日から、また部活やなぁ……」
「けど、今日のこと思い出して頑張れる気がするよ。うち、しっかりメモリー保存したけぇ!」
「そんなん言うたら、俺も保存せなアカンやん」
湯田温泉駅に降りたのは、夜の七時半すぎ。
夜風が少しひんやりして、でも心はやけにあったかかった。
歩きながら、郷子はそっと温也の隣に歩幅を合わせた。
その瞬間、ほんのり赤く染まった心の奥が、ふわっと広がるのを感じていた。
湯田温泉駅にて――春の夜、ふたりの歩幅
湯田温泉駅に降り立ったのは、夜の七時半すぎ。
少し肌寒い風が吹いていたけど、どこかやわらかい。春のにおいがした。
「……もう桜、咲きかけとるねぇ」
郷子がぽつりとつぶやくと、温也もふと足を止めて、駅前の並木を見上げた。
街灯に照らされた蕾が、うっすらと色を帯びて膨らんでいる。
「ほんまや。こないだまでカチカチの枝やったのになぁ。春って、ちゃんと来るんやな」
「あっくんの寝坊にも、春は来るらしいよ」
「うるさいわ。それ言われんでも自覚しとるわ」
ふたりは笑いながら、改札を抜けて歩き出す。
さっき買ったお土産が入った紙袋が、しゃらしゃらと揺れていた。
郷子の左手のポケットには、まだあの猫のストラップが入ったまま。
温也に渡そうと思ったけど、タイミングを逃したままだった。
(うちの気持ち、まだ……出せんかった
けど、今日、あっくんとずっとおって、あらためて思ったんよ。
この人の隣が、うちのいちばん落ち着く場所なんやって――**)
交差点の信号を待つ間、温也がふと口を開いた。
「郷子」
「ん?」
「今日、ほんま楽しかったわ。郷子とおると、なんか気ぃ抜けるし、よう笑うし。……ありがとな」
そう言って、温也はポケットに入った郷子の手を、何気ないふうに、そっと上から包んだ。
「お前、今日ずっとそれ握っとったな。なんや、大事なもんか?」
「な、なんでもないし! ただの……お土産じゃけ」
「ふーん。……それ、今度、見せてくれる?」
「気が向いたら、ね」
信号が青に変わって、ふたりはまた並んで歩き出す。
重ねた手は、何も言わず、でも確かにぬくもりを伝えていた。
(ほんとは今、渡したい。
この小さな猫に、今日のうちの気持ち、ぜんぶ込めたけ)
でも、郷子は言葉にはしなかった。
春の夜風が、ほのかに頬をなでていった。
「郷子」
「なに?」
「これからも、またどっか行こな。どこでもええけど……今日みたいなん、またしたいわ」
「うん……うちも、したい。いっつも一緒がええよ」
その言葉に、温也は少しだけ目を細めた。
けれど、なにも言わず、ただ足元をそっと合わせた。
ふたりの歩幅は、自然と重なり合っていた。
⸻
家に着くころ――春の夜の、ひとつの贈りもの
家の明かりが見えてきたころには、夜の風も少しやさしくなっていた。
家々の屋根の上には月が浮かび、虫の声がひっそりと鳴きはじめていた。
「……ほな、また明日な。ちょっと課題もやらなあかんし、早よ寝んと」
「あっくん、今日はありがと。めっちゃ楽しかったけぇ」
「こっちこそ。ええ思い出できたわ。ほな、また――」
温也がくるりと背を向けかけたとき、郷子はほんの少し、足を踏み出した。
「あっくん――」
呼び止める声が、夜気の中に小さく響いた。
温也が振り向くと、郷子はポケットから、ひとつのストラップを取り出していた。
キャナルで買った、小さな猫のキーホルダー。つぶらな目とふにゃっとした笑顔。
郷子が、自分で選んだ、ひとつだけの気持ち。
「これ……あげる。今日、ずっとポケットに入れちょったやつ
うち、あっくんに渡そうと思って……でも、タイミングわからんで、ずっと持っちょったんよ」
温也は目を見開いて、それからふっと笑った。
「ええのん? これ、郷子のお気に入りちゃうん?」
「もう、うちの手ぇより、あっくんのカバンにぶら下がっちょったほうが、似合う思うけぇ」
温也はゆっくり手を伸ばして、その猫のストラップを受け取った。
指が触れた一瞬。
それだけで、郷子の心はどくん、と鳴った。
「……ありがとな。なんか、めっちゃうれしいわ。
ちゃんとカバンにつけるわ。そしたら、明日から毎日、一緒やな」
「……うん。そじゃね」
言葉はそれだけ。でも、すべて伝わったような気がした。
郷子は一歩さがって、小さく手を振った。
「ほいじゃあね、あっくん。風邪ひかんように、ちゃんと寝ぇよ」
「おう、郷子もな。ええ夢見ろよ」
そして、ふたりはそれぞれの家のドアを開けて、振り返らずに入っていった。
春の夜の静けさが、ふたりの距離をそっと包んでいた。
ストラップは温也の手の中で、小さなぬくもりをまだ残していた。
郷子の夜――自分の部屋、薄明かりのなかで
部屋の扉を閉めた瞬間、郷子は思わず背中をもたれさせて、はあっと息をついた。
心臓がまだドキドキしていて、手のひらにかすかな汗が残っている気がした。
「……渡した、よね、うち」
自分に問いかけるようにぽつりとつぶやいて、ベッドの上にごろんと寝転ぶ。
天井を見つめたまま、さっきの温也の驚いた顔が、何度もまぶたの裏によみがえった。
『え、まじで? 俺に?』
その声の調子、手の動き、表情。
ぜんぶ、何回も思い返してしまう。
やがて――顔を真っ赤にして、枕に突っ伏した。
「恥ずかし……うち、なにしよったん」
でも、枕の奥で小さく笑う。
心のどこかが、やさしく灯っていた。
それは、これまで知らなかった種類のあたたかさ。
机の上には、今日撮ったプリント写真の束。
みんなで笑った顔、屋台の灯り、白い猫のストラップと一緒に撮った一枚。
そして、温也の横顔が映った一瞬のスナップ。
郷子は写真をそっと見つめながら、胸の奥でそっとつぶやいた。
「……これ、ちゃんと届いとるとええけどなあ」
温也の夜――机の明かりと、白い猫
温也は自分の部屋に入ると、いつも通り机にリュックを置き、制服のポケットを探って――
そっと、白い猫のストラップを取り出した。
「ほんまに……これ、俺がもろうてええんやろか」
誰に問うでもない言葉が、夜の静けさに沈んでいく。
小さな猫の瞳が、まっすぐこちらを見つめているように思えた。
こまちゃんに似てる。
それだけじゃなくて――それを選んで、渡してくれた郷子の気持ちが、
言葉じゃないところで、ちゃんと伝わってきた。
温也は引き出しから、小さな工具箱を取り出して、リュックのファスナーの金具にストラップを丁寧につけた。
何度も揺らしてみて、その感触を確かめる。
「……お守りやな。俺も、ちょっとはちゃんとせな」
いつもより早めにベッドに入ったのに、なかなか眠れなかった。
こまちゃんが布団の中に潜り込んできて、小さく「にゃあ」と鳴く。
「おまえも見たやろ? あいつ、今日ちょっと、違ったよな」
猫は答えず、ただあったかい体をすり寄せてきた。
温也は目を閉じて、小さく息をついた。
「……明日、ちゃんと顔、見て話そ」




