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2月17日

朝の通学路。

夜のあいだに降った雪が、まるでふわふわの綿を敷き詰めたみたいに一面を覆っていた。

そんな中、温也はというと——。


「うわっ!」


派手に転んだ。しかも校舎の入り口で。

…よりによって、そんなとこで転ぶかねぇ。



——うちの温也は、昔からちょっとどんくさいとこがあってね。けど、どこか憎めんのよ。ほら、心配して駆け寄ってくれる子もちゃんとおるし。


「おい、大丈夫か、温也!?」

歳也が駆け寄る。

「温也くん、めっちゃ痛そうやん……」

藍も、眉をひそめながら声をかける。


「もう……朝っぱらから心配ばっかりかけよって……」

温也は尻をさすりながら、どこか気まずそうに立ち上がった。


「マジでいてぇ…」


——そんな風に言いながらも、ちょっと嬉しそうな顔するんよね。心配されるの、まんざらでもないみたいな。かわいいやっちゃ。


白い雪を踏みしめながら階段を上る温也の背中に、うっすら雪がくっついていた。


教室に入ると、ぽかぽかとした暖房のぬくもりが迎えてくれる。

温也は自分の席にどかっと座ると、ほっとしたように目を閉じた。


——寒いなかよう頑張って歩いたもんねぇ。いつも見慣れた背中が少し大きく見えて、こんなふうにちょっと大人になっていくんやろうなぁって、思うとよ。


この日は雪の影響で山口線が止まり、車はどこも渋滞で動かない。

そのせいか、教室のあちこちでまだ生徒がそろっていなかった。


「これ、先生も来るの大変じゃろうねぇ……」

藍が、外の様子を見ながらぽつりとつぶやく。


「確かにねぇ。まだ授業始まらんし……雪合戦でもしとくか?」

歳也がおどけて言えば、

「いいねぇ、それ!」

と藍が笑って応える。


——雪って、迷惑なときもあるけど、こんなふうに子どもたちの時間をゆっくりにしてくれる魔法みたいでもあるね。

朝のドタバタが、なんだか愛おしく思えるんよ。


外に出て、皆で雪合戦に興じた。

あの数か月前——。

私がコロナにかかったことをきっかけに、冷たい態度をとってきた小野寺や香川たちも、今ではすっかり元通りだ。

冗談を言い合ったり、ちょっかいをかけたり……まるで何もなかったかのように笑い合える日が、ちゃんと戻ってきたんだ。


「ほら、小野寺いくよ〜!」

「わっ、郷子、ちょっと待ってってば〜!」

「ふふ、待たないよ〜」


私が投げた雪玉は小野寺に命中。

「いってぇ〜。じゃあ今度は、こっちからの攻撃じゃ〜!」

そう言って、小野寺が投げた雪玉はなぜか大きくそれて……香川の顔面にクリーンヒット。


「ぶはっ! 香川の顔、真っ白。雪だるまみたい〜」


みんなで笑ったそのときだった。

ボスッ。——背中に柔らかい衝撃。

振り向けば、温也がニヤリと笑って立っていた。


「あっくん……」

「油断しとるからや〜」


「こらぁ〜! あっくん、あとで覚えときんさいよっ!」


冗談交じりに怒ってみせると、温也はますますおかしそうに笑った。

雪の冷たさよりも、皆の笑い声のほうが、ずっとずっと温かくて。

ほんの短い時間だったけど、胸の奥に灯るような、そんなひとときだった。


やがてチャイムが鳴り、わちゃわちゃとした雪合戦はお開きに。

雪を払って、皆それぞれに笑いながら教室へと戻っていった。


——そう。

あのとき私が信じた、みんなとの関係は、ちゃんとここにあったんだ。



こうして、郷子は心がぽんと温もるような、やさしい時間を過ごしてから授業に向かった。

先生もどうやら渋滞に巻き込まれたようで、教室に入ってきたときには「やれやれ」といった顔をしていた。


その日の授業も無事に終わり、空を覆っていた雪雲はどこかへ去っていった。

冬の柔らかな日差しが差し込む午後、郷子は部活のために部室へ向かった。


部室の鍵を開けて、トロンボーンを取り出す。

楽器の保管庫には暖房なんてないから、楽器そのものが冷えきっていて、そのままでは音程も狂ってしまう。

だから、口をつけて息を吹き込みながら、少しずつ金属の冷たさを和らげていく。


やがて、トロンボーンがほんのり温もってきた頃、音出しを始めた。

今日は、中島みゆきさんの『糸』のイメージに合わせて吹く練習。

ゆっくりと音を紡ぐように、郷子はトロンボーンを構えた。


「郷子、この出だしのとこ、もうちょい音がやわらかう吹けたらええと思うんやけど、どない思う?」

温也が隣から声をかける。


「そうじゃねぇ……ここは繊細な演奏が求められちょるところじゃけぇね。こんな感じかなぁ?」


そう言いながら、郷子は自分の感覚を信じて、音に気持ちを込めてみた。


「うん、さっきよりずっと優しい音になった。ええ感じや。ちょっと俺も吹いてみるわ」


温也も楽器を手に取り、音にイメージを重ねながら吹いていく。


「よっしゃ、こんな感じやな」


「うん……あ、ながちゃんとたかやんも来たよ。一緒に合わせよう」


トロンボーン全員がそろって、音を合わせて演奏を始める。

一つひとつの音が重なって、温かく、やわらかなハーモニーが部室に広がっていった。


「うん、ええ感じ」


そのときだった。文化祭を最後に引退した凛・和美・佐知子の三人が、にこやかに顔を出した。


「先輩!来てくださったんですか?」


「久しぶりじゃねぇ。郷子部長の顔が見たくなって。今、何を演奏しよるん?」


「中島みゆきさんの『糸』です」


「ほぉ~、これはまた難しい曲をやりよるね。うちら、小学校の時の吹奏楽でもこの曲演奏したんじゃけど、サビの感情表現が難しくて、えらい苦労したよ」


「そうなんですねぇ。うちらは今まだ始めたばっかりで、曲のイメージをどうやって出すかってとこです」


「そうか。でもね、郷子たちなら絶対にうまくいくよ。がんばりぃね。今日はちょっと、みんなの演奏がどんなか見たくなったんよ」


やがて、全体練習が始まり、通しで演奏してみる。

やっぱり、凛たちが言ったようにサビの部分の感情表現はむずかしかった。

でも、一回目にしては……まあまあうまくいった方かな、と郷子は思った。


部活も終わり、外はすっかり夕暮れ。

雪はまだ解けきらず、あちこちにアイスバーンが残っていた。


郷子は足元に気をつけながら、歩幅を小さくして帰路につく。


「あっくん、お尻の具合、どうなん?まだ痛い?」


「うーん……だいぶマシにはなったけど、ちょっとはまだ痛むかなぁ」


「そっかぁ。でも、骨に異常なかったけぇ、安心したよ」


「ありがとな。心配してくれて」


「だってさ、未来の旦那様がケガしとるってなったら、そりゃ心配するじゃろう?」


「うわぁ、ありがたいなぁ……未来の嫁さんが、こんなに優しくて」


二人で笑い合いながら、そろりそろりと雪道を歩く。

冗談を交わしながらも、郷子の胸の奥には、確かな温もりが宿っていた。

そして、その夜の空は、どこまでも澄んでいて、静かだった。


帰りは先輩たちと一緒に歩いた。


「ねぇ、寒いけぇ、コンビニで何か温かいもの買って食べん?」と凛が提案すると、和美がすぐに乗っかってきた。


「いいねぇ。肉まんでも食べる?」


「じゃあ、肉まん決定〜」


郷子も笑いながらうなずいた。「あっくん、肉まん好きじゃろ?」


「うん、あれ、皮がふわふわでうまいけぇな」


みんなで学校の近くにあるコンビニに立ち寄り、肉まんを買って支払いを済ませ、店の前で湯気を立てながら食べる。


「ふぅ〜温まる〜」と凛。


「うんまい。たまにはこういうのもいいねぇ」と和美がしみじみ呟いた。


佐知子も嬉しそうに笑って、「こうして集まれるのも、あと少しなんよね。私ら、もうすぐ受験じゃけぇ」


「ほんとじゃね」と凛が肉まんを頬張りながら言う。「かわいい後輩たちの顔、今のうちにいっぱい見とかないとね」


和美が郷子たちに向かって尋ねた。「そういえば、二人はどこ受けるん? もう決めた?」


温也が少し照れたように言う。「まぁ、おぼろげに…。俺は理数系が好きなんで、山口農林高校にしようかと思っとる」


「お〜、あそこはバイオとか化学とか、いろいろ学べるもんねぇ」

と佐知子が目を輝かせた。


「郷子は?」と和美。


「私もあっくんと同じところを受けようと思ってます。理科とか化学が苦手じゃけど、頑張らんとね」


「おお、二人とも意識高いねぇ」と凛が感心したように頷く。「でも、あんたたちなら絶対受かるよ」


佐知子が優しく付け加えた。「受験勉強、大変かもしれんけど、お互いに支え合えるって、ほんとに素敵なことじゃと思うよ」


「うん。ありがと…先輩たちの言葉、なんか心強い」


先輩たちと手を振って別れた後、郷子と温也は二人で並んで歩き出した。


「ねぇ、今日、あっくんの家に寄ってもいい?」


「ああ、ええよ。小町の顔、見たいんやろ?」


「まぁ、そういうこと。こまちゃんとじゃれあってから、帰るけぇ」


「ほいほい」


家の前に着いたとき、温也の足がまた滑った。


「ちょっ…! あっくん、本当に大丈夫なん?」


「まさかここも凍っとるとは思わんかったわ…」


「もぉ、怪我せんように気をつけてよ。今日は転びすぎじゃけぇ」


「なんか今日は呪われとる感じやなぁ」


そう言いながら玄関を開けると、小町がとことこと出迎えに出てきた。


「にゃおーん」


お帰り、って言ってるんかもしれん。小町は二人をひとしきり見つめたあと、自分の特等席であるふかふかのソファーに乗って、また気持ちよさそうに眠り始めた。


「ありゃ〜。こまちゃん、まだ寝るんかぁ」


「こまちゃんの寝顔も、かわいいんよねぇ」


しばらく小町と過ごしてから、郷子は自宅に向かって歩き出した。温也は玄関で見送る。


「そこ、滑るから気をつけてや」


「うん、ありがとう。また明日ね」


こうして雪の降った一日が終わり、しばらくして2月17日、温也の誕生日を迎えた。


「あっくん、誕生日おめでとう。14歳になったねぇ」


「ありがとう。やっとこさ郷子の年に追いついたわ」


「ふふ、まぁ私が5月生まれやからねぇ」


「郷子さん、いらっしゃい。さあさ、上がって」


「はい。では、お邪魔いたします」


今日は湯田家で温也のバースデーパーティ。放課後、郷子は温也の家に向かい、妹の泉やお母さんの瑞穂と一緒に、晩ごはんの準備を手伝うことになっていた。


「お母さん、いい具合に揚がりましたよ」


「さすが郷子さん。泉、あんたも郷子さんの真似してやってごらん」


「うん! 郷子さん、次は何したらいい?」


「じゃあ泉ちゃん、このポテトサラダ、小鉢に分けてくれる? 5つお願い」


「おっけ〜。任せて!」


唐揚げを白いお皿に並べて、周囲にサニーレタスとミニトマトをきれいに添える。コンソメスープには細かく刻んだ野菜が優しく煮え、湯気といっしょに、家じゅうにいい匂いが広がった。


「泉ちゃん、ほんま手際よくなったなぁ」


「えへへ、朝ごはん作るの手伝ってるからなー。朝は私、得意なんよ!」


「うん、私も。お弁当作る日とか、5時半に起きても全然平気」


「すごいよね郷子さん、寝坊して遅刻しそうとか、聞いたことないもん」


「ふふ、泉ちゃんもなかなかやるやん」


「うん! 私たち、朝に強い女子コンビやね!」


笑い合う二人を見て、瑞穂は目を細めていた。


「なんだか本当の姉妹みたいやね、あんたたち」


「うちに郷子さん来てくれると、ほんとに嬉しいんよ。もっと来てほしいなぁ」


「ふふ、それはどうも。じゃあ、また料理教室でも開こうか?」


「やった〜!」


そうこうしているうちに、温かい料理がずらりと並び、湯田家の4人に郷子を加えた5人での、心あたたまるバースデーパーティが始まった。


「お兄ちゃん、14歳になった感想は?」


「うーん、ちょっとだけ大人になった感じ?」


「じゃあ、もう私に起こされんでも朝起きれるね?」


「えぇ〜? 未来の嫁さんに起こしてもらいたいニャ〜」


「やっぱり、まだまだおこちゃまやん」


「まあまあ郷子さん。男の子って、成長より先に甘えが出るのよね」


「うん、ほんまやな泉ちゃん」


「ねー! お兄ちゃん、見習わんと!」


光がくすくすと笑いながら新聞を片づける。


「温也もこれからは、いろんな責任を持つようになるやろ。郷子さんと泉に鍛えてもろてな」


「えぇ〜、お父さんまでそんなぁ」


こうして賑やかに、そしてあたたかく、誕生日の夜は過ぎていった。


食後の片づけをみんなで済ませ、時間はそろそろ9時前。


「それじゃあ、私帰りますね」


「暗いし気をつけてね。温也、送ってあげて」


「うん。行ってくる」


郷子と温也は玄関を出る。


「あっくん、はい。誕生日のプレゼント」


中を開けると、タイガースのロゴ入りの手袋だった。


「うわ~……サンキュ。めっちゃ温かそうやな」


「これ、あっくん絶対喜ぶやろなって思って」


「めっちゃ嬉しい。ありがとう……」


ふと、温也は真剣な表情になり、郷子を見つめる。


「郷子……俺、これからもずっと、郷子と一緒にいたいと思ってる。改めて告白するけど、俺と付き合ってくれてありがとう」


「なに改まって……照れるじゃん。……私も、同じ気持ち。これからもずっと一緒。ともに笑って、ともに泣いて……私がおばあちゃんになっても、よろしくね」


郷子は少し頬を赤く染めて、手を振りながら、夜道を帰っていった。




そしてさらに季節は巡り春休みに入った。


「いよいよ3年生かぁ。受験もあるし、いろいろ忙しくなるねぇ」


そう言いながら、郷子は朝6時に目が覚めた。春休みと言えども、いつものルーティンを崩さない。だけど温也は、まだ眠っているようだった。



春休み。

まだ中学2年生だった郷子と温也は、「中3になる前に思い出作りしよ!」と、前々から計画していた博多日帰り旅行に行く予定だった。


電車の発車時刻は午前7時29分。

そして現在の時刻は――午前6時30分。


郷子のスマホが、ピクリとも反応しない。


「……おかしい。あっくんから“起きた!”のLINEが来ん。これは……事件や」


一瞬の静寂のあと、郷子は玄関を飛び出した。


「寝坊とかありえんのやけどぉぉぉぉぉお!!」


朝の住宅街に響き渡る怒声。

鬼の形相で湯田家に突入。


「失礼しまーす!!(超強制)」


驚いた瑞穂が台所から顔を出す。


「郷子ちゃん!? そんなに走ってどうし――」


「お義母さま、息子さんを引き渡してもらいます。今すぐに」


「え、ええ!? 誘拐!?(違う)」


そのまま郷子は、階段をゴゴゴゴゴ……と駆け上がり、温也の部屋のドアをノックなしで突破。


「おーい、あっくん……!? 寝とるー!!!???」


布団の中には、幸せそうな寝顔で爆睡中の温也。

寝言まで言ってる。


「うふふ……ラーメン替え玉もう一杯……」


「お前は博多に行く前に夢で完食する気かあああ!!」


郷子、即座に布団をひっぺがす。

温也、丸まる。


「さっぶ!! なんで急に冷気攻撃!? バグった!? 夢!? 起きたくない!!」


「起きろ現実ゥ!!」

そして――


\ドンッ!/

冷凍おしぼり、顔面投下。


「ヒィィィッ!? つめたっ!! 冷蔵庫に住んどる妖精かと思った……!!」


「妖精より厄介な彼女やけぇ。あと25分で駅に着かんと、青春が終わるぞ!」


「は、はいぃぃぃ!! いま着替えます! 下着は見ないでくださいィィ!!」


「知らん! 靴下が左右違っても、制服のボタンかけ間違えても、もう知らんけぇ!!」


「郷子さんこそ朝から怒涛すぎるんよ!! しかも完璧に正しいから怖いんよ!!」


そんな修羅場の横を泉が通りかかり、ポツリ。


「お兄ちゃん、たぶん博多よりも修羅の国におるで」


「わかるううぅぅ!!」


全身をぐちゃぐちゃに着替え、なぜかカバンを背負い忘れた温也を、郷子が無言で背中にバッグを装着。


「さ、駅までランや。心の準備は?」


「もう覚悟しかない……!」


こうして、博多どころか全国の寝坊少年たちに勇気を与えるような朝――

郷子と温也の爆走ダッシュが始まったのだった。


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