雪の降った日
3学期が始まり、いよいよ学年末に向けて、学校全体があわただしさを増してきた。吹奏楽部の活動も、郷子と温也を中心にまとまり始め、課題曲として選ばれたのは、中島みゆきさんの『糸』。その練習を皮切りに、本格的な3学期の部活動がスタートした。
――三学期って、なんか特別な空気がある。終わりに近づいてるはずなのに、始まりの気配もある。そんな中で『糸』を吹いてると、なんだか心の奥がじんわりあったまるような気がしたんよね。
「はい、今日はここまで。雪の予報が出てるから、気をつけて帰るのよ」
上山先生から、皆に気をつけて帰るようにと話があって、部員たち全員、
「はーい」
と返事をして、全体練習を終えた部員たちは、それぞれ楽器を片づけ、部室を後にする。
「ひゃ〜、今日も寒いのぅ。手がかじかむわ〜」
「ほんまよ。風も冷たいし……ほら、手袋はめて、上着ちゃんと着て帰らんといけんよ」
「ちょっと待ってぇ、郷子〜!」
「急ぎ〜、凍えそうじゃけ〜!」
――部活のあとの帰り道って、なんでこんなに楽しいんじゃろ。寒さも笑い声で少しぬるうなってく気がした。
そんなやり取りをしていると、ながちゃんとたかやんも追いついてきて、みんなで途中まで一緒に帰ることに。空からは、ちらちらと小雪が舞い降りてきた。
「わ、雪が降り始めたね」
「明日は積もるんかねぇ?」
「どうじゃろ?雪の確率30%とか言いよった気がする」
「ほんなら、ちょっとは期待できるかもね」
「うち、雪が降って真っ白になる世界、好きじゃわ。なんか雪だるま作りとうなるんよ」
「ながちゃんは、ほんま純粋じゃねぇ。うちも小学生のころは、よう雪だるま作りよった」
「大阪じゃ、あんま雪降らんのやろ?」
「そうそう。山のほう行きゃ降るけど、平地で積もることは、わしがおったころはめったになかったんよ」
「へぇ〜。やっぱ、こっちは大阪より寒いん?」
「寒いいうより、冷え込みがきつい感じかな」
――雪の話をしながら歩いとると、子どものころに戻ったみたいで、心がふわっと軽うなる。こんな時間が、ずっと続いたらええのにって、思ってしまうんよ。
そんな何気ない会話を交わしながら、ながちゃんとたかやんは途中で別方向へ。郷子と温也は、ゆっくりと歩きながら、言葉を重ねつつ帰路についた。
「ただいま〜!めっちゃ寒かった〜。手、凍りそうじゃった〜!」
郷子が玄関を開けると、ふわっとあたたかい空気に包まれる。
「ふぅ〜、やっぱり家ん中は最高じゃね……」
「お帰り、郷子。寒かったじゃろ。お風呂沸かしちょるけぇ、先に入りんさい」
「はーい。お父さんは?」
「まだ帰っちょらんよ。今日は会議でちぃと遅うなるらしい」
「そっか。じゃあ、先に入るね」
――お風呂の湯気って、なんであんなに優しいんじゃろ。冷えた体だけじゃなくて、心の芯まであっためてくれる気がするんよね。
郷子は二階の自室に上がり、着替えを準備してからバスタオルを手に脱衣所へ。少しずつ体にお湯をかけて温度に慣らし、ゆっくりと湯船に身を沈める。
お湯の温かさが肌に染み入り、凝り固まっていた筋肉がふわっとほぐれていく。その心地よさに、思わずまぶたが重くなり……うとうとと、眠りに落ちてしまっていた。
気がつけば、湯船につかって20分ほどが経っていた。
一方の温也。
「ただいまぁ〜。寒すぎて凍えそうやわ〜」
玄関を開けた温也が、手をこすりながら帰ってくる。
「お兄ちゃんおかえり〜。明日、雪積もるかなぁ?」
妹がキッチンから顔を出して声をかける。
「どうやろなぁ。鳳翩山のほう、さっき見たら分厚い雲で覆われとったわ」
コートを脱ぎながら言った温也が、ふと周りを見渡す。
「あれ?小町はどこ行ったん?」
「今、リビングでストーブの前で丸くなって寝てる。めっちゃ気持ちよさそうやで」
「そっかぁ。猫って“寝る子”がなまって“猫”になったんやって、知っとった?」
「えっ、そうなん?お兄ちゃん、意外と物知りなんやねぇ〜」
「“意外”て、失礼やなぁ」
温也は笑いながら軽く頭を撫でる。
そこへ、買い物を終えた光と瑞穂が玄関から入ってきた。
光は今朝まで泊まり勤務で、今日は昼までゆっくりできる日だった。
「ただいま〜。寒いなぁ、ほんまに」
「おかえり〜。お父さん、明日、電車止まるかもしれんね」
「うーん、そうかもしれん。天気次第やけど、山口線の宮野より北の区間は、結構怪しいと思うな」
「道路も混みそうやし、お父さんも無理せんといてね」
「ありがとうな。車には雪用の毛布も積んどるし、気ぃつけて行くわ」
「私は明日、雪が積もったらバスで仕事行こうかなって思ってる」
「それがええと思うわ。安全第一やもんね」
瑞穂がエプロンを整えながら言う。
「今日は寒かったし、みんなの体があったまるように、もつ鍋にしようと思って」
「やったぁ!鍋ええなぁ〜、ポカポカなる」
「それとな、大根と人参のなます風サラダも作ったんよ。さっぱりしてて箸休めにちょうどええと思って」
「お母さん、ほんま気がきくなぁ。仕事帰りにこれ食べられるって幸せやわ」
「そう言ってもらえたら、作ったかいがあるわ」
家族で囲むもつ鍋の湯気が、部屋いっぱいに立ちのぼる。ふうふうと息を吹きかけながら、みんなで鍋をつつくその時間は、外の寒さなんて忘れるほどあたたかかった。
一方その頃。
「やば、温かすぎてつい寝てしもうたわ」
「郷子〜。まだお風呂?のぼせちょらん?」
桜が心配そうに脱衣所から声をかける。
「だいじょうぶよ〜!気持ちよすぎてウトウトしよっただけ」
「ならええけど。お父さんも帰ってきたし、ごはんにしよ」
「はーい。すぐ行くけぇね〜」
郷子は着替えて髪を乾かし、食卓へと向かう。
今夜のメニューは、鮭フレークと彩り野菜のサラダ、クリームシチュー、ごま風味のほうれん草のおひたしに、そして新たに加わったのがじゃがいもとチーズのガレット。外はサクッ、中はほくほくの一品だ。
「うわ〜、今日も豪華じゃねぇ!お母さん、ありがとぉ」
「お風呂あがりにちょうどええやろ?寒かったじゃろうけぇ、たっぷり食べて、体あっためんさいね」
「ほんまやね。ガレット、めっちゃおいしい〜。カリッとしちょって中とろっとしちょる!」
父の光も満足そうにうなずく。
「郷子、明日は道、気ぃつけて行かんといけんよ。雪積もっとったら滑りやすいけぇ」
「うん、ありがと。お父さんも朝早いじゃろ?無理せんでね」
「大丈夫よ。お互い気ぃつけて行こうな」
「桜もバスじゃったね。バス停、足元凍っちょったら気ぃつけてよ」
「うん、ありがと。朝、郷子より早いけぇ、雪見て先に様子LINEするね」
――湯気の向こうに見える笑顔。おいしい匂い。気づけば、心までぬくもってる。雪が降る夜は、家族のあたたかさがいちばん身にしみるんよ。
食後、自室に戻った郷子がふとカーテンを開けると、窓の外では雪がしんしんと降り続いていた。
「うわぁ……こりゃ明日、ほんまに銀世界になりそうじゃね」
吐息が白くなりそうな窓越しに、郷子は少し微笑んでつぶやいた。
翌朝。
うっすら目を開けた私は、まだ眠たさが残る頭で、カーテンをそっとめくってみた。
夜の名残が空に残るなかで、しんしんと降り積もる雪――。
その白さに思わず息をのむ。
「わぁ……ようけ積もっとる……真っ白じゃねぇ……」
音がぜんぶ、雪に吸い込まれてしまったみたいに静かで、どこか神聖な朝。
私はパジャマの袖をぎゅっと握って、肩をすくめるように身を縮めた。
階下に降りると、ちょうど父さんが出かけようとしとった。
「お父さん、もう行くん? 道、すべらんように気ぃつけてね」
「おぉ、ありがとな郷子。行ってくるで」
玄関で靴を履いとる父さんを、母さんと並んで見送った。
「ほんま、よぅ積もったねぇ。郷子も学校行くとき、足元に気ぃつけんさいよ」
「そうじゃ、滑って転んでケガでもしたら、笑えんけぇねぇ」
「うん、わかった〜」
母さんと顔見合わせて笑いながら、朝ごはんの席へ。
湯気の立つスープ、カリッと焼けたトースト、真ん中がぷるんとした目玉焼きの黄身。
こんなささいな光景が、私の朝に小さな幸せを運んでくれる。
「……にしても、寒いねぇ」
「冬じゃけぇね。でも朝ごはん食べりゃ、ちぃとはあったまるじゃろ」
食べ終えたら、洗顔して歯磨きして、制服に着替えて――
それからふと思い出すのは、あの人のこと。
――うちの“未来の旦那様”。
「さてと……あっくん、起きとるんじゃろうか?」
二階に上がって、自室の窓から隣の部屋をこっそり覗く。
温也の部屋のカーテンは閉じたまま。灯りもついとらん。
「やっぱ、まだ寝とるわね……」
苦笑しながらスマホを手に取って、電話をかける。数回のコールのあと、ようやくつながった。
「ふぁ〜い……おはにょうごじゃりましゅる〜……」
「ちょっと、あっくん、なにその喋り方。“おはにょうごじゃりましゅる〜”って。
どうせまだ布団の中じゃろ? さっさと起きんさい!」
「ふぇ? ……げ、もうこんな時間!? やっべ……!」
「いったい昨日は、何時まで起きとったんよ」
「いや〜……優しい未来のヨメさんに起こしてもらいたくてなぁ〜」
「どこにそんな嫁がおるんよ。まったく、知らんけぇね。遅刻してもしらんよ?」
「今すぐ起きるでごじゃるっ!」
「……ほんま、大丈夫かいね……」
とは言うものの、頭に浮かんでくるのは――
寝癖で髪がくしゃくしゃのまま、布団の中でジタバタしとる温也の姿。
慌ててパジャマ脱いで、制服のシャツを前後逆に着て、片方の靴下が見つからんくて部屋をぐるぐる……。
「……ぷっ」
思わず笑いがこぼれる。
外は真っ白じゃけど、胸の奥がふんわりあったかくなる。
こういう、なんでもない日常が――なんか、とっても大事に思えてくるんよね。
そして私は、いつもよりちょっと早めに家を出た。
“未来の旦那様”を迎えに行くために。
「ピンポーン」
チャイムを鳴らすと、玄関に光が出てきた。
「郷子さん、おはよう。温也、まだドタバタしとるから。寒いし、ちょっと上がって待ってて。風邪ひいたらいけんしね」
「はい、ほいじゃあ。ちょっとだけお邪魔しますね」
玄関を上がると、泉ちゃんが顔を出した。
「あ、郷子さん! おはようございます。お兄ちゃん、また寝坊ですか?」
「うん、さっき電話したら、まだ夢の中じゃったよ」
「やれやれ……ホンマ、毎度のことですわ〜。郷子さん、こんなお兄ちゃんで、ほんまにすみませんなぁ」
「ううん、もう慣れたけぇ、大丈夫。むしろ……ちょっと可愛いって思いよるくらい」
「えっ、そんなこと言うたら、お兄ちゃん調子乗りますよ?」
「ふふっ、じゃけぇ、内緒にしとこうかね」
「郷子さん、なかなか策士やな〜」
二人でくすくす笑いよると、ようやく奥から温也の声が。
「えぇ〜、もうちょっと待ってぇ〜!」
「お兄ちゃん、郷子さん来てくれとるのに、いつまでモタモタしてんの!」
「ほんまよ〜。うち、今日何回目じゃと思っとるん? あっくん起こすの」
「タイマー使わへんから、こうなるんですわ」
「もしかして、泉ちゃんの方がしっかりしとるんじゃない?」
「それ、よう言われます。年は下でも、精神年齢は上やってな〜」
そんな話をしよったら、ようやく温也が登場。
「ごめーん、待たせた〜。いや〜今日はマジで目覚まし効かんかった……」
「ほんまにもう……夜更かししとったんじゃろ?」
「まぁな。勉強もちょっとしたけど、ゲームもやってしもて……寝たん、たぶん12時前やな」
「勉強終わったら、ちゃんと寝んにゃ。体こわすけぇね」
「はい……反省してるでごじゃる」
「わかっとりゃええんよ」
「お兄ちゃん、その語尾なに。忍者か」
「郷子さんの前やとキャラ変わるんやから〜」
こうして雪の中、いつもの倍くらいの時間かけて、校門まで一緒に歩いた。
そして、校舎に入ろうとした瞬間――
「スッテーン!」
派手にすっ転んだのは、もちろん温也。
「ちょっ⁉ あっくん⁉ 大丈夫なん⁉」
「あイテテテ……」
後頭部に、雪がびっしりくっついとる。
「頭、打ったん?」
「うーん、リュック背負ってたし、直撃はまぬがれたけど……ケツが死んだ……」
「も〜う、朝から未来の旦那様には手ぇ焼くわ〜」
「ハハハ……面目ねぇっす……」
「これ、泉ちゃんにバレたら絶対チクられるやつよ?」
「もちろんですとも!」
こうして、雪に見舞われた一日が――
ちょっとにぎやかに、けどあったかく始まったんよ。




