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月下の涙  作者: しぃ
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一章 琴崎彩夏㊤

これは一人の少女の成長の物語


~一人の少女と異世界の悪役令嬢が織り成す物語~


(※拙い文章と構成だと思いますが、一読していただけると嬉しいです。)

 「もうどうしたらいいか分かんないよ」

真っ暗な部屋の中で琴崎彩夏のすすり泣く声だけが悲しく響く。ベッドを背もたれに、赤いリボンを首元に結んだテディベアを華奢な両手で大事そうに抱え肩を震わせながら琴崎彩夏は語りかける。後ろで軽く結んだ髪が首筋をチクリと刺して薄っすらと赤みを帯びている。


 七月十七日十九時三十分。もう二時間ほど同じ態勢で座っている。カーテン越しに薄く射しこんでいた暖かな陽の既に沈み、外には夜空が広がっている。先ほどまで聴こえていたはずのジージーと鳴くセミの喧騒も既に静まり返っている。時折、仕事終わりなのか車が家の前を通過する音が聴こえるだけで静寂の闇が彩夏を包み込む。均等な距離を保って設置された電柱に備え付けられた街灯の人工的な光が蛍火のようにかすかに感じられる。カーテンの布の隙間から月の光が戸棚に飾られたフィギュアを照らしている。

 階下では母親が夕食の準備をそろそろ終える頃だろう。けれど最近は悩みに押し潰され、空腹を感じることが無くなり食欲という欲求が欠落している。

 学校に行きたくない、教室に入るとクラスのみんなからの何気ない視線にも恐怖を感じてしまう。自分が過剰に意識しているのだろうか。クラスには私の居場所はどこにも無い。それだけは間違いないと思う。


 私は高校でいじめを受けている。正確にはクラスメイトから毎日のように嫌がらせを受けている。高校に行く事とは毎日心の欠片を失っていくようなものだと彩夏は思う。

 最初は周囲の大人にSOSを示せば解決してくれるのだろうかとも考えた。でも両親はダメだ。お父さんは仕事で夜遅くまで忙しそうだし、お母さんもパートや家事で大変そうなのでとても自分の事でこれ以上負担を掛けられない。我が家は引っ越しが多いので居住を転々とする事が多く、環境の変化に慣れるだけでも時間が掛かってしまう。それでは担任はどうだろうか。下手に加害者を刺激してしまうと後で何かされそうと考えると何も出来なくなってしまい、助けを叫ぶ勇気も無い。

 結局周りに気を遣うことが先行してしまい、自分の首を絞める結果にしかならないのだ。

 不安の重圧からテディベアを抱く力が強くなる。

「エレーナがどこか行っちゃった・・。私が先生に呼ばれて居ない間に盗られちゃったのかなぁ」

 お気に入りのエレーナのぬいぐるみ型のストラップを失くしてしまった。泣き続けて垂れた鼻水が唇に触れる。自分の無力ぶりが憎い、彩夏は自分を責める事しか出来ない。何度目か軽く鼻を啜る。


 エレーナとは、私が大好きな乙女ゲーム『月下の涙』に登場するキャラクターである。その中でもいわゆる悪役令嬢に位置づけされている。

『月下の涙』とは近現代の西洋をモチーフにしながらも現代日本の趣が盛り込まれた世界観で時代考証はきちんとしたのかなと思う反面、取っつきやすい作品でもある。貧しい村に生まれたセラ・ウィンリルという少女が百年に一度の奇跡ともいわれる聖属性の魔法が使えたことをきっかけに皇族や貴族の学び舎であるラスヴェル魔導学園へ入学し、キース王子と運命の出逢いを果たす。その後、様々な出来事に翻弄しながらも二人が結ばれる物語である。

 主人公のセラやキース王子の他、王子の友人であるホルトやリック、後にセラの親友となるリズなど様々な登場人物がいるが、私が何より好きなのがエレーナ・ホーデライトという公爵令嬢だ。


 キースの婚約者として登場する彼女は、シルクのようにきめ細やかな金髪を靡かせ、淡く澄んだブルーの瞳は熱を帯びた目つきは鋭く、嫌味を吐いては口角が上がる。細身かつ長身から伸びる手足はスラっとして目を見張る美貌の持ち主である。他人を使い勝手が良い人間かどうか値踏みする節があり、作中の登場人物からはよく思われていないことが多い。一方でプライドは人一倍で、負けず嫌い。勉学に励んでいて頭は良い。有力公爵家のご令嬢であり、何より王子の婚約者であるということから自尊心が非常に強く、自分を差し置いて貧困層の出であるセラがキースと仲良くしていることが気に入らず、あの手この手で嫌がらせをするのだが、キースに悪事がばれてしまう。その後、婚約破棄を言い渡されて追い込まれた挙句、闇の石を使ってセラを殺そうとするも聖属性の魔法で倒されてしまう。

 そのため、一見するとただの悪役令嬢にしか見えないのだが、物語の途中で彼女の寂しさや不安に押しつぶされそうになるシーンが度々映され、彼女の弱さも垣間見える。制作側の配慮なのか、決して彼女を完全悪として描くのではなく、一人の少女として描写されることがあるのだ。ゲームでは最後にセラたちに討たれた際、涙が浮かべながら消滅することになる。

 それまでにもゲームが進展するに連れて自分がキースに本当に愛されているのか、どのように振る舞えば良かったのか、表向きには自信家を演じても実際は心細かったのだろう、といった場面をプレイヤーは見ることになる。

 

 そうした普段は気丈に振る舞っている人間が時に見せる心の弱さや不安といったものが彩夏の心に刺さり、いつの間にかいわゆる”推しキャラ”となっていた。

 また、乙女ゲーム好きの間でも彼女の端正な容姿から男性からの人気を博し、その後女性からも支持を集めるまでに至っている。インターネット上で開催されたファンによる人気投票では一位を獲得することもあった。

 その人気を受けて、公式によって応募者の中から抽選でエレーナの小さなぬいぐるみのストラップが当たるキャンペーンが実施され、彩夏は見事当選したのである。実際に手元に届くと片手に乗るほどの大きさであった。

 それが私の一番の宝物となった。現状、乙女ゲーム『月下の(ムーン・ティアーズ)』唯一の公式限定グッズであり、今ではもう手に入らない代物だ。

 スクールバッグの外側のファスナーで閉まる所に御守りのようにしまう。一緒に出掛けるだけで元気がもらえる気がした。


 その宝物が無くなってしまった。気が気でなかったものの彩夏自身どうしようもなかった。いや、何も出来なかったといった方が正しいのだろう。私はただ泣くことしか出来なかった。何しろ、自分はエレーナのように気丈に振る舞う強さが無い臆病者なのだ。勢いよく鼻水を啜ってしまい鼻の奥が痛い。頬には涙の渇いた跡が残っている。下唇を噛み、テディベアを抱き寄せる。

 現実世界に楽しい事なんて何も無い。独りでに取り返しのつかない過去を悔い、自分の弱さを責めるばかりである。

 幼い頃からずっとそうだった。顔を伏せ、視界が真っ暗になるとこれまでの辛い思い出の闇の中に心が沈んでいく。



 

 この三月に父親の仕事の影響で引っ越してきた。父親は営業の仕事をしていて総合職?だから全国転勤があるんだ、と話していた。

 そのため、これまで何度か引っ越しの経験がある私は友達といえる友達ができたことが無かった。一つの場所で長く生活することが無かったことも友達が居ない理由ではあるものの、何より私の人見知りによるものが大きかった。人と会話をすることに意識が集中するがあまり、どこからともなく現れる極度の緊張感に襲われるのである。いざ人を前にすると頭が真っ白になり、思考がうまくまとまらないのだ。仲良くなりたい、でも自分からはどうしても声を掛けられない。向こうから声を掛けられても咄嗟のことで何を言えばいいのか分からず、しどろもどろになってしまう。そのため、適当な相槌を打つだけで会話が進展しないのである。家族以外の人間と深く関わった経験がなく、顔見知りまでの関係しか築いてこなかったのだ。

 自信なんていうものを持ち合わせていない私にとって勇気なんて言葉、程遠いものなのだと彩夏は思うばかりである。

 話し相手と言えば、幼い頃に父親から誕生日プレゼントでもらったテディベアとエレーナだった。

 学校での出来事や日常の些細な事までぬいぐるみに声を掛けるだけであった。


     *

 引っ越して早々の小学四年生の頃だ。教室に入り、一番奥の窓際の列の後ろから二番目の席が私の席だ。すぐ横には大きな窓があり、校庭全体が見回すことができる位置にある。ある日の昼休み、一人で魔法使いの冒険小説を読んでいた私に気を遣ってくれたのか、一人の女の子が友人を連れて声を掛けてくれた。

 「琴崎さん、何読んでいるの?」

 「えっ、あ、小説だよ」

 突然のことで驚いた私はその子を見上げた。そこにはクラスメイトの山川佳織が友人と共に立っていた。口端を上げ、興味がありそうにこちらを見ている。

 「それ、面白い?なんて言う本なの?」

 一緒にいる友人も少し覗き込むようにしている。

 「え、う、ううん。どうだろ、面白い、かな」

 緊張で顔が引きつるのが分かる。私はこの小説が好きなのだが、内容は少し堅苦しい冒険ものであまり子供が読むようなものではない。こんな小難しいもの読んでいるのっておかしいと思われるかな。でも、面白くないって答えたらじゃあ、なんで読んでいるの?と聞かれるだろうか。はっきり面白いって言えば良かったのかな、本ばかり読んで暗い子だねって言われないかな、なんて返事をするのが正解なのかな。そんなことばかり頭を過るものだから肯定とも否定とも取れない曖昧な返事になってしまう。

 「え、どっち?変なの」

 ”変なの”。その一言でキュッと胸が締め付けられたような感覚になる。コミュニケーションが下手な私にとって何度聞いたか分からないが、何回聞いても慣れない言葉だ。

あの子は何気なく言ったんだろう。だが彩夏の心には毎回刃物が突き立てられたような感覚に襲われる。山川は友人と目を合わせ、クスッと笑いあっている。”変”、そう思われないように思案するのに結果はいつも期待に応えてくれない。それともやはり私は変なのだろうか。

 「ごめん」

 緊張で思わず声が上ずってしまう。山川たち不思議そうな顔でこちらを見る。慌てて何とか取り繕って言葉を選ぼうと思った時、

 「佳織!この前の話なんだけど、」

 と、二人はクラスメイトの女子に呼ばれ、そちらの方へ顔を向ける。

 「あ、ごめん。ちょっと待って。じゃあ、またね琴崎さん」

 そう言って二人は楽しそうに去っていった。

 何に対する『ごめん』なのだろうと自問する。自分で言っておきながら分からなくなる。とりあえず何か答えなきゃ、そればかりが気になってうまく答えられなかったことに対する『ごめん』?気を遣わせてしまったことに対する『ごめん』?

 変だって思われたくない、けど自分から声を掛けられず、面白いことも気の利いたことも言えない。簡単な相槌を打つので精一杯だ。一つ一つのやり取りの後、疲労と後悔が渦巻いて襲ってくる。こんな気苦労を毎回するなら話さなければいい、でも本当は友達が欲しいんだ。思考が右往左往するこの酸っぱい味にもう慣れてしまった。

 机に突っ伏して泣き出しそうになる。みんな簡単に出来ることが私には出来ないのだ。

 「私、ダサいなぁ」

 周りが楽しそうにしているほど、自分がちっぽけな存在なのだと認識させられる。

 

 一つ一つは些細なものであるのだが、そんな経験ばかりを積んでしまった結果、私は自分から声を掛けようとすることはもとより、無理に友達を作ろうとせず一人でいることを選ぶようになってしまった。本当は話せる友達が欲しいんだ。それでも、自信がない。声をかける勇気もない。気負う必要があるのならば、一人で居ることを選べばいい。誰も気を遣わなくていいんだ、それがある種の安心材料になっていてずるずるここまできてしまった。

     *



 そんな私がそれから二度の引っ越しを経て、この四月から引っ越した先の公立高校へ入学した。

 引っ越した先は都会でもなければ田園が広がっているような田舎でもない。どちらとも言えない中途半端な地域だった。

 高校では入学式が終わると、新入生たちは列を成して体育館を後にしたが、次第に散り散りになって各々の教室に戻っていく。教室に戻ると地元の出身中学の生徒同士で構成されたグループが既に出来上がりつつあり談笑している。

 引っ越してきた私はいつものようにどこにも属さない一人として席に着き、鞄から本を取り出す。本の世界に浸ろうと思ったが周囲から聞こえる楽しそうな話し声に気を取られてしまう。席の周りでも幾つかのグループが出来ており、中には複数のグループが固まって早速、連絡先の交換を行っていた。

 グループに所属できた生徒たちは初日からわざわざ独り者に声を掛けようとは思わないだろう。新天地の初日にそんなことをするお人好しなんて居ないんだ。


 少し時間が経つと若い女性が教室に入ってきた。

 「はい、みんな静かに、席に着いて。出席取りますよ」

 彼女が先生のようだ。茶髪で長い髪を後ろでお団子にして結んでいる。三十歳くらいだろうか。グレーのセットアップスーツ、白のブラウス姿で落ち着いた雰囲気を醸している。右手の薬指には指輪をしている。右手にも何か意味があったような気がするが思い出せない。眉は少し薄っすらとしており目力が強い。怒ると怖そうだ。

 生徒たちはそれぞれ自分の席に着く。着席し終えたことを確認すると先生はチョークを手に取り、黒板に大きな字で”黒田静加”と書いた。

 「まずは皆さん、入学おめでとう。私は担任の黒田静加です。皆さんはこれで義務教育という過程を終えて高校生という大人への階段を一段上がったことになります。高校を卒業するといよいよ成人を迎えることになるので子供でいられる最後の時間になります。世間から子供として見られる最後の三年です」

 黒田先生は生徒たちを見渡し軽く手を叩いて続ける。

 「ある意味、この三年間は大人になる準備期間とも言えます。自分の将来について考えなくてはならない時期にもなります。将来何になりたいか。それも大事ですが、自分の行動に対して責任をもって行動できる人間になれることを何より心掛けてください。それじゃ、話を変えて私の担当科目は現代文です。皆さん一年間よろしくお願いします。色々と話したい事はありますが、配布するものがたくさんあるので私の紹介はここまで。早速だけど一人一人名前を呼ぶから返事をしてください」

 そう言うと日誌を開く。

 「安藤翔太」

 「はい」

 「井上里穂」

 「はい」

 順番に点呼を取る。はい、と返事するだけなのに妙な緊張感に襲われるのは何故だろう。

 「琴崎彩夏」

 「はい」

 自分の点呼が終わり緊張の糸が解けたように、大役を果たしたの如くふぅ、とため息をつく。

 その後も順に続いていく。

 「田島諒太」

 「はい!」

 隣の席の田島諒太と名乗る男子生徒は元気よく返事をする。ちらっと彼の顔を見ると向こうも気付いたのか目が合った。

 「よろしくね」

 気まずい、これは気まずい。何を言えばいいのか分からなくなる。声にならない声では、はいとだけ呟くとさっと顔を背ける。サッパリと短く整えた髪型と手入れされた眉、目鼻立ちのはっきりとした端正な顔立ちから白い歯を見せて人懐っこそうに微笑んでくる。体格はがっしりしているという訳ではないが着痩せするタイプなのかもしれない。私とは住む世界が違う人間でこの類の人種は緊張感の欠片もないのだろう。勝手に心の中で感心する。周囲の女子がちらちらと彼を見ては黄色い声が上げている。なるほど、これをイケメンというのだろう。彼にもその声は届いているはずだが、聞き慣れているのか聞き流しているのか。どちらにしてもうらやましい限りだと思う。

 

 と同時にきっと、こういう人たちは生きていくのがさぞかし楽しいだろうなとも思う。ルックスの良い人間というのは本人にその気がなくとも余程のことがない限り、自然と周囲に人が集まってくるのである。私の悩みを相談したら鼻で笑われるかもしれない。そんなことを考えている間にも点呼は続いていく。

 田島は返事をする生徒を目で追っていく。その後も私は何度か彼を横目で見ていた。彼のクシャっとした目尻がとても印象的だった。


 点呼の後、配布物も一通り配り終わり、黒田は誰か、プリントが届いていないという者はいないか、と投げかけながら教室を見渡す。

 「よし、じゃあ最後に部活動の入部届を配ります。うちは部活動は強制ではありませんがせっかくの高校生活です。勉強だけではなく色んなことを経験しておくようにな。明日から各部活の紹介が始まるから、まだ決めかねている生徒が居たらぜひ見てきてください」

 簡単に説明を済ませるとまた、最前列の生徒たちにプリントを渡して回る。

 部活動は強制ではなかったが、帰宅部を選択する者は事前に先生に報告に来るように、とのことだった。開けられた窓から春の温かい風が流れ込んでいた。



 いくつかの目ぼしい部活を定め、部活紹介を一通り回り悩みに悩んだ結果、文学部に入部することにした。理由は入学式の翌日、多くの部活動が体育館に集結し活動紹介が行われた際の事。まずは人気の高い野球部やサッカー部といった体育会系から始まり、吹奏楽部や軽音楽部、ダンス部といった音楽系の部活が続く。

 みんながみんな、青春を楽しもうぜ、というオーラを醸しており私と対極にいる人達だなぁと彩夏は思った。それぞれに華があり「今」という瞬間を楽しもうぜと口を揃えて言っているようだ。文化部は最後の方にまとめて紹介された。その中に文学部が混じっていた。文学部の部活動紹介では所属人数が少ないこと、特に目立ったイベントや賞への参加が無かったことなどを挙げていた。いったいその紹介で誰が興味を持つんだと彩夏は思ったものの、そういう自分がその楽さに惹かれていると恥ずかしさから途端に顔が赤くなるのを感じる。でも、まあこれなら目立った大会も無いし、最悪幽霊部員になっても誰も何も思うまい。そもそも運動神経の悪い私には運動部の選択肢なんて最初から無いのだが。

 帰宅部でも良いかなとも思ったが、先生への報告が必要なうえになぜ部活に入らないのか、と聞かれるらしく億劫に感じたのと同時になんだか良くないことだ、と言われているようにも感じられてやめた。せっかくの青い三年間だ、何もしないのももったいないと自分を言い聞かせる。

 もし、友達が一人でも居ればと思ってしまうが、そもそも知り合いすら居ない。

 運よく乙女ゲームやアニメといった私の趣味に共感してくれる人でも居てくれたら良いな。そのくらい軽い気持ちで行こう、人見知りにはこうした自己完結型の落ち着きが常時必要なのだ。


 翌日の放課後、彩夏は部室と言われた教室の前にやってきた。彩夏の通う高校は各学年の教室が集まる教室棟と音楽室や美術室、文化部が使う教室などが集まった特別棟の二棟に分かれており、一階と二階でそれぞれ廊下が伸びてつながっている。文学部の部室は特別棟の三階の一番奥の部屋だ。一階や二階では吹奏楽部や美術部など割と活気のある部活らしくたくさんの生徒が集まっていた。その一方で三階はまるで世界が変わったかのように薄暗く、部室前に掲げてあるプレートの文字は掠れて字が潰れていた。

 「こんにちは」

 ドアを開けると微かにかび臭いようなツンとした臭いが鼻を刺激する。部室として使用されている部屋はまるで倉庫のように様々な荷物でごった返している。部屋の真ん中には四つの机が正方形に並べられており、その上には無造作に小説や原稿が置かれ、よく見ると中には漫画も混ざっている。壁際のロッカーにはカレンダーや部活の所連絡のプリントの他、雑多なシールやステッカーが貼られており、戸の金具の部分が外れかけてうまく閉まっていない。戸全体の至る所が錆びている。カーテンは閉め切れているものの隙間から射しこむ陽の光で仄かに温かい。黒板には誰かの似顔絵が描かれており、目の部分に赤と青のマグネットになっている。

 机に似合わないキャスター付きの黒革椅子が三脚あり、そのうち二脚に女子生徒が座っている。

 「あの、」

 「あ、新入生の子?こんなところにまで来てくれたんだ」

 そう言ってこちらに気付いた眼鏡をかけた女子生徒が立ち上がる。少し気怠そうな目つきをしている。

 「あ、はい、文学部はこちらであってますよね」

 「そうだよ、ここが文学部の聖域です。と言ったってこんな奥地でやってる部活なんてうちくらいだよ。まあ、そこに座りなよ」

 そう言って手招きしながら黒革椅子の一つを引く。意外と快活な人間なのかもしれない。そう思いながらすみません、と言い彩夏は案内された椅子に腰掛ける。革の椅子だからか座り心地がよく背もたれも広いのでどこかの会社の社長にでもなった気分だ。

 「でも今年はラッキーだよ!まさか二人も入部志望者が来るなんて!」

 先輩と思われる女子が嬉々として手を叩く。彩夏ともう一人の女子が隣同士にし、彼女は向かいの椅子に座る。隣に座っている子がもう一人の入部生だろうかとちらっと様子を窺う。彼女は視線に気付くと彩夏の方を向き、よろしく、とだけ言い会釈する。頭を下げるのに合わせて黒髪が彼女の顔の右側を覆い隠す。目に感情が籠っていない。それだけで自然と苦手意識を持ってしまう。最初から良くない癖が出た、と彩夏は内心汗をかく。そんなやり取りを眺めながら先輩が正面の椅子に座るなり、あっと声を漏らした。

 「そう言えば自己紹介がまだだったね。私は文学部部長の横島実子です。学年は三年。うちは進学校でもあるから部活によっては二年生で引退するところもあるんだけど、うちはまあ、ほら紹介の時にも言ったけどガチで何かを目指しているとか練習しているとか、そういったものは無いから三年生でも続けているわけ。と言うかこの部屋は静かだから受験勉強にもってこいっていうのもあって受験直前まで使っている先輩もいるよ。そのくらい楽な部活なんだよね。それに部長って言っても特に何かするって訳でもないし、ほとんど形式的に肩書があるだけだから」

 そう言いながら横島は白い歯を見せて笑い彩夏たちを交互に見る。その事は部活紹介で聞いている。ははは、と作り笑いをして取り繕う。まあ、そうじゃないと来なかったんだけど。この人はまだ話しやすそうだと心のセンサーが反応する。

 「本当はあと二人部員がいるんだけど今日は私一人なんだよね。一人は映画、もう一人は図書館で勉強するって言って。ここでも出来るのにって言ったらお前が邪魔するだろって」

 横島はそんな事どうでも良いかと笑う。

 「まあ、こんな感じで気楽な部だからよろしくね。よし、それじゃお二人さんの自己紹介をしてもらいましょうか。じゃあまずは岸澤さん、さっきも軽くお話させてもらったけど、改めてお願いします」

 岸澤という子ははい、とだけ言うと立ち上がる。横島は「そんな畏まらずに座ったままでいいよ」と言い、そうですか、とだけ返すと彼女は姿勢よく着席する。

 「一年三組、岸澤美月です。先程も話した通り読書が好きなのでこの部活を選びました。よろしくお願いします」

 肩まで伸びる綺麗な黒髪を靡かせ生真面目そうに会釈する。感情が無くどう接したらいいのだろうと彩夏は感じた。岸澤は挨拶を済ませるとこちらを見る。今度は彩夏の番だ。言う事なんて何も考えてないし、何を話すのが良いのか分からない。二人の視線を感じるだけで頭の中が混線してしまいそうだ。

 「一年四組の琴崎彩夏です。私も読書は好きです。よろしくお願いします」

 岸澤の真似るように軽く会釈する。

 「これまた真面目な子が入ってきたねえ。やってる事は真面目じゃないのに」

 そう言いながら横島は意地悪そうに笑う。

 「本当は楽そうだから選んだとかじゃないの、うち特に大会とかもないし」

 岸澤は少しだけ考える仕草をするとこくんと頷いた。

 「実際それもありますね、私はスポ魂?みたいなのが好きじゃなくて。ただ、どこか部活には所属しておきたいな、と。それだけです」

 「岸澤ちゃんは正直だねえ。うちに好んで見学にくる子なんてだいたいそんな感じなのばかりだからね。たまに本気で文章を書くのが好きな子だったり図書室に好きな小説でも掲示しませんか、てやる気のある子も入ってくるんだけどまあ、そこはギャップってやつ?やる気満々な子ほど次第に来なくなるんだよね。だからここ数年の部活紹介であんな抜けた紹介をするようになったわけ。おかげで入部希望者も随分と減っちゃったけど」

 横島はケタケタ笑っている。そう言う彼女も同じような人間なのだろう。夢も何もあったものじゃないけれど楽しそうではあるかも、と彩夏は内心呟いた。

 「まあ、今日は挨拶だけにしてさ、早いところ帰りな。他の部員はどうせ今日は来ないだろうし、また明日ね」

 岸澤は分かりました、と言うなりそそくさと荷物をまとめ席を立つ。彩夏も慌てて鞄を手に取り岸澤の後に続く。

 「お疲れさまでした」

 それだけ言うと部室を後にした。居心地は悪くなさそうだ。

 

 部室を出て、階段を降りると目前には音楽室があり、中では吹奏楽部が新入生たちにオリエンテーションを受けている。

 「ああ言ういかにも頑張ってます、みたいなの好きじゃないんだよね」

 岸澤が廊下で横を通り過ぎるなりつぶやく。まあ、私も苦手なのだけどと彩夏は思う。

 「そうなんだ」

 「漫画の世界での青春は好きなんだけど、現実の青春はそんなになんだよね。なんだか人生楽しんでいる自分たちいかしてるだろ、みたいなああ言うの鼻につくって言うか。そう言えば琴崎さんはなんで文学部に入ったの」

 「私も似たような理由だよ。周りも部活はいる人が多いし、何かしら入っておいた方がいいかなって。だけど私も運動部のノリ?みたいなのが苦手で。ここならって思ったからかな」

 「ふうん、私たち似てるね」

 「そうだね」

 「そういえば琴崎さんはどんな本を読むの?」

 「え?」

 「えって、さっき言ってたじゃん」

 「あれは岸澤さんの言葉を借りたって言うか」

 「なるほどね」

 岸澤はクスクス笑っている。

 「理由なんてなんでもいいのに」

 「良いのが思いつかなくて、」

 「真面目なんだね」

 「じゃあ岸澤さんはどんなの読むの」

 「え?私は普通に小説が多いかな。後はライトノベルとかキャラクターの文庫とかかな」

 彩夏はパッと顔を輝かせる。もしかしたら趣味が合うかもしれない。

 「私もそういうの読むよ。令嬢物とか好きなんだ」

 「ああ、最近流行っているもんね」

 「ゲームもやってるんだよ」

 自分の好きなものの事となると自然と早口になる。

 「エレーナのだっけ?あれ人気だよね。私も少しだけやったことあるよ」

 岸澤も多少の知識はあるようだ。

 「え、本当?いいよね『月下の涙』。私はエレーナが好きなんだ。岸澤さんは好きなキャラとか居る?」

 饒舌になり顔が熱くなる。間髪入れず質問攻めにすると岸澤は少し戸惑った顔をする。

 「そこまで詳しくないんだけど。そんなに好きなの?」

 好きなことになると前のめりになってしまう。好きなんだ、と伝えると彼女も私と同じく乙女ゲームやアニメが好きな他、ノベルゲームもいくつか遊んでいたと言う。ノベルゲームとは画面に表示されるテキストを読み進めるゲームを指し、選択肢によって物語が変わったりする。乙女ゲームもノベルゲームに近しいものとも言える。


 下駄箱まで歩いたところで岸澤は教室に取りに行くものがあると言って別れた。彩夏は靴を履き替えると一人帰路についた。


 クラスの中ではその後もこれまでと何も変わる事もなく一人で居ることが普通だった。時々、田島が話しかけてくること以外クラスメイトと雑談をするなんてことはほとんどなかった。そのため高校での楽しみのすべてが部活動に注がれていた。

 彩夏は部活動以外は誰かと遊ぶ事も無かったので、勉強に時間を費やせた。そのおかげで学校の授業に遅れる事は無かったが、クラスの中ではいつの間にか本を読んで過ごすいわゆる”ぼっち”としての立場を築いていた。


 ただ、そんな私の状況が一変する事態が起きた。

 入学して最初の定期テストとなる中間試験。担任の黒田によって現代文の中間テストが返される。

 「琴崎、よく頑張ったな」

 黒田は満足そうに微笑んでいる。彩夏は答案用紙を受け取ると点数を見る。九十六点。最初からなかなかの滑り出しだ。友達が居なかった分、こちらに集中できた。数学も英語も世界史も化学も九十点を超えており、いい結果を期待できそうだ。

 「全員テストを返却したな。今回の結果だが、平均点はちょうど七十点だ。最初の定期試験だぞ、もう少しいい結果を期待していたんだが。それはそうと、学年最高点がうちのクラスから出たことはうれしい限りだ。琴崎さん、おめでとう」


 黒田が笑みを見せたと同時に周りの生徒が一斉にこちらを見る。少し恥ずかしさもあって俯いてしまう。先生もわざわざそんな事言わなくていいのに。別に私は目立ちたくて勉強しているわけではない。このような善意による行為だから責めるわけにもいかず質が悪い。彩夏は肩身の狭い思いがした。

 「すごいね、琴崎さん!頭いいんだ」

 隣から田島の声が聞こえた。顔を上げると田島の輝かせた目と目が合った。純粋に尊敬の眼差しを向けられる事に慣れておらず顔に熱が籠る。何か返事をするべきなのか思慮し始めたが、田島はそうだ、と呟くと両手を合わせて懇願するような仕草をする。

 「ねえねえ、琴崎さん。良かったら俺に勉強を教えてくれない?あ、そうそう琴崎さん数学も得意?」

 「今回の範囲なら大丈夫だと思うけど・・・」

 「あ、じゃあ教えてよ。俺、赤点で追試に引っかかっちゃってさ」

 照れくさそうにする田島を見て少し落ち着いてきた。うまく話せるかはわからないけれど人の頼みは断れない。ましてや男子と授業以外で話す機会などほとんど無かったような気がする。緊張しながらも「う、うん」と首を縦に振る。田島はほっとした顔をしてすぐに笑顔を作る。

 「ごめんね、追試までの一週間の間だからお願いしていいかな?」

 「え、うん。いいよ」

 重ねて確認する田島に同じように返事をする。聞き間違いとでも思ったのだろうか。

 「やった!ありがとう!」

 田島が安堵する様子を見てこちらも安堵する。そうしたやり取りを済ませると田島は彩夏に手を振り、友人たちの元へ歩いて行った。友人たちは田島を取り囲み、ズルいぞと談笑している。

 彩夏はその空気に居心地が悪くなり、気恥ずかしそうに席を立ち、目的もなく、教室を出るのであった。


 その翌日から田島に勉強を教えるようになった。放課後の教室に二人だけ居残り、数学の追試の範囲を教える日々が続いた。追試まで一週間ほどしかなかったけれど、私には充実感のある日々となった。誰かと長く会話をするという経験が今まで無かったのだ。最初はうまく話せるのかばかり気になり、クラスの人気者を前に何を話せばいいのか分からなかったのに時間とは慣れを運んできてくれる。気が付けば田島とかなり仲良くなれたような気もしてくる。もちろんほとんど田島によるフォローのおかげなのだが。彩夏がたどたどしい態度を示すと決まって返答をしやすいように質問をしてくれる。はいかいいえで答えられるものや一言で返答できるように質問を投げかけてくれた。陽キャという生き物はコミュニケーションのお化けだと言う人もいるが、言い得て妙だ、と今なら思える。教えられているのは私の方かもしれないと彩夏はつくづく思う。


 追試の前日に通学途中にある駅にあるカフェにも行き、勉強のお礼だとケーキとコーヒーを奢ってくれることになった。チェーン店のカフェに入りチーズケーキとホットコーヒーを注文すると二人席へ移動する。向かい合って座ると田島は鞄からノートと筆記用具を広げた。

 「琴崎さん、本当に色々とありがとう」

 コーヒーを一口飲んでから田島は朗らかに言う。いつの間にか彼と話す事に慣れを感じている自分が居た。こんな私とでもここまで仲良くしてくれるんだ、と彩夏は時々感心する。

 「そんなことはないよ、田島君も理解するのが速いから勉強したらあっという間に成績上がっちゃうんじゃない?」

 「ははは、みんなを見返してやれるくらいの成績を取ってみたいよね。まあでも実際にはこんな追い詰められた場合じゃなきゃ勉強なんてしないだろうなあ」

 田島はしみじみと呟く。普段から勉強をしない人間がすぐに気持ちを入れ替えて勉学に時間を注ぐ、なんていう事は少ないだろう。

 「そうかな」

 「そうだよ」

 田島はきっとその気になれば成績なんてすぐ伸びる、その事は事実だと思う。要領も理解力も良い田島の事だから勉強するクセさえ身につけばある程度の成績を取る事は簡単だろう。

 ただ、彩夏にとって今や田島の成績などどうでもよく感じていた。私にとってとっても大事なことだ。私たちはもう”友達”なのだろうかということ。田島の口から聞きたい、けれど実際に尋ねようとすると途端に怖くなる。

 「あの・・・さ、私たちって”友達”ってことでいいのかな?」

 「え、何言ってんの?とっくに友達だと思ってたよ」

 田島は笑っている。きっと田島君は魔法使いなんだ。誰かと居て楽しいと思えたことが何故だかくすぐったいように思う。照れ隠しにコーヒーを一口すすった。

 自分の顔が熱くなるのを感じる。やけどを隠すのに精一杯だった。


 追試が始まる前、田島は「じゃあ、頑張ってくるよ」と親しげに手を振って教室から出ていった。

 どう田島君の役に立てていますように。それだけを祈り、教室で待っていようかとも思ったが、よくよく考えたら一緒に帰る約束もしていないのに待っているのも変かもしれない、と思い先に帰ることにした。

 


 追試の翌日。後から登校してきた田島が教室に入り、彩夏に手を振りながらやって来る。

 「おはよう、琴崎さん。追試の件、おかげさまで何とかなりそうだよ。教えてもらった通り公式を使ってみたら何とかなったよ、ありがとう」

 田島は嬉々としている。見ているこちらも嬉しくなる。人から感謝されるのはいつ以来だっただろうか。

 「そんな、いいよ。実際は田島君が勉強を頑張った成果なんだから。でもよかったね」

 結果はまだ分からないけれどおそらく心配いらないだろう。勉強を教えていくと田島はすぐに理解し、問題をすらすらと解いていった。あれだけ出来たら心配する必要はもう無いだろうと彩夏は思っていた。

 「あ、そうだ。琴崎さん、これからは彩夏って呼んでいい?俺の事は諒太でいいから」

 「へ?」

 突然の注文に口がぽかんと開く。この人は本気で言ってる?とりあえず落ち着こう、状況を整理する時間が必要だ。途端に緊張感に襲われる。田島を見ると楽しそうにこちらを見つめ返してくる。眩しい、なんだこれは。なんて返したらいいのか分からず思った事が口から飛び出した。

 「う、うん」

 田島はよっしゃ、とガッツポーズをすると「じゃまた後でね」とだけ言い、席から離れていった。


四限目が終わりお昼休みに入ると、弁当を持って屋上へ続く階段に座り一人で食べている。屋上は基本的に施錠されているため生徒が立ち寄ることは少ないので一人の空間が確保されるのだ。階段は外からの光が射さず湿気がこもっている。また両側には段ボールに小道具などが入った段ボールが並べられており、密閉感も感じられる。

 そんな蟠りを持ちながらも一人の特等席に来ると落ち着くのである。階段に座り、一つ伸びをすると弁当箱を開ける。そぼろご飯にプチトマト、ウインナーといつもの内容だ。だが今日は、そんな私の憩いの場に客人がやって来た。

 

 「ねえ、琴崎さん。ちょっといい?」

 クラスメイトの安川千穂だ。ボブカットの黒髪に仄かに描いたであろう眉に大きなつり目から威圧感がある。言葉尻に棘があるような言い方をする彼女はクラスカーストの最上位にいる佐名川亜美の取り巻きの一人である。

 「どうかしましたか」

 おそるおそる尋ねる彩夏に千穂は笑みを浮かべる。

 「少し話したいことがあるの」

 「は、はい」

 「琴崎さんって、田島君とどういう関係なの」

 「え、友達なだけですけど・・・」

 「でも、放課後に二人でいるところを見られているのよ」

 「田島君が追試になっちゃったから勉強を教えていただけですけど」

 「嘘ね、それだけじゃないでしょう。楽しそうにしてたって聞いたわよ」

 「そ、それは・・世間話くらいは、」

 急に棘のある言い方になった千穂を見る。何か良くない事をしたのだろうか、いったい何の事だろうか。

 「本当は付き合っている、とかなんじゃないの」

 彼女は何を言っているのか彩夏が理解するのに数秒かかった。付き合っているって、私と田島君が?そんな事あるわけがない。

 「い、いや付き合ってなんていません。本当に勉強を少しだけ教えていただけです」

 安川がため息をつくと

 「ねぇ、いつまでかかっているの」

 と階下から別の声が近づいてきた。一人の女子生徒が登ってきた。彼女は佐名川亜美。鎖骨まで伸びた髪は艶やかで薄桃色の唇をキュッと結んでいる。彩夏の前に立つと前髪をいじり始め、ちらっと安川を見やった。

 「亜美さん、こいつが・・」

 安川が言い終わるより先に佐名川は口を挟んだ。

 「琴崎さん、あんた嘘吐いてないわよね?」

 彩夏はこくりと頷いた。佐名川は彩夏に微笑んだ。

 「ごめんね、琴崎さん。ほら千穂、行くわよ」

 佐名川は安川に声を掛け琴崎に背を向けて階段を降りて行き、安川が後に続いた。佐名川が階段を降りる直前、一瞬彩夏を睨みつけていった。彩夏はひっと声を上げると後は二人の後姿を見送るしかなかった。



 それは突然始まった。

 登校して席に着くとどこからか視線を感じる。だが周囲を見回してみても誰とも目が合わない。一限目は数学だ。授業で使うノートを引出しから取り出したがすぐに違和感に気付いた。ノートを開けるとたくさんの落書きが目に付いた。ブス、淫乱女、死ねなど思いついた悪口が書き殴られている。誰がこんな事を、と思ったが咄嗟に佐名川の顔が脳裏にちらついた。まるで蛇に睨まれた蛙のように体が硬直する。私、何か間違った事を言ったかな、と頭の中で渦を巻く。呼吸が乱れ始め、途端に喉が焼けるような感覚に襲われる。唾を飲み込む事が出来ず、胸がむかむかしてくる。突如として襲ってきた吐き気に耐え切れず、トイレに駆け込んだ。

 胃液が逆流して口から吐き出しそうなのに唾液と空気しか出てこない。しばらく喉の痛みを堪えながら呼吸の乱れを整えようとする。吐き気が治まってきた事で体の震えも治まってきたが、今度は頭の中がショートし、何も考えられなくなる。

 予鈴が鳴り響く。もうじき朝のホームルームが始まる。鞄を肩にかけ不安と恐怖の気持ちを抑えながら教室に戻る。

 ノートは使えなくなったので教科書の空いたスペースに板書を写した。


 次の日は教科書にも落書きがあった。またその次の日には下駄箱の中にゴミが散乱しており、上履きがぐっしょりと濡れていた。誰にも相談する事が出来ず、そのまま履くしかなかった。出来るだけ周囲にも気付かれないように隠し通すのに必死だった。誰がこんな事をしているのかある程度想像は出来る。けれど碌に相談出来る相手も居なければ当然、田島には話す事は出来なかった。


 また次の日、相変わらず下駄箱は汚れていたが周りに気付かれないように気を配りながら上履きに履き替える。教室に入り、自席に着くと教科書を引出し取り出す。すると、至る所に落書きがしてあった。それだけでなく破り取られたページもある。今日からは全部家に持ち帰ろう、そう思った時、背後から声がする。

 「何それ、ひっど~い!琴崎さん、いったいそれどうしたの」

 佐名川が心配そうな声が聞こえ、恐怖でパッと振り向く。目が合うと彼女はいかにも怯えたような表情をしている。あまりにもわざとらしい演技に彩夏の心に小さな怒りの炎が点る。彼女はさっと彩夏の耳元まで顔を近づける。

 「あんた、覚悟しておきなさい。もし誰かに言ったりしたら分かってるよね」

 凍った声が響いた。佐名川はそれだけ言うと顔を離し、何か辛いことがあったら相談に来てね、とだけ言い残し去っていった。


 それからいじめはどんどんエスカレートしていった。

 目を離した隙に筆箱に画鋲が入れられていることもあった。

 「どうしたの、何かあった?」

 落ち込んだ様子の彩夏を見て田島が声を掛けてきた事があったがなんでもない、と作り笑いをして断るしかなかった。

 佐名川が田島のことを好いているのはすぐに分かった。毎日どころか休み時間ごとに田島の席にやって来るのだ。だから怖かった。何も言えなかった。田島君に話しかけられても適当にはぐらかすしかなかった。黙っていることで嵐が過ぎるのを待った。

 「田島君、おはよう。ねえねえ、駅前のカフェにね、新商品が出たんだって、放課後にでも一緒に行かない?」

 彩夏に対する態度ではなく、いつもより高く甘えるような声で話しかける。彼女は事あるごとに田島に話しかけ、いつも甘えるような表情でだった。

 

 ひと月近く経ち、田島君とも他愛もない適当な話しかしなくなっていった。彼が話しかけても私が逃げるようにその場を去っているのである。毎日何かしらの嫌がらせを受け、体裁を取り繕っていた彩夏は疲弊しきっていた。テスト週間で部活動が休みに入って以降、彩夏は一度も部室に顔を出していない。岸澤とは部活で顔を合わす程度ではあったが、すっかり打ち解ける仲になっていた。ただ、そんな彼女にも相談しようと思わなかった。”友達”のポジションに一番近い場所にいる彼女に迷惑を掛けたくないし、いじめがばれるのも怖いと思ってしまうからだ。

 


 そして夏休み目前の七月十七日。先生にプリントを提出した後、職員室から戻った時、教室の入り口で安川とばったり会った。自然とその場で体が固まってしまう。しかし、彼女は何も言わず横をすり抜けると足早に去っていった。

 「良かった」

 と安堵したのも束の間、ハッと自分の席に戻る。また何かされたのか、気になって仕方なくなる。筆箱も教科書も机の上も今回は無事なようだ。机に掛けてある鞄を取って中身を確認しようとした時、鞄の外側のファスナーが半分開いていることに気が付いた。そこがエレーナのぬいぐるみストラップが入れてあったところだ。

 「え、待って。無い、無い、無い!」

 御守りとして鞄に入れて持ち歩いていたエレーナのストラップが無くなっていた。慌てて机の周囲を見渡し床に落ちていないか確認する。次に教室後方にあるロッカーを確認する。当然そこにも無い。鞄から取り出すことも無いので失くすことは無いはずだ。時間が過ぎるのも忘れるほど必死になって教室や廊下、ゴミ箱まで探したものの見つかることはなかった。

 ふと安川の顔が頭を過る。一度考え始めると最悪の想像が頭を支配する。

 外ではセミが忙しなく鳴き続けている。西日が熱気を帯びた光で教室を華やかに輝かせている。対照的に彩夏の体から熱が抜けていく。



 気が付くといつの間にか家の前まで帰ってきていた。帰路の記憶が抜け落ち、ただ機械的な動きで玄関を開け、階段を駆け上がり自室に籠る。

 「彩夏?帰ってきたの?」

 階下から母親の理子の声がする。スリッパをパカパカと鳴らし、理子が階段を上がってくる。

 「彩夏?帰ってきているならただいまくらい言いなさい」

 理子がノックする。

 「ただいま」

 気の抜けた言い方になる。

 「‥‥‥何かあったの?」

 「ううん。別に何もないよ。ちょっと探し物しているだけだから」

 笑顔を無理やり作って誤魔化そうとする。母親に変な心配はかけたくない。探し物と言う事だけは本当だ。

 「そう。手洗いうがいはちゃんとしなさいね」

 母はそれだけ言うと階段を降りていく。母親がどこか遠くへ歩いていくように感じる。

 ベッドにもたれ掛かり山の字に折った両足の間に顔を埋める。

 私に元気を与えてくれたものだ。学校で辛い時間が続いてもあの子を握りしめていれば少しは心が軽くなっていた。

 自分の半身が欠けたような気がする。その夜は一睡も出来なかった。



 彩夏の気分とは裏腹に今日は朝から日差しが燦々と照り付けている。周囲では夏休みを前に意気揚々とした生徒たちが挨拶を交わしている。

 教室に到着しても快活な声があちこちから聞こえてくる。彩夏は席に着くなり、鞄を机に置いて教室後方にある自分のロッカーを確認する。当然そこにエレーナは居ない。

 「琴崎さん。これもしかして琴崎さんの?」

 背後から明るい調子で声が掛けられる。彩夏は振り返った瞬間に体が硬直してしまった。声の主は佐名川だった。だが、彩夏が固まったのは佐名川だから、ではなくその手に握られているものを見たからだ。

 「これね、昨日教室に落ちていたんだって。それでね、誰のだろうって聞いて回っていたんだけど」

 唾を飲み込もうとしても喉が渇き、うまく飲み込めずに嗚咽が出そうになる。佐名川の手に握られていたものは紛れもなくエレーナのストラップだった。

 「首が取れてて怖いよねぇ」

 そういう佐名川はどこか楽しそうに彩夏を観察している。その後ろで安川がクスクスと笑っているのが目に入る。

 「そ、それ、返して。返して!」

 咄嗟に掴みかかろうとすると佐名川は「こわっ」とだけ言い彩夏の腕から逃れる。

 「ほら、琴崎さん。自分の物なんだったらちゃんと大事にしなさいね」

 エレーナが彩夏の掌の上に落ちる。首が綺麗に取れており、その断面からは綿が零れ落ちそうに溢れ出ていた。

 不思議と涙は出なかった。自分でも恐ろしいほどに目が乾燥している。悔しさも怒りも悲しさも何も感じない。ただ、周囲の声がどこか遠くの方から聞こえ、視界は歪んで見えていた。



 

お読みいただきありがとうございました。

拙い文章ではありますが、今後も精進しながら書き続けていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

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