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「ベイン、気分が悪い?」
そしてその夜。金曜日の夜。
騎士団寮の自室でアンナは物思いにふけるベインを気遣う。
「ん? どうしてそう思った?」
「なんか黙ってるから」
この部屋はクララクリースから特別にあてがわれた部屋で、騎士団の寮の一室にしては十分な広さがある。
ここでベインはアンナと二人で暮らしている
質素なベッドに座り、床につかない足をぶらつかせがら、アンナはベインをじっとみすえる。
それに対してベインはベッドから離れたテーブルに頬を付きながら、少しだけ間をおいて答えた。
「考え事してたんだよ」
「ベインに考え事、似合わない。ベインは単純」
室内の薄暗い明暗も相まって、アンナはやや表情に影をつくってベインの悩みを探る。そんなアンナの言葉を受けてベインは、ははっと笑う。
「昔、幼なじみに真っ直ぐ進めって言われたからな。だから俺はまっすぐ進んでるだけだよ」
「そう? でもやっぱりベインは悩あんまり悩まない感じがする」
自己に対する評価を受けてベインは、茶化してみせた。
「おいおい、俺だって悩むこともあるぞ? 危険なドラゴンと対峙したり、姫さまに対して慣れない敬語を使ったり、よくわからない妄想につき合わされたり、お前が予想の斜め上をいく行動に出たりする時、とかな」
「クララの頼みごとが嫌なの?」
けれどアンナは直球で問いかける。
あまりにも潔いその問いかけにごまかしは通用しない。ベインは正直に答えざるを得なかった。
「――そうだよ。気が進まないんだ」
「どうして?」
アンナはなおも不思議そうにたたみかける。
紅の瞳が好奇心で大きく開かれて、身を乗り出したせいで緑色の髪が揺れる。こういうアンナの仕草を見るとベインは思うのだ。
まるで生まれたばかりの子供のようだ、と。
「下層街はベインの知ってる場所なんでしょ?」
土曜日になるとクララクリースはとある王族の責務のため、一人で王都から離れる。
その理由をベインは知っているが、行き先までは知らない。特に知ろうともしていなかった。
クララクリースの責務の都合上、ベインは土曜日だけクララクリースの護衛から解放されるのである。だがたいていの場合、言いつけられた仕事や単純なクララクリースのわがままによって、土曜日は潰されていく。
けれど気乗りしない理由はそれではない。
「ああ、知っている場所だな。それに懐かしい場所でもある。俺にとってはいつも帰りたくてたまらないとすら思う場所だよ――でも、だから嫌なんだ」
そして昼間も別れ際にベインはクララクリースから仕事を言いつけられていた。
それは『明日、私はいつも通りこの王都を留守にしますが、その間に下層街での調査をお願いしたいのです』というものであった。
下層街におもむくのは、ベインにとっては何よりも気が乗らない仕事だ。
「会いたくない人に会うかもしれないからな……」
アンナはずっと揺らしていた足元をぴたっと止ませる。
それから遠慮がちに、ほんの少しためらいながら、ベインに尋ねる。
「ベイン……その人のこと、嫌い?」
悲しそうな声音だ。まるで自分のことを気にするかのような悲愴感がアンナの声には込められている。アンナはどうにもベインの嫌悪感に敏感であるというのが、ベインの評価だ。
ベインはテーブルの上にのる木製のコップから水を飲む。
のどを潤し、それからしみじみと吐き出すように語りだす。アンナを安心させようとなるべく穏やかな風を保ったままだ。
「嫌いだったら良かったんだけどな。好きだから、面倒くさいんだよ。『ミスト』っていうもう一年以上会ってない幼なじみなんだけどな、そいつにバッタリ会うのが怖い」
「? 幼なじみって何?」
ああ、そんなことまで忘れているのか、とベインは改めてアンナが記憶喪失なのだと思い知ら
される。
「生まれてからずっと一緒に育ってきたやつのことだよ」
「ベインとわたしみたいなの?」
「ああ、ちょっと似てるかもな」
ベインはくすくすと笑うが、すぐに真面目な表情を取り戻す。
「俺はそいつに正体を知られるのが嫌だ。もう俺は死んでしまっているんだって、もう人間じゃないんだって、うっかり知られて悲しませるのが嫌だ。もしかしたら拒絶されるかもしれない――だからミストに会うかもしれない場所に行きたくなくて、迷っている」
アンナは難しい言葉を聞いたみたいに、眉を寄せて考え込む。
やがて導き出された答えはシンプルなものだった。
「わたしはベインが死んでても嫌いにならないよ」
その言葉にベインは少しだけ救われる。
アンナとベインは似た者同士だ。
自分の存在がよくわからなくて、どこへ行けばよいのかわからない迷子だ。
ベインは一度死にながらも、生きているという矛盾した存在として。
アンナは記憶を失い、自分がどこから来て、何をするためにここにいるのか、わからないために。
だからベインは、今自分に一番近しい存在であるアンナに拒否されなかったのが、ひどく心に沁みていた。
「そうか……俺もお前が好きだよ」
「ベインの尻軽……」
「どうしてそういう言葉は忘れていないんだ?」
「クララやそのミストにも同じこというんでしょ」
「言わねえよ」
呆れながら、ベインはランプの灯りを消してゆく。
窓から月明かりだけが差し込む中、アンナの赤い瞳だけがらんらんと輝く。赤は暗い場所でも色を失わない。
「明日は早い。もう寝ろ」
「うん、おやすみなさい」
アンナはベッドに横になる。
やがてすーすーと穏やかな寝息が聞こえるころ、ベインは己に問うのだった。
「俺は……何のために道を引き返してきたんだっけ」
誰も答えてはくれないけれど、金曜日の晩は平等に更けていく。