死
ところが、そんなことよりも大変なことになっていた。エツコのがんが再発していた。
エツコのがんは全身に転移、気づいたときには末期状態、リンパを取らなかったのが良かったと言っていたエツコだけれど、実は全く反対で、リンパを通して全身にがん細胞は転移していった。
エツコは整形外科へ行って診療を受けていた。
「痛いのは神経通か筋肉痛よねえ」
「いや、がんが全身に転移していると私は考えます」
医師にそんなショックなことを聞かされて、現実を見つめたエツコ。すぐさま本村家にエツコは電話を掛けた。多恵が電話を取ったが相手がエツコと分かると急に受話器を持ったまま多恵は黙り込み、何もしゃべらなくなった。
電話口でエツコは悲壮な声で叫ぶけれど、さすがに多恵も「だからどうしたの?」とでも言うように、しらっと冷めて違うことを考え、エツコの話は聞いていなかった。
電話越しにエツコは訴える。
お布施をしなさい!
お布施をしなさい!
お布施をしなさい!
何バカなこと言ってるの? 金払ったからってがんが治るなんて話、あたし聞いたことがない。
……あなたは死ぬのよ、エツコ。
多恵は冷淡に心の中で言い放った。すると哀れを絵に描いたようなエツコ。追いすがるように電話口でお布施お布施と言いつつけるだけのエツコだった。
エツコが死んでもなお、そのエツコを憎み続けるとしたら、それは多恵自身ぞっとするものを感じないわけではない。人に対して恨み怨念、怒りの気持ちが心にあふれかえったとしても、そういうときには許す心があっていいんじゃないか。
今さら入院したところで、エツコには処置のしようもなし。家で最後の時を迎えることになった。救命病棟から帰ってきてボロボロの体のエツコは家から出られない。本村家には当然やってくるわけがない。医師も今さらどうでもいいでしょうと、効果などないと分かり切っている岩塩を飲むことをエツコに許し、ひたすらエツコは岩塩をコーヒーに入れて飲み続けた。
「多恵ちゃんお布施を……」と言っても、多恵だってもう立派な反抗期に入った。はっきり言ってエツコは大っ嫌いだと、多恵はエツコの顔を見に行こうともしない。誰が見舞いになんて行くもんか。
多恵がそんな自分に対する鬼の心を持っていたとは、今の今までエツコは悟らなかった。エツコは自分がしゃべるばかりで、人の話を聞かないんだから当然のことでしょ?
「多恵ちゃん、今どうしてるの?」
エツコの世話をしに行った多恵のお母さんに、エツコは尋ねた。多恵の湧き上がってとどまらないエツコに対する怒り、憎しみ。
学校の阿古井鳥は寿命で死んだらしい。エツコも同じようにさっさと死になさい。
「多恵ちゃん、お布施を……」という言葉をエツコは最後に残した。エツコは死んだ。今朝取り立てのトマトのように新鮮な感覚がした。
エツコが死んでみると、憑き物が落ちたように多恵は不登校から一転して何の抵抗もなく学校へ行けるようになった。しかし今までに一年半という時間がたっていて、それは長かった。多恵は小学五年生から中学一年生になっていた。
新しい制服を着て中学校へ行ってみると、なんだかみんな大人びた雰囲気になっていた。
「多恵ちゃん、学校来たの?」
みんなが喜んで一斉に多恵を囲む。入学式の朝、間に合ったよーと多恵は笑った。
地蔵がほこりにまみれてテレビの横に立っている。
「お前、そんなケチ臭い顔して、何もかも見てきたな」入学式から帰ってきた多恵は呟きつつ、地蔵を両手で抱きかかえるようにして、ふっと地蔵の頭に息を吹きかけてほこりを飛ばした。
「ねえ、がん地蔵」
いつの間に多恵がつけた地蔵の名前。なんでがん地蔵なのかな。
がんで死ぬからがん地蔵。
岩でできているからがん地蔵。
すべてを見つめ続けた目のがん地蔵。
「なんでもいいや」
がん地蔵はその次の日に廃棄物業者のトラックに乗せられて、本村家を去るのも惜しいような顔で念仏でも唱えるように、ブーンとエンジンの音とともにまっすぐ道を走って角の信号で一度停まり、信号が青に変わると、右に曲がって消えていった。