あり地獄
エツコが駅の階段で足を踏み外して骨折をした。日柄方角を見て、訳の分からない田舎の病院に入院して手術を受けた。
病院ではテレビドラマのロケをしていて有名な人気俳優がやってきてサインをもらい、レストランの料理長である入院患者の息子からは豪華な食事の差し入れがあり、二週間の入院生活は天国のようであったと言う。
たとえ骨折しても、決して弱音を吐かないエツコって、もしかして凄いの?
「それがいけないんです。洗脳、マインドコントロールですね。多恵ちゃんは相当に洗脳されていますよ」
少し語気を荒くして、心療内科の先生はきつい目で言った。
洗脳? あ、あたしは洗脳にかかってるの? 多恵はそう考えると急に強い理性が働き始めた。とは言っても。
エツコの入院中、しばらくのんびりした日が続いた。
「少し買い物しようか」おお母さんが多恵に言う。
「うん」全身脱力して、つまらなそうに多恵は返事した。
商店街のケーキ屋の前を通り過ぎようとして思わず親子で脚を止めた。
「ケーキ買っていく? お母さんケーキ食べたいな」
「ケーキ買っても、家に帰るとエツコの亡霊に食べられちゃうって言ったでしょ?」
そうね……。母は心配した通り多恵の頭は重く洗脳されかかっている気がする。
「じゃあ、前と同じようにシュークリームにしようか? 天気もいいし、また公園で食べよう」
「……うん、それならそれでもいいけれど」
しかし、多恵は公園のありとあらゆる場所を念入りに調べている。前よりも何かがきつくなっているような気がする。公園のベンチに母子二人で座ってシュークリームを食べた。
「……多恵」
「何……」
「そんなことはないと思うけれど、死にたいとか思ってない?」
一瞬、多恵は目の前の空を見つめた。
「いや、いくら何でも、そこまでは思ってないよ」
そう言って多恵はごまかし笑いをした。心の中では明日にでも、今晩にでも、今すぐにでも……。
「何とか、渡辺さんには、うちにはもう来ないようにしてもらおうと考えてるんだけど」
どうしても、渡辺さんは、何かと理由をつけては、うちに来ちゃうからねえ。
そう聞いて、想いもしないことを多恵は言って笑った。
「エツコも淋しいんだよ。本当はうちの家族になりたいくらい淋しいんだよ。子供がいないってそのくらい淋しい事なんだよ」
「多恵、本当にそう思う?」
違う。多恵は心の奥で、そう言葉が聞こえた。
あれはアリジゴクだ。
他人の持っている幸せも何もかも、およそ全てのものを奪っていくことしか、エツコの頭の中にはない。
ブラックホールのように際限なく、ありとあらゆる何もかも、物質だけではなく命も精神も存在も、人の幸せも生きる肯定も、歩き続ける勇気も何もかも何もかも、本当に何もかも、全てを奪いつくすことしかエツコの思考回路にはない。
多恵ははっきりとそう考えたわけではなかったが、そんな風に心の中で感じた。
エツコは何もかもを奪いつくす強欲な悪魔なんだ。
多恵にはこのことを母親にどのように言えばいいか分からず、この時もどかしくて仕方がなかった。
がんには岩塩が効くとうわさで聞いたエツコは、多恵の入れるコーヒーに岩塩を入れて飲むようになった。まずそうにコーヒーを飲んでいるエツコ。
――この人、アタマの中心まで岩塩で煮詰めた塩ウニのような脳みその、バカでマヌケな人でなしんんじゃないの?
多恵の心はいつしかこの五十女を見下していた。エツコは何ごとでも自分の都合のいいようにハナシを解釈していく。
「あの人ひどいのよ? 余命ひと月だって」それに比べて、あたしはこんなに元気になっちゃった。やはり信仰のたまものよね」
多恵ちゃん。現人神を見た気分でしょ。あたしをみていると神々しいでしょでしょ。今日はお布施を倍額にしなさい?
倍額?
多恵はすくっと立って貯金箱を手にしたかと思うと中の一円玉を思いきりテーブルの上にまき散らした。テーブルの上でチャラチャラと音を立てて飛び跳ねる一円玉。
エツコはその小銭を広い始め、そのことに手いっぱいで、多恵がわざとそのようにまき散らしたと悟らない。
それどころか満面の笑みで笑うエツコ。
「偉いわね、多恵ちゃん」
多恵はにこりともせずに立ち上がったままエツコを見下していた。