ネギ味噌ラーメン
多恵の友達が、学校の授業のプリントを渡しに来た。
「多恵ちゃん、そろそろ学校来なよ」
「うん……」
「どうして来れないの?」
「なんだか疲れちゃって。学校いくのがしんどい。多分登校するのに、学校までたどり着かずに行き倒れになって、そのまま朽ちて枯れて死にそう」
朝起きるのが十時だよ? 「これじゃ学校どころじゃない家庭環境」っていうのがあるんだよ? 多恵がそう不満を漏らすと、「えー? 十時まで寝てるの?うらやましいな」と、友達は笑うばかり。「ちょっとは人の苦労も思い至りなさいよ」と多恵はぴしゃりと言う。
それより水槽のマリモはどうなった?と多恵は尋ねた。
「元気だよ、少し大きくなったみたい」
「そっか」
それを聞いて多恵は嬉しそうに笑った。
「オバちゃん、コーヒー買ってくる。日柄方角いい?」
「いいわよ、いってらっしゃい」
日柄方角と言えば、軟禁状態も解放してくれる。わざとタラタラ遅くに帰ってくると、エツコは本村家に残っていた残飯を食べていた。
今夜は主人が外で食べて来るから、自分一人だけの食事を作る意味がないとエツコが言うと、お母さんがちょこまかとうちのご飯の食べ残しを皿に盛りつけていた。
「ああ、おなかいっぱい。ただで夕飯食べちゃった。得しちゃったー」
他人の家の残飯を食べて「得しちゃったー」だって。多恵が昨日、食べ残したハンバーグや、冷蔵庫に三日も置いてあったほうれん草なんかを、お母さんが調理しなおして、エツコに出した。
「さあ、多恵ちゃんお布施して。主人が帰ってくるから急いで」
エツコが午後九時だと時計を見て慌てだした。なんだよ、そのお布施のもらい方は。お布施お布施って、ただ集金してるだけじゃないかよ。
冬の雨の夜に、子どものいないエツコ、夫の帰ってこない時間帯。一人きりの家で心細いのは分かるけど、どうしてうちにばかり電話をかけて来るの?
「本村さん、単一の電池ない?」
雨が降るような寒い日はバカなエツコのことだから、口では偉そうに日参と言いながら、実際にはうちには来ないと来たもんだ。と思っていたら、いきなりエツコから電話はかかってきて、電池はない?だって。
単一の電池なんて、そうそうどこのご家庭にも置いてる昨今じゃないでしょ?エツコのうちにないのなら、本村家にだってないよ。ないと分かっていてわざとエツコのやつ、電話かけて来るんだよ?
重ねて言うが、うちにだって単一の電池なんてあるもんか。自分で買いに行くのが寒くて嫌だから、うちに電話してきたに決まっている。うちのお母さんは頼まれたら断れないっていうことを分かっているから。
そしてこういうとき、誰がそのどこにもない単一電池をこの雨降る冷たい夜に調達しに行かなければならないか。そんなこと聞かなくても分かってる。多恵はもしこれを拒否すればエツコにどんな仕打ちを受けるか分からない。それでなくてもお布施、お布施なのに。
外は今年一番の寒さだ。かじかむ手に傘の支柱を垂れて来る冷たい雨しずく。多恵は泣きながら鬼の仕打ちを受けているように夜の道を歩いていた。気が付いたらやっぱりあたしは歩いているよ。
多恵が一人で傘をさして電池を買いに行く。手にあかぎれが出来て、うつむいたまま歩く多恵は雨の冷たさに鬼のささやきを聞いていた。思わず多恵は「ばかあ!」と叫んでいた。
電池を買って、渡辺家の呼び鈴を鳴らすと、エツコは表に出ても来なければ、顔を見せようともする気もない。
「下駄箱の上に電池を置いて。風邪をひくから早く帰りなさい」
インターホン越しにそう言うエツコ、あのババア、金を払わないつもりだ。自分から人にねだるときは平気な顔でねだってくるくせに、反対の立場になるとどうにもこうもケチなんだ。
* *
「大王様、今宵一食分のネギ味噌ラーメンを……」
「誰がお前なんぞにネギ味噌ラーメンを食わせてやるものか」
この頃あたし、絵がうまくなってきたなあ。怨念があたしをプロの漫画家へと後押ししているのかな。エツコが今日も家にやってきて下らないハナシをしているんだよ。
「となりの遠藤さん、あたしの夫婦の旅行のたびにお土産買ってきてあげているのに、夕食作るのにおネギ分けていただけない? と尋ねるたびに、『他人の食卓に分けるネギはないわよ』ですって。あれは凄いドケチよね。どうして遠藤さんってあんなにケチなのかしら」
自分たちは好き勝手に夫婦で旅行へ行って楽しんでるくせに。普通そんなに遊び歩いているような気楽な生活なんてしてらんないよ。そんな当てつけのような旅行のお土産なんてどこのご家庭もいらないって。
そんな土産を受け取らされて、代わりにろくろくスーパーにもいかないエツコのために、なんで生活必需品のネギをくれてやらなければならないの? 誰だって安売りを狙って必死こいて買ってくるネギだよ。
しかし耳を疑うのは、その次のエツコのセリフだ。
「本村さん、ここのうちおネギある?」
遠藤さんをさんざん悪くこき下ろした話題のあとで、あたしのうちのネギをねだるの? こういう展開では本村さんちにもネギはないとは言えないじゃないか。
ただ、本当にネギはないと嘘をつかなければ、これからエツコは本村家へ来るたびにネギをねだり始めるに決まってる。
つまらない嘘だが、「あらー、うちにもネギはないわ」とお母さんが言った。バカな嘘をついたもんだから、そうすると誰かがスーパーまでネギを買いに行かなければならなくなるのは当然のこと。ネギを買いに行く、それは誰? 当然、あ・た・し。
「ネギ、買ってきたけど」
多恵がつまらなそうに帰ってくるとエツコは笑顔になって、校長先生のように偉大な教育者、という風情の顔で、多恵をほめるような口調になった。
「いいことをしたわね。多恵ちゃんもこの頃ずいぶん成長したわ。おばちゃんは嬉しい。さ、多恵ちゃん。お布施をしなさい」
あたしが金払ってネギ買ってきたのに、どうしてまたあたしがお布施なんかで金取られなければならないの?
多恵は顔を真っ赤にして怒った。何も言えずに黙ってふてくされた。
* *
多恵は眠れない日が続き、お母さんに連れられて診療内科へ通い始めた。眠れないことと、心の調子がおかしいことをいうと、ほんの軽い薬のシロップを先生は処方してくれた。
水子の霊? 祟り? お布施が足りない? 運勢のめぐりが悪い? 一念を念じていない? エツコを心から崇めていない? 次から次へと出て来る宗教用語に、これは心療内科の先生も唖然と真顔になって考え込んだ。
「近所の方がお宅へ毎日いらっしゃって、そういうことをお話になっているんですか?」
一体どういうことだろう? 先生はぶつぶつ独りごとを呟いていた。そして、それは確かにうちの病院へ、多恵ちゃんが来なければならなくなるような事には、なるんじゃないですか? と言った。
「小学生なんて言う年ごろから、そんな怪しい宗教関係の人とお付き合いをしていたら、年齢が上がっていくとともに娘さんは洗脳されていきますよ。マインドコントロールって言われますよね。分かります? そのような付き合いはすぐにやめてください」
「ですけど、その人がずかずかと家に上がり込んでくるもので」
「断ればいいじゃないですか? 上がり込むのを辞めさせられないんですか?」
「相当な人ですから……」
心療内科の帰り道、電車に乗るのも苦しかった。「緊張のしすぎです。このままだと障害者になってしまいますよ?」
「障害者?」
「出来るだけリラックスできる環境を作ってあげてください」
医師にはそういわれて、駅前のラーメン屋でお昼ごはんにネギ味噌ラーメンを食べた。
「あちっ!」多恵が大声を上げる。
「そんなに急いで食べなくてもいいよ」
「ネギ味噌ラーメンが夢にまで出てきて。お母さん、あたしネギ味噌ラーメンを十杯食べたら死ねるかな」
「え?」
とにかくゆっくり食べなさいと醤油ラーメンを食べているお母さんは、多恵のラーメンを食べている姿を見つめ続けた。
お母さんと公園に入って滑り台に登ったら、お母さんがスマホのカメラで多恵を写した。
「少し気が晴れたね」
「うん」
「多恵、ケーキ買って帰ろうか」
「ダメ!そんなの絶対にダメ!家に持って帰るとエツコに横取りされて食べられちゃう!」
母は娘の言動に、マインドコントロールという、心療内科で言われた言葉が頭によぎった。すでに多恵は何らかの心のコントロールを受けている……?
「じゃあ、シュークリーム買って、この公園で食べようか」
多恵はその時不思議な行動に出た。公園内のエツコが隠れていそうな場所をすべて改めるように探した後、「それでいいっか」と応える。
障害者?多恵が? そんなバカな。でも、多恵の言動はどんどんおかしくなっていく。このまま話が通じ合わなくなって、将来結婚も出来なくなるような娘になったらどうしよう?
母と二人、多恵は滑り台でシュークリームを食べた。
「多恵、少しは太らないのかしら」
「やだよ、あたし太りたくなんかないよ」
「でもこの頃ガリガリになってきた」
「いいよそれで。理想体重だ」