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がん地蔵  作者: 西本麻弥
2/8

乗っ取り

 エツコのがんの手術をした病院は、ある宗教で日柄方角を見てもらい決めたそうである。かなりの田舎の病院を選んだという。田舎の医者は「どうしてこんな病院へ来たんですか?」と驚いて困り顔になった。それまで一度もがんの手術なんてした経験のない外科医だった。

 しかしエツコは、とにかく日柄方角でこの病院を選んだのです。この病院こそなんです。そう頼み込んで、がんの手術を任せたそうである。

 強く外科医を説得したこと、そしてがんの手術をさせたこと。

 いかに日柄方角が大切か、それを説く宗教が人間として生きる上で、どれほど重要なことかということを、夜の帰る時間も忘れてエツコは本村家で説いている。

 エツコは腕をぐるぐる回しながら見て見て、こんなに自由に腕が動くのよ、凄いでしょと真顔で言っている。

「リンパを取らなかったから腕がこんなに動くの。こんな手術をしてもらえるのも日柄方角を見てのこと。やっぱり信仰のたまものよねえ」

 多恵ちゃんコーヒーいれて。

「はい……?」

 多恵がエツコの横顔を見ると、エツコはすでに違う話をしている。まるで太古の昔から当たり前のようにそうさせていたように、エツコは多恵にコーヒーをいれさせようとしている。

テーブルの上にはエツコの家にあった、古くてかび臭そうな飲みかけのインスタントコーヒーの瓶が置いてある。

「このコーヒー飲むんですか?」多恵はさすがにぞっとする。

「違うよ多恵、この前買ったばかりのコーヒーがあるから、それをいれなさい」お母さんが食事を作りに席を立ちながら口を挟む。

 古いコーヒーは、あたしのうちで飲んで処分するように持ってきて、その代わりに本村家のコーヒーをかっさらうようにエツコは飲んでいく。

 お母さん、そんな風にエツコの策略に乗せられてばかりいたらこの家はエツコに乗っ取られるよ?多恵は心の中で母に向かって不安を訴えた。


             *           *


 ある日、エツコが高さ十五センチほどの小さな地蔵を持ってきて勝手に本村家の応接間に置いた。石材屋が五百円ほどのクズ石を掘って地蔵にしたところ、バカなエツコが十万円で買ってきた。

「十万円?!」

 多恵は目を真ん丸にして驚いた。金額を聞くとかなりの貴重な置物に見えてくる。触るのも手が震えて怖い。

 エツコはガンの手術を日柄方角で病院を決めるほどの、狂信的な新興宗教の信者だが、そんな宗教の信者にありがちな、あの手この手を使って新しい信者を獲得することに躍起になる人だということに気づかなかったことがうかつだった。

 他人の家に勝手に地蔵を置くだけならともかく、多恵はエツコとともに一日三十分、地蔵に向かって呪文を唱えさせられ始めた。

 宗教と言っても、呪文と言っても。

「多恵ちゃん、呪文じゃないのよ。これはお経と言ってとてもありがたいんだから」

 ありがたい? 何が?

 毎日三十分。毎日毎日。お経を唱えさせられる。その間にお母さんは家事ができてよかったかもしれないけれど、こんなことをしているあたしって何だろう。多恵は思春期に入り始めたようで内向的に悩みの世界に浸りこんでいた。

 盆暮れ正月。土日夏休みなし。毎日毎日呪文は続いていく。そんな勢いで、お経。経典を見ているとルビはふっているものの、漢字のられつ。見ているだけで目が痛くなり、頭がくらくらする。正座をさせられた足がしびれる。

 そんなことをしているうちに疲れが翌日まで残り、多恵は少しずつ学校を遅刻するようになった。だってどれだけお経でエネルギーを使い果たして、朝は疲れて起きられなくなったと思う?

 次第に多恵は学校を欠席するようになり、そしてとうとう全く学校へ通えない不登校児になってしまった。


              *            *


エツコは健康食品のマニアでもあった。学校へ行かなくなった多恵にエツコは栄養を摂らせて元気を取り戻させようとした。

「オバちゃんはね、野菜は嫌いだから食べないの。そんなものより健康食品には六十種類もの植物の栄養素が入っているから、野菜よりよっぽど栄養があって体にいいのよ」

 そういう問題の話かなあ? 多恵は何かずれるものを感じて、エツコの話を黙って聞いていた。

エツコは構わずにプロテインという健康食品についての、何がどのように効果があって体にいいのかを微に入り細に入り説明し始めた。

 まるでテレビでコマーシャルをやってる感じ。エツコの顔の右上あたりに0120の電話番号が浮かび上がりそう。バカみたい。


小学五年生の多恵にとって、お経を毎日あげさせられるのはさすがにやり過ぎだと、多恵の母は多恵に読経させるのならこれ以上はエツコを家には上げさせられないと電話した。

 エツコはさも申し訳なさそうにおろおろ泣きながら、私が悪かった、もうそんなことはさせない、多恵ちゃんに謝りたいと殊勝に言っていた。

 おろおろ泣くなよ、わざとらしい。お母さんだって読経させるのならもう家には上げられない、じゃないでしょ? 申し訳ないけれど、もう家には来てくださらないかしらとスパッと切っちゃうもんでしょ? 多恵は母の電話のやり取りを聞きながら不満全開に複雑な心境でいた。

 国会議員選挙があってエツコが小学校へ行くと飼育小屋に阿古井鳥が飼育されていたとエツコが多恵の家に飛び込んできて、いかにも大ニュースだというようにエツコははしゃいで叫ぶ。阿古井鳥がどうしたんだろう。……って、外見はにわとりと変わらないし、生む卵もやっぱり白くて丸い卵。だけどこの卵ががんに対する強い免疫を持っているという。

 多恵は飼育委員会の委員長。その多恵が命を懸けて育ててきた動物にまでエツコの触手は伸びるのか?あたしの阿古井鳥に何をしようとするの?

「小学校の子、阿古井鳥の卵くれないかしら?」

 健康と言えばここまで執着するエツコなんだ、気が狂っているとしか思えない。ところが次の日にやってきたエツコはまるであっけらかんと言った。

「阿古井鳥の卵を食べますと、お医者様に言ったら、私がそんなものを処方しましたか?って怒られちゃった」

 ソファでいかにも面白い話という風にしゃべっているエツコを前にして、エツコの高笑いには多恵は意識が遠のいていくような気がする。


* *


ある晴れた朝、季節はもう冬になっていた。多恵は赤いジャンパーを着てお母さんと近所の公園へ出かけた。

「今日は風もなくて外へ出られてよかったね」

「うん」

 多恵は滑り台に上って、滑って降りた。

 もうすぐお昼、おなかがすいてきた。でも公園にある時計を見て、これが正午を過ぎると今日もまた気の滅入る時間が始まる。

 そう考えると途端に空腹も止まる。それどころか吐き気もしてくる。

「今日もエツコ来るの?」

「うんそうね……」

「たまには断ってよ」

「よっぽど来られない日はエツコの方から断りの電話を入れて来るわよ」

あたし、よっぽどお経をあげてる方がいいような気がする。多恵がそういうと、お母さんがどうして?と尋ねる。

「女の第六感」

「第六感?」

 お母さんは笑い出した。

 笑い事じゃないよ!すごく恐ろしいことが今日から起こり始める気がするの。お母さんはどうしてボンヤリしていられるの?!


             *             *


「さあ多恵ちゃん、お布施をしなさい」

「……。」

「一日に二百円。そんなにお経を唱えられないのだったら、せめてお布施をすればいいわ」

 一日に二百円。

「オバちゃんのやってることはね、日参なの」

 日参とは、暑い日も寒い日も、オバちゃんが毎日欠かさずこの家に来ること。風邪を引いたからって休んではダメ。

「そのような、少し日常をずれた行をすることが仏の世界を垣間見ることなの」

 フッ、何をお戯れを。口ではもっともらしいことを言って、実は家を空けておくと冷暖房費の節約になるから、それがエツコの日参の理由だったりして。


            *              *


 エツコは新しいプロテインを持ってやってきた。

「このプロテインはね、自然の食物よりはるかに緻密な計算がなされて、とても行き届いた管理をされた栄養素の入っているものなの。ひとが生きていくための栄養素を採るには自然の食事よりずっと効率が良くて、健康が保証されているものなのよ」

 エツコはそういう。いくらかかるんですか?とつい多恵が訪ねてしまうとエツコは、さあ、ひと月に六万円かしらねえと応えた。

「六万円ですか?!」


健康食品は薬品としての効力を認められていません。どれだけの実験をしてその効果が確認されたのか疑問です。

 短期間で次々に出て来る健康食品にはあまり期待をかけるものではないのでは、と思います。

「それでも健康食品を買うのなら、せいぜいひと月に二万円くらいでとどめておくようにした方がいいでしょう」

 ラジオでそう言っていたことを多恵は聞いていた。その話を多恵が言うと、エツコは急に恐ろしい顔になって「主人は青汁を飲んで元気になったし、体も楽に動くようになったと言うわ」とマジ攻撃的な言葉で返してきた。

 それは小学生に向かって言う語調ではなかった。思わず多恵はビビって一言も言葉が出なくなった。

 エツコはまるで悪鬼のよう。これがエツコの本態なの?


 元気いっぱいの小学生、いつも笑顔で快活な本村多恵は心が疲れて人が変わったようにかったるい少女へ豹変してしまった。

 それでもエツコは来るんだよ、毎日毎日。

「多恵ちゃん、コーヒーは?」

 多恵が疲れてボーっとしていると、耳元でささやかれる。一日当たり五百円のコーヒー。今まで買ってきた高級なコーヒーをエツコは全部飲んだ。エツコは金にしてどのくらいのコーヒーを飲んだだろう? 計算してみると八万円。……八万円?

 おいエツコ。あたしのうちの財産を全部飲み干すつもり?

 わざとまずい味にしたコーヒーを多恵が出すと、どうせ味なんて分からないんだ。エツコは一気にコーヒーをあおって、顔面いっぱいにニコニコ笑いだした。

「これいいでしょ? 多恵ちゃんのお布施でセーター買っちゃった。いいでしょ?いいでしょ?」

 エツコはいいでしょ?を二回繰り返して、念を押す。

 このように多恵ちゃんが自分の欲を離して、他人を喜ばせることが仏の第一の教えなの。これをお布施っていうのよ。

 多恵はしらッと聞いていた。あたしのお小遣いがエツコのセーターにされちゃった。

 人に財産を与えて、その人が助かったり豊かになったり、それから自分の無駄な財産を手放すことによって、自分の汚い欲望も手放すこと。それがお布施。

「気持のいいことばかりでしょ? 多恵ちゃん。これからもいっぱいお布施するのよ」

 満足げに語るエツコ。多恵が睨みつけるように見つめていることに、エツコは気づかなかった。エツコは人の顔を見て話さない。

「財産は人にどんどん分け与えたらいいのよ。欲は離しなさい。欲を離す喜びに目覚めなさい。さあ多恵ちゃん、今日もありがたいお話を聞いたのだからお布施をするのです!」

 マジでありがたいような顔になって笑ってるよ、このエツコ。何がありがたいんだか知らないが。このオバサンにどこまでもついていけば、道を間違えてあたしは命が奪われるかも。


 


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