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がん地蔵  作者: 西本麻弥
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秋の夕暮れ

 帰ろっか。

 いつの間に日は暮れて、ドッジボールの燃え上がる戦闘エネルギーは尽き果てていた。小学校の校庭が開放され女子九人の遊び仲間で興じていたのだが、お腹も空いてきたし宿題は悪夢の理科と社会である。

 校舎の教室には明かりがついている。中学受験を目指す小学六年生がこんな時間まで勉強をしている。本当はいけないんだけれど先生たちが特別に勉強を教えている。PTAが最近うるさい。居残りの児童たちばかりに特別扱いで勉強を教えることは義務教育上、不平等だと。でも黄昏どきに校舎がこうしてキラキラ白く光っている風景は、幻想的できれい。

 五年三組の本村多恵はみんなと下校路をたどった。友達と一人、また一人と別れ際に手を振りあうと、なんだか怖い映画に出てくる、仲間たちが次々と倒されて、まるで多恵が最後の一人となったシュワルツネッガーのように、敵と果敢に戦う主人公みたい。

 別れ際のたびに「多恵ちゃん、オシリお大事にね」と友達の誰もが言うもんだから、少し恥ずかしい。そういう言われ方はまるで多恵が「ぢ」を患っているみたい。ボールを受け止めるときに尻餅ちついただけなのに。

 ドッジボールって、ドッジボールだっけ? それともドッチボールだっけ? 対戦中に多恵がそう言う疑問を持ったら、「そんなのどっちでもいいんじゃない?」と言われた。

「多恵ちゃん当たり!」

 ぼんやりした多恵にボールが打ち込まれたのである。慌ててボールを抱え込もうとした多恵は瞬間に両脚を空中に浮かせて、思いきりグラウンドに落下してしまった。

 赤いチェックのスカートはひざ下まで長く伸ばすのが多恵のこだわりで、しかも一分丈のスパッツを履いているからガードは堅い。空中浮遊をしても決して誰にも見られる心配はない。

「もう痛くないよ」と商店街の八百屋の前を通り過ぎながら多恵はオシリをパンパンと勢いよく叩いてみたものの、しかし痛いものは痛い。いたたたた……、と顔をしかめるとみんなが思わずぎゃははと笑う。思わず多恵はふくれっ面をした。

 九人で帰っていたこの道も海東ちゃんと別れたら、あとは多恵一人となってしまった。学校から一番遠い場所に住んでいるなんて、あたし損してるなあと思いつつ、多恵はふと立ち止まって大きくため息をついた。

 見上げれば空も高い。朱に染まった雲にもうすぐ寒い季節が来るんだと、少女は胸に淋し気で悲しい気持ち覚えた。季節を想うという、仕込まれていくように育ちつつある感性。みずみずしくも豊かな心を持ち始めたことが、この子には少しうれしい。多恵は星がきらめき始めた空を仰いでスカートをひらりと浮かせるように、細身の体を一回転させた。ランドセルのペンケースがカタカタ鳴る。腰まで長い髪が左右の耳あたりのポイントである小さな三つ編みとともに浮き上がる。

 最近灯り始めたLED電灯。あらこんな時間になってしまったわ、多恵は家まで小走りで帰っていく。まだ胸があまり膨らまないの。それでも人並みにハーフトップのブラをして、Tシャツには「ちぇりっこ」という最近はやりの天使のキャラクターの名前が大きく書かれている。

 そんな晩秋のある日のことだった。


 少し遅めに帰った家の応接間では、つけっぱなしのBSチャンネルのテレビの前のソファに、渡部エツコという近所のオバサンが座っていた。

 五十歳を過ぎているというオバサンだけど、芸能人のような顔立ちが奇妙に若い。彫りの深い

顔、印象深い目は日本人離れをした光を放ち、高い鼻に、美術家がスッと一筆で描いたような、薄くても独特の形をした唇。

ぴしっと背筋を伸ばしてソファに座り、立ってみれば仰ぎ見るようで、若い頃だったらどんな男の人にも憧れを抱かせたのだろうか、そのシルエット。

 多恵の母親を相手にエツコは、一人悦に入って楽しそうに話していた。手を振り首を振り、落語のように一人で笑いながら話す姿に好印象を持つ。姿を見ているだけでもおもしろそうなオバサンだと思って、多恵は元気よくエツコに挨拶をした。

「こんにちは」

「あら、かわいい子。オバサンとは初めて会うわね。お名前は?」

 エツコは首をひねりつつ嬉々とした視線を多恵に向けて尋ねた。

「多恵。恵が多いと書いて多恵。本村多恵です」

「多恵ちゃんね。恵まれることが多いっていいわね。今度おすそ分けしてね」

「はい、いくらでも。余っとりますから」

 なじみやすい印象のオバサン、多恵はなんだか嬉しくなって満面の笑みで「ゆっくりしていってくださいね」と言いながら、背中のランドセルをおろして両手で抱え、理科と社会の宿題をするために二階の自室へ上がっていった。

 ところが、小学一年生から使っている学習机、あたしの気性で使うとここまで汚くなりましてよ? 部屋のドアを開けたとたんに広がる女の子の世界。ちぇりっこの「うさチャラン」のキャラクターのカーテンを閉めて、机の前に座って鉛筆削りで削った鉛筆の芯。あれ?折れちゃった。

 普通の人の使い方より約1・5倍の速さでその身を失わせていく消しゴムでゴシゴシ、二時間もかかって仕上げたプリントの間違った答えを消しているときに、頭の十五センチ上にハテナのマークが立った。

 確かにゆっくりしていって下さいと言ったけど。それはあくまで挨拶の言葉であるのに、本当でもハイテンションにエツコの高笑いが聴こえて来る。

 ま、たまにはそんな日があってもいいかな。多恵は理科のプリントを片付けるのに少し手間取り、そのあと社会のプリントにもてこずったものの、ようやくそれもねじ伏せた。

 何で今日の宿題は理科と社会なのかしら? あたくしにとって苦手な教科ばかりですわ。ふと宿題を終えた多恵のおなかが鳴る、そろそろお食事もいただきたいですわ。

 一食でもご飯を抜けば死にそうなほど痩せている、そんな多恵だけど客人が帰らないのなら仕方のないこと。多恵は部屋で漫画を描き始めた。

たわいもない夢だけど、将来は漫画家になろうと本気で夢に見ている。多分ムリだけど。毎晩遅くまで時間を忘れて描いている。多恵は漫画用の紙に線を引いて、本格的には夢に向かって漫画を描く多恵だった。

 「大王様、どうか今宵の一食を……」

「ダメだ、お前はそんな身分の娘ではない!」

 黒い仮面をつけたマントの男が立ったままでラーメンを食べている。その後ろからか細い右手を弱弱しく差し出したメイドの娘が、必死の形相でラーメンを求めている。

 マントの男、大王様は黒い仮面をつけているけれど、服装はなぜか体育の時間のジャージ。これはおそらく黒岩先生だな。

 先生、授業中にラーメン食べてるようじゃ、コレステロール値が上がっちゃってヤバいっすよ。

 多恵はバカバカしくて、一人笑ってしまった。

 次の日、学校から帰ってくると、多恵はぎょっとした。エツコはまたBSテレビのニュースのついたテレビの応接間のソファに座っていた。そして母を相手に一人喋っては一人大うけしている。

 しかも、一度話したネタで大うけして笑ったかと思えば、またその話を最初から繰り返して、エツコはふたたび一人大うけする。

 多恵が帰ってきたことに気づいてエツコは言った。

「そろそろお邪魔かしら」

「そんなことないわよ、ゆっくりしていきなさいよ」

 お母さんもお人よしだから、ついそう言ってしまう。というより、ふつうそういう挨拶は当たり前のこと。

 ゆっくりしていって、と言われても、もう時間だからまた今度ねと、さらっとした身のこなし方でお客様は帰っていくもの。ところが多恵はえ? と目を疑った。エツコはソファに深くうずくまったのである。タバコとライターを取り出し足を組んで貧乏ゆすりをはじめ、リラックスした状態に入ったエツコの高笑いが絶頂になる。マジ本気?マジ本気?マジ本気? エツコはホンマに言われた通りにゆっくりしていくつもり?

 お母さんだって余計なことを言わなくていいものを、そんなエツコにいつでも気軽にうちへいらっしゃいと右手のジェスチャー付きで付け加える。そんなことだから、エツコは本当に気軽な体裁で、毎日この本村家へ上がり込み始めたのである。

 毎日? なんで毎日? どうして毎日?


 エツコには子供がいなかった。

 新婚でまだ若かったころのエツコは、どこかほかの街で近所の幼子を連れた奥様方と毎日サイクリングへ出かけていた。そして子供がいないエツコが一人。そんなところに少し寂しさがあったのかもしれない。

 だからエツコは夫が帰ってくるまでの夜九時まで、近所の家という家をはしごしては、旦那が仕事から帰ってくるまで、自由気ままなお客様として、そこの家の子供と楽しくたわむれながら自由気ままなお客様として、それぞれの家で楽しく過ごしていたという。

 五年前にこの街に引っ越してきてからもその習慣は残り、この近所の家に軒並み同じように夜の九時まで居座っては自分一人で話し、タバコを吸っては自分一人で大うけしていた。

 だからこの近所中には文字通り煙たがられつつ、それでもくじけずに現在は本村家をターゲットに夜の九時までべらべらしゃべるエツコである。

 お母さんは突然に毎晩訪れ始めたエツコの接待に手いっぱいとなり、ご飯が作れない。だからいつまでたっても多恵もご飯が食べられない。

 エツコだって、九時まで食べなければおなかが減るんじゃないの?なのにひたすら応接間で一人話して一人で受けて大口開けて笑い続ける。お母さん、一言も言葉を返さずに黙って一生懸命にエツコの話を聞き続ける。

 おなかもすいたけれど、それ絵よりもお母さんがお風呂を沸かしてくれないし、小学生の多恵はこんな時間になると眠くもなってくる。大体、応接間を占拠されたら見たいテレビも見られない。

 しかし、エツコはいつまで立っても、まるで意地でも帰ってやるもんかとしがみついているようだった。

「多恵ちゃん、ちょっといらっしゃい」

 ある日、いつものように二階の子供部屋で漫画を描いていると、なぜかエツコに呼ばれて、多恵はウサギの白いスリッパをはいて一階の応接間へ降りて行った。そして夜の九時までエツコの話に付き合わされた。

 大人の話してることなんか、ちっともわからないんだけど。痩せてはいるけれど、ふっくらとした丸顔。そんなまだ子供の多恵。快活ながらも穏やかな印象を持った、素直で物静かな多恵の性格が、子宝に恵まれなかったエツコには気に入られた。

乳がんが見つかって、手術を受けたばかりのエツコだった。がんを見つけた医者の悪口を多恵に向かってひとしきり話し続けている。あれは日柄方角で選んだ病院が悪かったんだわと。

 何を言ってるの。もしお医者さんが、がんを見つけてくれなかったら、今頃エツコ、死んでたかもしれないんだよ? 本当はそのがんを見つけてくれたお医者様に感謝しなくちゃならないんじゃないの?

 家に帰れば夜九時まで一人きりになるエツコ、その心細いだろうエツコの淋しさをせめてかわいい盛りの娘、多恵と話をさせてエツコを慰めてやりたい多恵の母はそう思って、多恵につきあわさせた。家事をするためのいい訳でもあるけれど。

 話し相手でも何でもないじゃないの? エツコはただ自分が面白いと思った話を一人勝手に並べて笑っているだけ。しかも一度話して一人笑った後に、もう一度同じ話を最初から話し始めて、最終的に同じように一人でゲラゲラ笑っている。

 自分に子供がいない淋しさはお察しするけれど。そして、自分んが死をも覚悟しなければならない病気を患ったことの恐ろしさについても、理解は致したいと思いますけれども。

だから喋りたいだけ喋るのも無理のないことなんだろう。とは言っても、毎晩、あたしを夜の九時まで意味不明の話に付き合わせるのはどうなのか。多恵は心中複雑で、飢餓状態で、お風呂にも入らずに学校へ行く日もあり、そんな日は体中汗だらけで何だかキモい。

「やっぱり信仰は大切なものよ。多恵ちゃんも考えたらどうなの?日柄方角は見るものよ。宗教に入ることはとても大切なことなのよ」

 宗教?

 多恵は一瞬、奇妙な話に乗せられている怖さの意味が分からなかった。

「渡辺さんの話、楽しかった?」

 エツコが帰った後、お母さんは多恵に不安そうに尋ねた。

「うん、楽しかった。あんな風に毎日来てくれると楽しいよね」

 多恵は笑った。何故そんな嘘をつく?

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