「チュン」
入学してから初めての休日がやってきた。
俺は寮の裏手に広がる静かな森で、地面に描いた転移魔法陣の上に立っている。そこで本日4回目となるある言葉を口にした。
「転移」
俺の描いた魔法陣は何の反応も示さない。
「んーおっかしいな。やっぱりどっか間違ってるのか?」
俺は事前に部屋で描いてきた転移魔法陣のメモを片手に、地面に書いた魔法陣と見比べてみる。どこも間違ってはいないと思うんだが。魔法陣が間違っていないのなら、イメージが足りないせいかもしれない。
俺は改めて転移先を思い浮かべた。森が小さく開けて太陽の光が差し込み、中心あたりに切り株のある綺麗な場所だ。
俺は現在、その場所から数100メートル離れたところにいる。
転移魔法は近すぎたら発動しないようなので、十分に離れたつもりだ。
しっかりとイメージして今度こそ、と魔力を魔法陣に流した。
「転移!」
……無反応だ。もしかして俺のイメージしている場所なんて何処にでもあるのかもしれない。……たぶん、それが原因なんだろう。
シーナが本に挟んでくれたアドバイスによれば、転移先にしかないものをイメージする事が重要らしい。つまり確実にその場所を表している目印を意識する必要がある。
俺は今までよりも鮮明に、転移したい場所を思い出す。座るには低すぎる切り株と、その切り株を斧で切りつけたような裂け目に、裂け目から顔を出す小さな新芽。周囲の木々の1つには動物か魔物が爪とぎをしたような跡があった。
俺はそれらをイメージして、本日5回目の言葉を声に出す。開けた場所から見えた、一番背の高い木にマジロンっていう魔物の巣もあったな。
「転移!」
足元の魔法陣が強く光る。成功だ!
「チュン」
「え?」
目の前にマジロン。そして眼下に広がる美しい森。
「あっっおわあああああああああああ!!」
おっ落ちっ嫌だああああああああああ!! 死にたくなっあっ風魔法で!!
「竜巻!!」
手から地面に向けて放った魔法が俺を浮かせる。しかしそれも一瞬。空中という不安定な場所で魔法を出しても反動を受け止める地面はないわけで、俺の身体は半回転した。地面に向けていたはずの竜巻を空へ放ち、俺は反動で逆方向へ飛ばされる。木に背中からぶつかり、一瞬呼吸が止まる。細い枝や葉を散らしながら、このままじゃ俺は地面へ一直線だと分かっても何もできない。俺は無意識のうちに頭を守るように手で庇った。地面が迫ってくる恐怖は数秒間だけで、体の左側面を強くぶつけて転がった。目に火花が散る。
「ぐっう゛っ」
頭がぐらぐらと揺れ平衡感覚をなくし、立とうとしたのに仰向けに転がってしまった。遥か頭上にマジロンの巣が見える。……俺はあの高さから落下したのか。
俺は嘆息して体を起こした。体中が痛い。全身を打撲し葉っぱに皮膚を少し切られ、特に左肩が痛い。俺は左肩を押さえてもう一度嘆息した。
俺の後ろの方で葉の擦れる音がする。もしや魔物か!? 俺は瞬時に戦闘態勢に入ろうと振り返りざまにダガーナイフを取り出し構えた。
「何してるのよ」
シェリーだった。
「何かすごい音がしたと思ったら、あんただったのね」
「シェリーこそ何して」
俺は言葉を継げなくなった。もしかして、見られたか? 俺は一応、学校では火と闇しか使えないことにしている。風魔法を見られたのなら……どう言い訳すればいいんだ。他属性の練習を誰にも見られないようにと思ってこの森まで来たのに、シェリーがいるなんて。
「アタシは散歩よ? あんたこそ何してるのよ。木から落ちてきたみたいだけど」
「いやっその、あー……どっから見てた?」
「……怪しいわね。ほんと何してたのよ。あたしはあんたが木から落ちるところしか見てないわ」
「そ、そうか」
俺は胸を撫で下ろす。風魔法について訊いてこないところをみると、見られてはいないようだ。だがシェリーは怪訝な目で俺を見ている。
「その、魔法の練習だよ。誰にも見られたくなくて」
シェリーの表情が一転、感心するような表情になった。
「あんた意外と真面目なのね。ならあたしは邪魔にならないように散歩に戻るわ。でも掠り傷だらけよ? 日曜日でも保健室は空いてるから、一度見てもらった方がいいんじゃない?」
それだけ言うと、シェリーは森の奥に消えていった。
確かに傷だらけだ。保健室、行きたいけど遠いな。
俺はとぼとぼと歩いて校舎の中に入る。さっきに死にかけたんだ。テンションが下がるのは普通だと思う。
閑散とした校舎はどこか新鮮で、それだけで少し気分が戻った。戻ったというよりは気を逸らされた感じだが。
気の向くままに廊下を歩いていると、保健室はすぐに見つかった。
スライド式のドアを開く。
「おじゃましまーす……」
どんな先生がいるか分からないので自然と声も控えめになる。
「ん? いらっしゃ、やだ! 傷だらけじゃない!」
かわいい。第一印象はそれだった。目がくりっとした金髪ゆるふわパーマの女性に椅子へ座らされる。ああ、この世界にパーマはないから癖毛かな。
先生は俺の頭に手を置いて髪をかき分ける。頭は怪我してないねと言うと、壁際にある棚に小走りで駆け寄った。
「えと、ガーゼと、消毒と、えと……」
一人で言いながら、俺の胸ぐらいまでの身長を必死に伸ばして棚から瓶を取る。瓶を胸に抱えて……胸でけぇ。あ、いやなんでもない。
「大丈夫? どうしたの? あ、脱いでくれる?」
先生は瓶を開けながら俺に服を脱げと催促した。俺はシャツを脱いで待機する。
「下もだよ? 足も怪我してるでしょ」
見抜かれてた。俺はパンツ一丁になって待機する。
先生は左肩を触って、骨折はしてないみたいだと漏らす。消毒液に浸したガーゼを擦り傷に当てられ、訊かれた。
「どうしてこんな怪我したの?」
「えーと……木から落ちて」
「どうして木から落ちたの?」
「ええ……と、なんとなく」
俺は答えを濁す。我ながらもっとましな誤魔化しかたができないのかと思う。なんとなく木から落ちましたなんて、お粗末な言い訳だ。転移したら空中だったなんて本当の事は、恥ずかしくて言えない。
俺の煮え切らない返事に先生は困ったような顔をしたが、それ以上は訊いてこなかった。
傷口が消毒液で冷たい。
先生は指先に光の玉を作って掠り傷に沿わせた。あっという間に傷が治っていく。
「あんまり無茶しちゃだめだよ?」
「はい」
次は手のひら全体に光を纏わせて、俺の左肩へ当てる。
「冷たっ」
「我慢してね? 骨折はしてないみたいだから、幹部を冷やしてれば今日中に治るよ」
「そうですか……」
魔法って便利だなっとつくづく思う。肩の痛みが引いていき、筋肉を動かせるくらいにはなった。けどまだ少し、皮膚は紫っぽい。
先生は俺の全身の打撲に治癒魔法をかける。
先生に任せとけばいいやと完全に油断していたら、ドアが開いて誰かが入ってきた。誰だ。俺、今パンツ一丁なのに。
「エル! おは……うお、アリミヤじゃねーか。どうした?」
ヴォルク先生だった。よりにもよって、ヴォルク先生か。
「何だ先生か」
「何だとはなんだ」
やだなー。あの時のこと訊かれたらどうしよう。忘れてくれればいいのに。人って強い衝撃を脳に受けると記憶なくなるみたいだけど、今更やっても遅いかな。
「木から落ちたんだって」
「はぁ? 何してんだアリミヤ」
魔法の練習し・て・ま・し・た。なんだか俺が間抜けみたいじゃないか。……間抜けだけども。
俺がふくれっ面で何も喋らないでいると、先生は眉をひそめて心配げに言った。
「お前……話したくないことは話さなくていいけどな。ちゃんと何かあるなら言えよ? 俺はお前の担任なんだ」
……なんだか気が抜ける。この人は無理に聞きだしてこないみたいだ。何はさておき俺の気持ちをくんでくれたのか?
「んな意外そうな目すんな。少しは信用しろっての」
……この学校は、いい大人が割といるのかも。
「はいっ終わりっ」
左肩をパーンと叩かれる。
「いっで」
「あ、つい」
ついじゃねーよ。
「なぁエル、今日空いてるか? 暇ならデートしよう」
……? はっ? デートだと!?
「駄目だよ。日曜日だって怪我してくる子はけっこういるんだよ?」
「そうやって一度もデートしてくれないじゃないか。いつになったら予定が開くんだ」
「エルの予定はいつでもいっぱい埋まってるの。カイが待っててくれたら、いつか開くかもしれないよ?」
小悪魔的な笑みを浮かべて、ヴォルク先生を見つめるエル先生。俺はお邪魔か!? くっそ出るタイミングが!!
「アリミヤ。気をつけろ。可愛いからって油断してると心臓をやられるぞ」
経験談ですね。
「それにこいつは男だ」
え? いやいや。それはない。
「それは嘘でしょ。エル先生が可愛いからって独り占めしようと」
「やだっ言わないでよばかああああ」
エル先生は俺の言葉を遮ってヴォルク先生の胸を叩きまくる。ダメージは低そうだ。むしろかわいいのに、かわいいのに男! 本人がこの反応なんだからおそらくほんとなんだろ……けどちょっと現実を受け止めきれない。え、じゃあ胸は!? その豊満な胸は一体……!?
俺は次の瞬間青ざめた。全身が震えだして止まらない。ヴォルク先生は……。ホモ。
「おい、何遠ざかってんだ。言っとくが俺はホモじゃねぇ」
「でっででも」
「心が女ならこいつは女だ。そうだろ?」
「カイったら、もう」
エル先生が照れたように笑って、右手でヴォルク先生を叩く。いやビンタする。素晴らしい音が鳴った。
俺は目の前で起きたリアルに意識がぼんやりしてくる。いけない。俺にはまだ早すぎる世界だった。
「俺用事あるんで!!」
叫んで保健室から飛び出した俺は校内中を走り回って頭を冷やし、なんとか現実を直視した。