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蜜内カンケイ

作者: 色堂

「あ、佳苗(かなえ)さん」



 終業のベルが鳴って学生がどやどやと講義室から溢れ出していく。ドアの近く、一番後ろに座っていたわたしは、たくさんの色の中から見慣れた黒髪が近付いてくるのを見つけて声を掛ける。


「おー、さつき、おっはよー」

 佳苗さんは簡単にわたしの音を拾って、どこにでもある言葉をわたしにくれた。

 シュウカツのため、と言って黒く染めたショートヘアは良い感じに色が抜けていて、光が当たれば少し赤っぽく見える程度に揺れていた。


「佳苗さんいたの気付かなかったです」

「授業終わる20分前に入ったもん」

「まじですか、間に合いました? 出席」

「超ギリギリで出席表出せたよー」

 ナイスタイミング、と言って佳苗さんはカラカラと笑った。


 わたしはこの人が、少し苦手だ。


 性格が悪いとかそんな安っぽい理由なんかじゃない。佳苗さんは性格が悪いわけじゃないし(かと言って特別いいわけでもないけれど)、顔が特別綺麗なわけでもない。

 親しみやすいのだ。

 好かれているのだ。誰からも。

 でもだからってクラスの中心人物になるわけでもなく、学級代表に選ばれるタイプでもない。どこにいても誰といても自然で楽しそうで、先輩にも後輩にもウケがいい。

 みんなに愛されるくせにちゃんと居場所は確保していて、いつも大きく笑う。楽しくないときは楽しくなさそうな顔をするし、文句も愚痴も言う。

 裏が無い、訳ではない。

 裏が無さそうに見せるのが上手いのだ。


「佳苗さん、サッカー部の新歓来ますよね?」

 講義室を出て食堂へ向かいながら、わたしと佳苗さんはぼんやりと会話を続ける。さっきまでの授業の甘ったるい空気を体にまとったまま、廊下にベタベタと貼られたサークル勧誘のチラシが流れ行くのを感じた。

 佳苗さんは20分しかあの教室にいなかったせいもあって、わたしより視界がはっきりとしているようだ。何人かの友達に挨拶をしながら、するりと返事をした。


「あーうん、行く行く。いつだっけ?」

「25日です」

「多分行ける、はず」

 良かったー、と息を吐く。佳苗さんがいるのといないのとでは、サッカー部の空気が少し違う気がするのはわたしだけではないはずだ。


 佳苗さんは練習に滅多に顔を出さない。

 マネージャーは多いから何の問題もないのだが、飲み会の席となるとまた違ってくる。

 話し上手でいい雰囲気を持っている佳苗さんを最も必要としているのは年上の先輩達だ。一見ストイックな先輩も、佳苗さん相手だとよく喋る。


 人を柔らかくさせる空気を、彼女は持っていた。



「かなえーーーー!」

 食堂に近付くと、声が飛んできて顔に当たった。食堂横に設置されている喫煙所の方からだ。


「おー和泉(いずみ)ー!」

 大声で呼ばれても、ちっとも急ぐことなく悠々と歩く佳苗さんは、キャピキャピした女子大生とは少し違う。喫煙所にいる先輩たちは、みんなキャピキャピとは程遠い人種だとも思うけれど。

 煙を作り続ける煙草を指と指の間に挟んだまま、和泉さんは足をバタバタさせながら、佳苗さんの名前をたくさん呼んだ。なんとなく着いて来てしまったわたしの挨拶に軽く返事をくれたあと、和泉さんはすぐ佳苗さんに向き直った。向かいに座っていたリオさんが、煙草をくわえながらいつもに増して面白そうな目をしていて、わたしは何かを予感した。


「かなえ」

 和泉さんはそう言ってたっぷり溜めたあと、ノリがやられましたー! と一息に言ってから、たくさん笑った。

「は?」

「ノリが、ヤられたらしいの。昨日」

「襲われたの? 誰に? 前の大学の先輩、また来たの?」

「いやなにそれ? いつの話よ」

「1年の時かな」

 佳苗さんは笑った。

 わたしはこのままこの場にいるべきなのかどうか迷っていた。今のうちに立ち去るべきなのかもしれない。でもわたしが今ベンチから立ち上がることで、この空気を揺らすことは何故かできなかった。ちらりとリオさんを見ると、白い煙を吐き出す整った顔がわたしに気付いて優しく笑った。


 わたしはこの人達が好きだ。甘ったるい空気と薄っぺらい腹黒さが溢れ出して微睡みを与える。この空間の外にある忙しくて厳しい現実を、弾力性のある薄い膜で跳ね返すこの人達は、まるでわたしを見ていない。甘くて汚れた空気を吸うために集まるだけだ。

 わたしも彼女達のことを深く知ろうとは思わない。空気に触れるだけでいい。


 わたしはこの人達の前では、立派な空気になる。



「それで?」

 誰にヤられたの? と佳苗さんは話を続けた。佳苗さんは煙草を吸わない。

「三木さん」

「おおう」

 想定範囲内、と言って佳苗さんはまた笑った。和泉さんがトントンと灰皿に灰を落とす。細くて綺麗な指が揺れる。爪には何も塗ってはいなかった。

 わたしは三木さんと言う人を知らない。でも何となく事情は掴めた。問題はノリさんの彼女だ。

 いやそれが、とリオさんが受け取った話のバトンは、すぐに近付いてくる足音に盗られた。



「ノリさん」

「あ、さつきおはよ」

 いつもどおり、飄々とした出で立ちで登場したノリさんは春らしく緑のカーディガンを羽織っていて、まるで何もなかったかのようにスイスイと歩いた。


「ノリ! おいお前!」

 ノリさんがリオさんの隣に座るやいなや、彼女達の好奇心が音になった言葉でノリさんはたくさん刺された。

 ノリさんはへらりと笑いながら、わざとらしく、え? と首をかしげた。

「え、じゃないよ。三木さんと何があったか説明」

「情報早いな」

 相変わらずノリさんは笑っている。わたしはノリさんが愚痴を言ったり怒ったりしているところを見たことがない。きっと知らないだけなのだろうけれど、わたしの中ではノリさんは、果てしなく甘い男の人だ。ウェブがかった茶髪が暖かい春風で揺れて、ノリさんの手の中でカチリと響くライターの音が舞った。


「いや、昨日竜(りゅう)さんに仕事手伝ってくれって呼ばれたから顕太(けんた)と一緒に行ったんだよね」

「ほう」

「そしたら三木さんも手伝いに来てて」


 わたしは佳苗さんを見た。口元が笑っている。いつもそうだ。人の話を聞いている時の佳苗さんの口はいつでも猫みたいに曲がるのをわたしは知っている。それが彼女にとって嬉しい話でも、悲しい話でも、目の前の人を包み込むように穏やかに吸い込む。彼女は今、何を思っているのだろう。

 和泉さんとリオさんは身を乗り出して、ノリさんの話にうんうん、と頷いた。


「で?」

「で、一段落して竜さんに飯奢ってもらって、顕太と竜さんとはそこで解散したんだけど、三木さんが久しぶりにクラブ行きたいっつーから行ったの。俺も久しぶりだったし」

 お金あったの? と佳苗さんが聞いた。ノリさんは大体いつもお金がない。ご飯は食べなくても煙草は吸うんだよ、と、いつか佳苗さんが困ったように笑いながら教えてくれたのを思い出した。本当にダメ男だけど、何故か愛される人なの。得だよね、なんて羨ましがる佳苗さん自身もきっと人から愛されている。

「三木さんが出してくれた」

「へえ」

「で、あの人楽しむだけ楽しんで一人で酔い潰れてさ、タクシーでとりあえず竜さんちに置きに行ったんだよ」

 そこでノリさんは一息付いて、じりじりと灰になっていく煙草をトントンとした。口を付けて煙を吐く。ケムリってそんなに美味しいのだろうか。わたしには分からない。

 竜さん、というのはお金持ちの昔の卒業生で、 なんだかよくわからないけど色んなことをしている、らしい。可愛がられているノリさんや顕太さんはたまに呼び出されて、日雇いのバイト感覚で仕事をもらっている、らしい。わたしは会ったことがないけど。

 キラキラのお日様は明るい日差しをたくさん作って、地面に落とし続けている。此処は雨よけがあるお陰で、まだ直接的な攻撃は受けない。安全地帯の中で、先輩たちの言葉は自由に踊る。

「そしたらなんか泊まることになって、空き部屋で寝ることになって」

 気付いたら多いかぶさられてたわけ、とノリさんが軽く笑った。

 それヤバい、とリオさんが笑う。じゃなくて、と和泉さんの言葉がノリさんに向いた。

「ノリもその気になったの? (まどか)がいるのに?」

 一瞬空気が冷えた。和泉さんは笑ってない。

 佳苗さんがこっちを向いて、困ったように眉を下げた。

 生暖かい空気がさらりと吹いて、和泉さんの生み出した煙が佳苗さんに当たる。佳苗さんは煙草を吸わないけれど、吐き出された煙は同じくらい吸い込んでいると思う。わたしもこのにおいには随分慣れた。



「もちろん抵抗はしたし最後まではやってないよ」

 あっけらかんとノリさんは言い放った。


「え、なに、最後までいってないの?」

 それまで問い詰めるような目線を送っていた和泉さんは、ノリさんの答えを聞いて素っ頓狂な声を上げた。リオさんも佳苗さんも、一気に肩透かしを食らったような顔でノリさんを見ている。


「いってないよ」

 ノリさんは笑っている。ああこの人はきっとこの世界の攻略方法を知っている。甘い空気しか感じないのはそのせいだ。

 わたしにはノリさんの表面しか見えない。裏なんか見たくないし見る機会もないだろう。

「じゃあ何も問題ないじゃん」

 少しだけ期待はずれのような顔をして、佳苗さんは鞄からペットボトルの紅茶を取り出して一口飲んだ。ほんとにね、ノリくんすごいわ、とリオさんも新しい煙草に火を付ける。和泉さんは大きな伸びをした。

 この人達の中で問題となるのは男女の関係、つまりセックスをするということで、それ以外は例え何をしようと何を考えてようときっとなんとも思わない。言葉を作るとするなら、理解がある、のだ。

 それが良いことなのか悪いことなのかはたまた愚かなことなのかわたしには分からない。なんとも思わない。ただ、居心地がいいことは確かだ。

 風が吹いて、敷き詰めてあるタイルからはみ出た雑草がさわさわと鳴った。


「あ、そだ、わたしちょっと先生に出さなきゃいけない書類あるんだった」

 佳苗さんが区切りをつけたように話を変えた。

「なに? そんな書類あったっけ」

 佳苗さんに真っ先に反応するリオさんは、佳苗さんと同じゼミだ。

「今度授業休むから休講届け? みたいなやつ」

「あー就活だ」

「そうだよー」

 頑張れ、と声を掛けるリオさんは就活を始めてすぐ内定を貰い、和泉さんは大学院の試験の為に準備をしているらしい。もう一年留年が決定しているノリさんを除けば、此処に来る人たちは皆、外の世界ではそれなりにちゃんとしている。見せないだけだ。甘い世界に取り付かれてばかりいるわけじゃなく、だからこそ蜜を欲しがって集まってくる。

 蜜を舐める場所に現実はいらないのだ。


「あ、じゃあわたしも授業あるのでここで失礼します」

「うん、またねーさつき」

「はい」

 わたしはペットボトルを鞄にしまう佳苗さんに合わせて立ち上がる。あ、そうだ、とノリさんが煙を吐いた。

「佳苗、今日買い物着いてきて。円の誕生日プレゼント買う」

「え、今日? いいけど、何時?」

「何時でもいーよ、用事終わったらメールして」

「分かった、じゃあもうちょっとゆっくりしてて」

「オッケー」


 まだのんびりと春の陽気と戯れている三人に背を向けて、わたしと佳苗さんはゆっくりと歩き始める。佳苗さんはわたしの方を向いて、居づらかったでしょ、ごめんね、と穏やかに言葉を紡いだ。

「いえ、逆に居てよかったんですか?」

 デリケートな話なのに、と繋ぐと、佳苗さんは全然問題ないよーと笑った。

「本当にデリケートな問題なら、あんな所では喋らないよ」

「ですよね」

 この人達は、あの喫煙所の外ではもっと密接にお互いの事を知り合っている仲なのかも知れない。だからこそ、開放的なあの場所でだけは、わざわざ表面的な甘さに酔うことを義務付けているのかも知れないとも思った。


「佳苗さんこの後どこ行くんですか」

 ノリさんと、というわたしの質問に、知らない、とため息混じりに答える佳苗さんの目は困ったような形をしていたけれど、きっと彼女はそれを楽しんでいる。佳苗さんとはそういう人だ。佳苗さんがする事は何でも楽しそうに見える。羨ましい。嫌になるぐらい。

「でも慣れたよ。範行(のりゆき)って基本的に行き当たりばったりなのに上手くいくんだよね。ま、単位の取り方は知らないんだけど」

 佳苗さんは笑った。キラキラとまつげが揺れる。

「仲良いですよね、佳苗さんとノリさんって」


「うん、わたし範行のこと本当に大好きだから」


 佳苗さんは笑う。ノリさんには円ちゃんっていう彼女がいるんですよ、って言ってもこの人はきっと分かってるよ、って答える。

 この人はきっと、

「入学した時から一緒にいるしね。この大学で多分一番わたしのこと知ってるし、わたしも他の人よりかは彼のこと知ってると思うし」

 全部わかってる。

「円ちゃんには悪いけど」

 ノリさんの甘い空気も、少し歪んでいることも、許される範囲も、言い方すらも。全部、全部。


 この世界の攻略方法を知っているのがノリさんなら、わたしたちの世界の成り立ちを知っているのは彼女だ。

 彼女は、何を考えてるの。


「本当に大好きなの」


 佳苗さんが苦手だ。


 さつきは授業だよね、じゃあわたしこっちだから。またね、と言って私とは違う方向に向かう佳苗さんが渡してくれた笑顔が残る。

 颯爽と歩く佳苗さんはわたしには到底敵う人ではなかった。柔らかく靡く髪がひかりを浴びて、春の陽気が香った。



停。


 お久しぶりです。

 とってもとっても実話から来ています。表面上のような、分かりきった上での飾りのような、なんだか不気味に感じて頂けたら幸いです。


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